昨日の記事に引き続き、今日も精神的なお話です。
「自分軸を持つ人ほど、自分の価値は自分で決めればいい」というお話をしてみましょう。
自分軸を持つ人ほど、自分の価値は自分で決められる
昨日の記事で、「自分軸を持つ人は、持たない人から見ると、それだけで魅力的ですよ」って触れましたよね。
それは、「私はこういうのが好き。こういうのは嫌」という、確たる価値観が内側にあるので、それをよりどころとして生きることができるからで。
裏を返すと、「自分の好き嫌いを自制心で殺すほど、魅力も失うし、自分の中のよりどころも失う」と言えるでしょう。
で、そういう自分軸を持つ人ほど、自分の価値は自分で決められるように思います。
というのも、自分の中に確たる価値観があるんですから。
そして「自分にとっての価値」っていうのは、「私はこういうのが好き。こういうのが嫌い」っていう好みの問題だからですね。
ある意味、「好き」を集めるほど自分にとって価値が高まり、逆に「嫌い」を集めるほど自分にとっての価値が落ちる、と言えるかと思います。
それは当然で、「自分にとっての好き」を集めるほど、自分の価値観を最大限に発揮できるので、確たるスタイルができるからです。
で、そういう「好き」に囲まれた人ほど魅力的に輝くので、周囲の人がまねしたくなります。
なので、周囲が「私にも教えて」と言ってくるようになるし、まねされたり、広がってゆくわけですね。
「嫌い」を集めるほど、自分の価値が落ちる
逆に、自分軸を持つ人ほど、「嫌い」を集めるほど自分の価値が落ちると分かります。
だって、「自分の個性とかよさを、一切出せないもの」ばかりに囲まれてしまうからですね。
例えばSNSとかでも、「政府や政治家を許せない」とか「こういうことをする人を許せない、こんな人を許せない」というメッセージばかり拡散している人がいますよね。
そういう人は、「嫌い」ばかりを集めていると言えます。
だからずっと魅力を発揮できないし、後に「今まで何年、何十年も、いったい何をして生きてきたんだろう」と後悔するものです。
それは、自分の価値観を何も生かせていないからで。
依存的、病的な趣向は、「こじれ」によって生まれる
人によっては、「好きなものを追いかけると、アルコールとか、砂糖とかドラッグみたいに、依存的になるんじゃないか」と思うかもしれません。
でも、自分に素直になるほど、そういう依存的だったり、病的な追求はしなくなります。
というのも、そういう依存的、病的な趣向というのは、「こじれ」によって生まれているからですね。
すなわち、土台となる価値観で嘘をつくから、こじれが生まれて、依存的な解決手段を繰り返してしまうと。
例えば、本当は独立して自由に生きるのが合う性質なのに、「私は雇われて、安定して生きなきゃいけない」と思い込んでいたとしましょうか。
すると、その土台部分で自分に嘘をついているので、「今日もやたら疲れた。だから解決するために、好きなお酒を飲んで、甘いものを食べなきゃやってられない」と、依存的になってしまうと。
すなわち、「土台部分で自分に嘘をついている」という部分を無視して、「好きにできる方がいい」、「好きなものを集めよう」としてしまうから、病的な解決方法に依存してしまうわけです。
こじれがあると、「嫌いなものを排除しよう」としても無意味
同じように、こじれがある状態では、どれだけ「嫌いなものを排除しよう」としても、無意味です。
例えば、嫌な上司や同僚、競争相手、政治家などをどれだけ排除したとしても、意味がないんですよね。
だって、本当は独立して自由に生きるのが合うので、そもそもそういう「社会や会社の嫌な人たち」を排除しても、無意味だからで。
そもそも雇われに向いていないので、いくらそういう人を排除しても、社会や会社ではそういう人が多くいるわけです。
だから、排除しても次から次へと嫌な人たちが出てきて、モグラたたき状態になってしまうと。
ある意味、「排除する必要のない人たちを排除している」とも言えるでしょう。
だって、独立して自由に生きれば、そんなことをする必要すらないわけですから。
そういう風に、こじれとは「土台部分で自分についている嘘」だと言えるでしょう。
だから、こじれを持つ状態だと、いくら「好きなことをしよう」とか「嫌いな奴を排除しよう」としても、無駄になることが多いわけです。
ちなみに、「好きなこと、嫌いなことが分からない」も同じ原理です。
土台部分で自分に嘘をついているから、例えば「(心から嫌な仕事や環境で)好きなことって何?」と問われても、まともなものが思いつくはずないと。
「好き嫌いに素直になる」で魅力を発揮できる
そういうこともあって、自分軸を持つ人ほど、「自分の好き嫌いに素直になる」ということで、自分の魅力を最大限に発揮できるように思います。
自分の中で起きる、「好き」と「嫌い」を素直に受け入れていい、ということですね。
好き嫌いはしていいものだし、それに正直になることで、こじれを直すことができると。
もちろん、「今の環境で、それを実行する」という必要はありませんよ(笑
特に、今の環境で自分を生かせないという場合、確実に何かしらのこじれを持っています。
その場合、今の環境で「好きなこと、嫌いなこと」を明快に表現すると、多くの場合で周囲との軋轢(あつれき)を生み、苦しみになるものです。
それは当然で、「こじれを持っている状態で属している環境」というのは、「周囲がその環境に合っていて、自分が異質な存在」だからですね。
だから、それを理解せずに「好きなことをしましょう。嫌なことを排除しましょう」としても無意味だし、自分を苦しめるだけです。
なので、まずは好きなこと、嫌なことを認識できるようになって、そして「好きなことができて、嫌なことをせずにすむ方向に進もう」とすることで、環境を変えられます。
そうして環境を移動して、好き嫌いを発揮してゆけばいいことになります。
好き嫌いがあって、違いがあっていい
私自身は、好き嫌いがあったり、違いがあっていいと思うんですよ。
というのも、好き嫌いみたいな違いがあることで、生命は絶滅を防げるからですね。
そもそも、遺伝子とは「違い」を意味します。
もし同じように生きればいいのなら、遺伝子なんて必要なくて、みんな単細胞生物でいいんですよ。
でも、私たちは「違い」を持ち、その違いを生かして進化して生きているわけで。
そんな中で、「すべての人が、同じような生き方をしなければならない」なんてことは、少しおかしいと分かります。
まぁ絶滅したい人はそれでいいかと思うんですが、そうでない人は、「いろんな生き方があっていいじゃない」でいいかと思います。
例えば「食べ物でも、好き嫌いをしてはいけない。だからすべての生命は、好き嫌いをしてはならない」とか言う人がいますが、「なら草食動物にも『肉を食べろ』と言えよ」とか言いたくなるでしょ(笑
同じように、人間にも草食側と、肉食側、いろんなバリエーションがあってもいいように思います。
まとめ
だから、「自分軸を持つ人ほど、自分の価値は、自分で決められる」ということですね。
そして、自分の価値を発揮するには、好き嫌いに素直になればいいと。
で、土台部分で嘘をつかないことですね。
もし土台部分で自分に嘘をついてしまうと、それがこじれを生んで、「する必要のない好き嫌い」をしてしまいます。
そしてそれが、依存的な欲求とか、病的な代償行動、躁鬱(そううつ)とか、不安定さを作りやすくなるかなと。
自分軸を持つ人は、この部分が分かると、自分の魅力を発揮しやすくなるように思います。
もちろん独自の道はリスクがあるし、成功するとも限らず、うまくいかないこともあるものです。
でもまぁ、少なくとも生き生きできるし、後悔なく生きられるかなと思います。
すると、新たな生き方とか、可能性が見えるかもしれません。
ということで今日は、「自分軸を持つ人ほど、自分の価値は自分で決めればいい」というお話をしてみました。
今日はここまで~。