今日は精神的なお話です。

「自分軸を持っている人は、それだけで魅力的」というお話です。

 

日本では「痛々しい」でも、アメリカでは「クール」になりうる

まぁよく言っていることですが、私は米軍基地の隣に住んでいるんですよ。

で、近くにアメリカ人向けの中古車販売店があるんですが、そこの店のオーナーか誰かが持つ車に、痛車があるんですよ(笑

ちなみに「痛車」ってのは、アニメのキャラとかを車体に塗装したり、ステッカーを貼った車のことですね。

 

ただ痛車と言っても、その車のはアメリカの一般的なアニメ作品だし、特定のキャラではなく、パッケージ的なキャラの集合絵を描いているだけなんですよ。

すなわち、「深い愛がない」と見ていて分かると(笑

ある意味、「日本人独特の、見ていて格好いいところをまねした」というのが、ありありと分かるもので。

 

「なんかよく分からないけど、すごい」という力

こういう風に、外国人が日本の奇抜だったり独特なところを「クールだ! 格好いい!」と言うことって、あるように思います。

たとえそれが日本では「痛々しいもの」と評価されていたとしても、その人たちにとっては「格好いい。まねしたい」なんですよね。

それはきっと、そういう独特さとか、大胆さにあこがれるんじゃないかと思うんですが。

 

まぁ、確かに本物の痛車は痛々しいですが、でもデザインはいいし、愛があふれてますよね(笑

「俺はこのキャラが好きなんだ!」みたいな情熱とか、ほとばしる熱気がひしひしと伝わってくる、それだけでもすごいわけです。

 

例えば私たちだって、ダンスとか音楽のライブでも、「なんかよく分からないけど、すごい」と感じたことって、あるんじゃないかと思います。

言うなれば、「一つの突き詰めた価値観に、私たちが影響されること」がある、ということです。

それと同じようなものだろうな、と思ったりもします。

 

「自分軸を持たない人」からすると、自分軸を持つ人は魅力的

で、実のところ、世の中にはそういう自分軸とか、独自の価値観を持たない人が大半なんですよね。

多くの人がみんなと同じようにして、周囲を見て、「みんながこうだから、自分もこうしよう」と決めているものです。

一方で、「自分はこう感じるから、自分だけはこうしよう」と、自分からレールを外れて人生を決められる人なんて、ごくわずかなんだと。

 

で、「自分軸を持たない人」からすると、そういう自分軸を持つ人って、実はすごく魅力的なんですよね。

だって、確たる芯というか、自分の中に「よりどころ」があるんですから。

「これがいい、これがよくない」という自分なりの基準があって、それを頼りに判断できるし、決断できると。

だから、自分軸を持つ人を見ると、とても自立しているし、精神的に強かったり、「他の人に頼らなくても、どんどん一人で突き進める」という強さを持っているように見えると。

 

「自分軸を持たない人」は、確固とした「軸」を知りたい

なので、そういう「自分軸を持たない人」は、自分軸を持つ人の「軸」を知りたいと思っているように感じます。

というのも、「自分軸を持たない人」は、何がよくて何が悪いのかもよく分からないし、自分に何が合うのかも分からないわけです。

ある意味、そういう「物事のいい悪いを判断する尺度」が内側にないわけですね。

まぁ、だからこそ、いろんな社会にうまくなじめるし、いろんな歯車になれるという強みもあるんですが。

 

ただ、世の中には、「正解が何か分からないこと」ってありますよね。

テストでは正解と間違いがはっきりしてますが、そうではない問題や出来事って、結構あるものです。

価値観の違いとか、生き方、意味や目的、そういうものですね。

「あの人はこう言うけど、この人はこう言っている」とか、「どっちが自分に似合うか」とか、「なぜわざわざそうするのか」、「なぜこんなことが起きるのか」みたいに、いろんな「正解が何か分からないこと」はあるものです。

 

そういう「正解が何か分からないこと」に対して、「自分軸を持たない人」ほど弱いように感じます。

すなわち、なかなか自分では判断できないわけです。

 

だから、軸を持つ人に確認したくなる

だから、「あの人なら、こういう出来事をどうとらえるんだろう。どう評価して、どう対応するんだろう」と知りたくなるように感じます。

私がこれに気づき始めたのは、私が高校2年生ぐらいの頃からですね。

私の場合、私は高校2年生ぐらいから、ぐっと世の中のことを理解できるようになってきたというか、自分なりに説明できるようになってきたんですよ。

で、同じクラスの気心知れた相手に、「これがいいんだよ。理由はこうだから」みたいに、まぁいろいろ自分の価値観を語ったりしていたんですが。

 

すると、少しずつ、「これってどういうことなの?」みたいに、いろいろと「正解が何か分からないこと」を相談されるようになったんですよね。

「あの先生はこうしろと言っていたけど、生徒は『そんなのおかしい』と言っている。どう思う?」とか。

「あの生徒が教師に刃向かってああいう行動したけど、どうなの?」とか。

 

で、私は自分なりの価値観で、好きに語ると。

すると、もう相手は目をきらきら輝かせて聞いてくれるんですよ(笑

だから、私も心地よくなって、調子に乗ってどんどん自分の価値観を語ったりもしたんですが。

 

「軸で固定された人の、確たる考え方」というのは、魅力的

すなわち、それだけ相手にとっても、「何らかの軸で固定された人の、確たる考え方」というのは、魅力的だったんじゃないかと思います。

私はその頃から自分の軸が見えてきたので、「私はこういうのが好みだし、これが嫌だから、そういうのはいいね」とか、「そういうのはよくないね」みたいに、その軸に沿って語ると。

なら、相手にとっても「そっか、それはいいことなのか」とか「悪いことなのか」と評価できて、「自分では判断できない問題」に対して折り合いをつけられると。

 

ちなみに私の高校時代では、私は理系だったんですが、別クラスの文系でもう一人、そういう「自分軸が強くて、うまく説明できる」という男子がいました。

だから相談する側は、まずは私に聞いて、そして「文系のあの人にも聞いてくる」と言って聞いてきて、そこから自分で判断する、というパターンが多かったですね。

特に、私とその文系の子が同じ回答をすると、相談者は自信を持って「そうなんだ」と安心できていたようにも思います。

 

自分軸とは、確たる「くさび」であり、鎖でもある

そういう風に、自分軸っていうのは、確たる「くさび」でもあるんですよね。

そしてそういう確たるくさびが地面に打ち込まれているからこそ、それを元に自分なりのスタイルを作れるわけで。

 

もちろんそれは、「自分の個性に縛られている」という鎖でもある、とも言えます。

だから、「自由に変化できない。打ち込まれた個性から飛び立てない。柔軟な歯車になれない」と、しがらみにもなりうるんですが。

ただ、それを「風が吹いても飛ばされない、確たるもの」としてとらえるか、「みんなのように変化できない制約」としてとらえるか、という違いかなと思ったりもします。

 

まとめ

なので、自分軸を持つ人って、それを持たない人からすると、それだけで魅力的になるように思います。

 

ただ、独自なものを、大勢の「自分軸がない人たちの中」で出すと、迷惑になったり、批判も来ますからね。

ふわふわとよりどころなく浮いている人たちの中で、確たるものの力というのは、混乱を作りやすいと。

 

なので、人がいない場所に移って、のびのびと自分を出すと、そういう「軸」にあこがれる人が来るんじゃないかと思います。

ある意味、「誰もいない場所で、好きで自分を発揮していると、自然と人々が集まってくる」みたいなイメージです。

この性質が分かると、「思い切り自分を出していい」と分かるし、「それが人に喜んでもらう力になる」と分かるかもしれません。

 

ということで今日は、「自分軸を持っている人は、それだけで魅力的」というお話でした。

今日はここまで~。

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