今日は、結構どうでもいい雑記です。
「井の中の蛙(かわず)」の元となる教えが面白かった、というお話です。
「井の中の蛙」の後半
「井の中の蛙(かわず)、大海を知らず」ってことわざ、ありますよね。
で、たまにその後に、「されど空の青さを知る」って言葉をくっつけることがあるじゃないですか。
きっと、「海は知らないけど、空の青さを知ってるよ」という内容を伝えたかったんでしょうが。
でも、私はずっと、この「されど空の青さを知る」って後半を聞くたびに、強烈に「それは違うやろ」って感じていたんですよ。
で、その「なんか納得できない感覚」をようやく言語化できるようになったので、今日はそのお話をしてみましょう。
「井の中の蛙」の元ネタは荘子
ってことで、今日のネタツイートです。
日本人「井の中の蛙大海を知らず、されど空の蒼さを知る」
荘子「いや、後ろの句は知らんし……意味変わってるし……」
※荘子、秋水:「井の中の蛙、大海を知らず。今君は大海を見、自分の愚かさを知った。これでようやく貴方と真理を語り合えるようになったよ」
— 神奈いです (@kana_ides) September 5, 2021
「井の中の蛙」という故事は、元は荘子の内容から来ていたようで。
ちなみに荘子は、老子と同じように、「周囲に惑わされずに、マイペースで生きようよ。自分にも周囲にも優しくしようよ」という生き方が好きな人です。
「世の中の競争とか奪い合いって、しんどいよね。だからそういう奪い合いはやめて、無理せず自然に生きようぜ」
そういう、「ポジティブ一直線で奪い合うよりも、自然がいいよね。なら、陰と陽って考え方がいいよね」的なスタイルですね。
元の教え
で、その荘子の元ネタから言うと、「井の中の蛙」の後半は、どうやら別の意味だった、ということです。
「君は井の中の蛙だったけど、今、大海を知った。これでようやく、私と世の中の理(ことわり)を語り合えるようになった」
……という意味だそうで。
これはある意味、「自分の小ささを知ることで、大きくなる」という教えになるように思います。
黄河の神様のお話
元は、黄河の神様のお話です。
黄河の神は、「自分が世の中で、最も大きく、偉大な神だ」と思い込んでいました。
だけど、あるとき自分よりも大きな北海という存在を知り、「自分は最も巨大でもないし、偉大ではない」と知ります。
そこできっと黄河の神は落ち込んだんでしょうが、北海の神は、そんな「現実を知った」黄河の神を見直すわけです。
それまでは、北海の神は、黄河の神を「世間知らずだ」と相手にしませんでした。
だけど、黄河の神が現実を知ったことで、北海の神は、黄河の神の存在を認めます。
その時に、「君は今まで、黄河という狭い世界しか知らず、井の中の蛙だった。だけど今、大海の存在を知った。今の君となら、世の中について語り合えそうだ」と言われた、という内容です。
自分の小ささを知ることで、大きくなる
これで、ようやく私の中にあった「されど空の青さを知るって、なんか違うよな」という感覚が分かったように感じます。
というのも、「されど空の青さを知る」って、ただの言い逃れでしかないじゃないですか(笑
それは、今の自分を正当化をしているだけでしかないと。
「私は何も悪くない。私は変わりたくない。世の中やその変化なんて、知りたくもない。今まで通りに生きたいんだ!」と、現実や変化を拒絶しているのと同じです。
荘子が教えているのはそうではなくて、「自分の小ささを知ることで、大きくなる」ということだろうと思います。
ある意味、「この変化する世の中で、自分はどう生きるのか、それに向き合いなさい。すると、自分の小ささを知ることになるけど、同時に自分の意味や可能性を知って、大きくなれるよ」という教訓かなと思います。
私なりに教えを変えてみる
おそらく、「されど空の青さを知る」って、「他の人が知っていることは知らないけど、専門的なことは知ってるよ」と言いたいんでしょう。
でも、その場合は「井の中の蛙、大海を知らず」と前振りをする必要性がありません。
完全に意味のない、無駄な前振りですよね。
もし「されど空の青さを知る」という意味をを伝えたいのであれば、私ならこうするかなと思います。
「井の中の蛙、大海を知らず。その後、大海を知り、自ら井に戻る。そうして井の中で意味あることをなして、空の青さを楽しむ」かなと。
もっと短くすると、「大海を知る蛙、井の中を選ぶ」とするでしょう。
すると、「大きな世界を知った上で、あえて小さな生き方を選ぶ」とできるので、「自分からニッチな生き方とか、少数派を助けるための生き方を選ぶ」という道を教えられます。
ある意味、大海を知らない場合、コンプレックスを持ちやすいんですよね。
でも、一度大海に出て、「あ、これは違うわ。これは自分には合わない世界だわ」と分かると、そのコンプレックスを手放せるように思います。
すると、「競争したい人は、競争すればいい。私は自由にマイペースに生きるのが好きだから、田舎で好きなことや意味あることをして、自由に生きるよ」とできます。
そういう形なら自己正当化もせずに、いい教えにできそうに感じます。
まとめ
そういう風に考えると、「されど空の青さを知る」という部分の違和感を、うまく説明できそうに思います。
元は、「自分の小ささを知ることで、自分の意味を考えて、より大きくなれる」という意味だということですね。
それを、「されど空の青さを知る」と自己正当化をすると、現状維持をしちゃうんですよね。
まぁそれはそれでひとつの生き方でしょうが、世の中が変化する時代には、きっと苦しくなるだろうなと思ったりもします。
老荘思想は、競争が苦手で、マイペースで生きたい人には合う内容なので、興味がある人は見てみるのもいいでしょう。
私がよく言う「陰と陽」とかも、元は老荘思想です。
まぁ私の内容は、いろんなところから取ってきているので、だいぶ独自なものですが(笑
でも、そういう「独自なスタイルを作る」というのも、いいかなと思います。
ということで今日は、「井の中の蛙(かわず)」の元となる教えが面白かった、というお話でした。
今日はここまで~。