今日は心理的なお話です。

「自分の弱さに向き合えると、現状から出やすくなる」というお話をしてみましょう。

 

「これは普通の人にはできない。だまされちゃいけない」という思い

とあるところで、こういうツイートがあったんですよ。

それは、「あの成功者がこうアドバイスしているけど、それはあの人にこういう幸運があったからだ。だから普通の人にはできない。だまされちゃいけない」みたいに。

例えば実力のある親がいて教えてもらえていたり、裕福な家の子として生まれたり、人との運のいい出会いがあったり、時代に合った流れに乗れたり、安価で材料が手に入る環境にいたり。

 

まぁ、そういう「その人だけが、特に恵まれていた要素」というのは、いろいろあるかと思います。

ある意味、そういう「強みとなる要素」があるからこそ、何かをうまくできるわけで。

で、それを見て、その人は「だから普通の人にはできない。だまされちゃいけない」と言っていたと。

 

本当は「自分は現状から出る力がなくて、悔しい」

こういうのを見ると、「おしいな。見る目はあるので、自分の弱さを直視できれば、もう少しでうまくいくのにな」と思ったりもするんですよね。

というのも、そこには「現状の自分が正しくあって欲しい」という、そういう欲求が見えるように思います。

 

これはある意味で、「こじれている」と言えるかと思います。

本当は、「自分は現状から出る力がなくて、悔しい」、「自分にもそういう豊かになる特殊な力がなくて、悔しい」が正直な表現じゃないかと思うんですよ。

その本心を見ることができないから、こじれてしまって、「だまされちゃいけない」みたいに変な行動をしているように感じます。

 

過去の傷を回避しようとすることで、見当違いの行動を起こす

ひょっとすると、過去にその人は周囲から、「お前は無能だ」とか「お前は欠点だらけだ」と見下されたり、嘲笑されたのかもしれません。

特に子供時代は、自力では生きていける力を持たないので、「周囲からの迫害」はできるだけ避けようとします。

それで頑張るんですが、個性が強い人ほど「周囲と同じようにすること」ができないんですよね。

すると、それが傷となって、「これ以上傷つきたくない」と思うようになります

 

で、そういう「過去の傷」を思い出させるような出来事は、何度も触れたくありませんよね。

そういう過去を思い出すたびに、そのときの苦しさを再体験してしまうからで。

すると、例えば成功者が「こうすればいいよ」とアドバイスをしていても、無意識に自分と成功者を比べてしまって、「自分はあの人よりも劣ってしまっている」と感じてしまいます。

だから、どんなにいいアドバイスをしていても、それを受け取れなくなります。

 

そして、「あいつはこういう特殊な幸運があったからだ」という風に、「あれは例外だ」とすることで、自分を守るわけです。

時に、「お前は無能だ」、「お前は欠点だらけだ」という過去の痛みを思い出してしまうことで、「自分を傷つける奴は許せない」と、攻撃をするようになります。

だから、「だまされちゃいけない」と、「自分が正しくて、相手が間違っている」と攻撃するわけですね。

 

復讐心から徹底的にたたいてしまう

他にも、地位や社会的評価を持つ人が失敗すると、徹底的にたたく人がいます。

それも同じように、「過去に、できなくて見下されて苦しんだときの傷と、その恨み」があるから、復讐心から徹底的にたたくようになってしまうと。

 

また、「自分や周囲は普通にできるのに、他のとある人にはできないもの」があった場合、その人を見下したり、嘲笑するようになります

それは、根底にはそういう「周囲と違ってできない部分があると、周囲から見下される。周囲から排除される」という不安や恐怖があるからですね。

そして、「自分もいつそうなるか分からない」、「自分にもそういう弱い部分があることを、周囲に知られたくない」とおびえているからこそ、「普通にできないのは許せない」と、普通にできない人をたたくようになります。

今まで自分がそれに苦しめられていたのに、そういう「見下されること」が大嫌いだったのに、気がつくと自分もそういう「見下し、嘲笑する人」になっているわけです。

 

で、そういう状況になると、もはや「現実の自分」を見ることはありません

どんなに矛盾した行動を取っていても、「自分は正しい。だって、周囲と同じだから。普通だから」と信じて行動してしまうわけですね。

ある意味、「私は普通だから」が、すべての免罪符になっていると。

そういう「普通」は、責任逃れをできるので、とても居心地がいいものです。

だからこそ、現状から出ることはなくなってしまって、永遠に「その状況に居続けて、自分を正当化し続ける」ということになってしまいます。

 

弱さに向き合えると、こじれた行動をやめられる

でも、本当の欲求は違うと思うんですよ。

本当は、「こういう現状から出たい」とか、「自分ももっと豊かになりたい」だろうと思います。

そして、本心では「自分は現状から出る力がなくて、悔しい」、「自分にもそういう豊かになる特殊な力がなくて、悔しい」かなと思います。

 

で、この弱さに向き合えると、こじれた行動をやめられますよね。

だって、どんなに周囲をたたいても、力がある人の失敗をたたいても、力のない人を見下しても、自分は現状から出られないんですから。

そして、「自分も、自分が持つ何らかの特殊なものがあるはずだ」と思うことで、素直にいろんな学びを受け取れるようになります。

 

「自分は特殊でいい」とすると、発想を変えられる

特に、過去に「お前は無能だ」とか「お前は欠点だらけだ」と見下された人ほど、そういう個性を持つことが多いように思います。

というのも、個性があるから他の人と同じようにできなかったわけで。

 

そしてそれを受け入れられて初めて、「ああ、自分は特殊でいいんだ。この特殊な点を強みとすればいいんだ」と発想を変えられます

自分の身の回りにある「特殊な点」に目を向けられて、「あ、こういういい部分があった」と発見してゆけます。

 

例えば周囲に畑ばかりある場合、「近所の人に相談すれば、畑を借りることもできる」、「自由に作りたい作物を試せる」と気づくかもしれません。

近所に鉄工所がある場合、「相談すれば、鉄加工をしてもらえるかもしれない」と気づくでしょう。

自分の性格とか、苦にならないこと、実は楽にできること、集中したり熱中できること、そういう「人とは違う部分」にも目を向けられます。

そうやって、いろんな可能性に気づいてゆくわけですね。

 

身近な「特に恵まれている要素」ほど、気づきにくいもの

実際に、私自身も、最近になって「これ、すごい環境にいるな」と発見したこともあるんですよ。

それが、「近所にじーちゃんばーちゃんがやっているような店があって、そこで季節野菜をすっごく安く買える」ということですね。

そういう小さな発見で、大きな利益を得られることもあるわけです。

 

他にも、「質素さを追求して、どんどん自作部分を増やして、作ることを楽しむこと」を、才能だと気がついたり。

そういう身近な「特に恵まれている要素」ほど、気づきにくいものなんですよね。

 

なら、いろんな成功者のメッセージも素直に受け取れて、「こういう系統の素質があれば、こういう系統の成果を作れる」と、学びを得られます。

ただ単純に具体事例だけでなく、原理を知って応用できるようになったりして。

もし他に成功例がないほど個性が強い場合、「自分が自分の個性で初めて成功する人」になればいいだけです。

そうすることで、自分に素直になれて、現状から出られるわけです。

 

まとめ

なので、自分の弱さを認めることも、一つの手かなと思います。

自分の弱さを認めれば、他者にも「弱くていい」と許せますからね。

「私も完璧じゃないし、よく間違いもする。だから他の人も間違って当然だ」と、寛容さを得られるわけです。

 

私の中では、そういう自分の弱さを認められる人ほど、周囲に優しくできるし、現状から出られるんじゃないかな、と思います。

「間違っていい」とできるから、新たな世界を試せるわけで。

だから、無理に「強くなきゃいけない。正しくなきゃいけない」とする必要はないんだと。

「弱くていいよ。時に間違ってもいいし、間違い続きでもいいよ」と柔らかくなることで、自分に素直になれて、現状から出ることもできる、ということです。

 

ある意味、これは柔道みたいに、受け身をうまく取れるようにするスタイルですね。

「強くなきゃ」というのは、「一度も負けてはならない」というスタイルです。

それは強くなることに集中できるのかもしれませんが、負けることに恐怖を感じるし、一度投げられると大けがをしやすくて。

でも、受け身を柔らかく学べていれば、倒れる恐怖も痛みもなくなるので、どんどん試せると。

なら、どちらが現状から出やすいのかというと、私は「後者の方が、気楽だしいいな」と思って、そっちをメインスタイルにしているだけです。

 

そういう、柔らかく、優しく、そして豊かになる、そういう道があると分かると、こじれから出やすくなるかもしれません。

で、自分に素直になって、自分の弱さを受け入れることで、現状から出やすくなるかもしれません。

 

ということで今日は、「自分の弱さに向き合えると、現状から出やすくなる」というお話をしてみました。

今日はここまで~。

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