今日は、精神的なお話です。

「意味を持てると、質素さも苦ではなくなる」というお話です。

 

「頭を下げること」が苦手なタイプ

自由が好きで、なおかつ相手に気を遣うタイプの人って、「目上の人に頭を下げて、多くの人の中から自分を選んでもらうこと」が苦手な人が多いと思うんですよ。

例えば就職活動とか、自分の作品の売り込みや営業が苦手になりそうかな、と思います。

 

というのも、なんかそういう活動って、「自分が比較される」とか「自分が誰かの下になることを認めなきゃいけない」みたいな要素があって。

「誰かの下になる」って、不自由になりそうだったり、しがらみが増えそうで嫌じゃないですか。

「こうしろ」と命令されたり、それに逆らえなかったり、自分の生き方や作品を自由にできなくなったりだとか。

そういうのって、なんか苦しいですよね。

 

それに、もし拒絶された場合、ダメージが大きいこともあるように思います。

実際に就職活動で不採用になったり、選考で落選したら、結構ショックでしょ(笑

「自分は価値がない人間だったのか」、「自分の作品は、喜ばれないのか」、「相手に無駄な時間を使わせてしまって、申し訳ない」みたいに感じて、精神的なダメージが大きいわけです。

 

そういう場合、「意味を持てることを重視する」という生き方もいいように感じます。

すると、「無理に選んでもらわなくてもいい」とできて、質素な生き方も苦ではなくなるかなと思います。

 

「この行動には意味がない」と分かっているから傷つく

だいたい、なぜ拒絶されて傷つくのかというと、「この行動は、自分の生き方には必要ない。意味がない」と感じているからじゃないかと思います。

というのも、不本意に頭を下げるのって、だいたいが「お金のため」、もしくは「世間体のため」でしょ。

それをしなければ、十分な生活費を得られなかったり、周囲から見下されたり、嘲笑されたりしてしまうと。

もしくは、もしそれを実現できなければ、周囲から認められなかったり、自尊心を満たせなかったりして。

 

でも実は、本当に自分の生命にとって危機的状況だったり、もしくはそれが誰かを助けることであれば、頭を下げることは苦ではなくなります

生命の危機から回避するための場合、「生きるためには必要なことだ」と納得できて、傷つくことはありません。

そして誰かを助ける場合でも、それによるメリットが明快なので、「頭を下げることも、何かを得るために必要な犠牲だ」として受け入れられます。

でも、そういう必要性が感じられないから、自分の価値に結びつけてしまって、落ち込むように感じます。

 

「無理に頭を下げるぐらいなら、質素に生きる」という道

なので、そういう場合には、「無理に頭を下げるぐらいなら、質素に生きる方を選ぼう」とするのでもいいように感じます。

無理に頭を下げて精神的に苦しむぐらいなら、いっそ別の生き方を模索すると。

今いる場所で無理に評価されなくても、今の周囲にいる人から評価されなくても、自分の価値観を重視するわけです。

 

だいたい、「なんで何もやましいことをしていないのに、頭を下げなきゃいけないの?」、「なんでいやがる相手に、無理にお願いしなきゃいけないの?」ってことですよね。

本当に私たちを欲する人なら、向こうからやってきて「力を貸してくれませんか?」と言うものでしょ。

必要とされてもいない場所に押し込もうとするから、苦しくなるわけです。

 

重要ではないから、大切にしない

これは、家庭でも会社でも同じです。

見下されたり、「お前は価値がない」、「お前は使えない」とメッセージを受けるような場所に、なぜいる必要があるのか、ということです。

彼らにとって私たちは重要ではないから、大切にしないんですから。

 

なら、無理にそういう人たちに報いる必要はないと分かります。

すなわち、私たちはそういう「私たちを必要としない人」から離れていいんだと。

それが親であろうが上司であろうが、関係ありません。

 

実際に私たちが離れて相手が苦しむのであれば、相手は次から周囲に対してもっと優しくするでしょうし、苦しまないのであればそれでよかったということです。

どちらにしても、相手はその経験から学べるし、メリットにできます。

一方で私たちも、より意味を感じられる場所に移れるし、より自分を生かして、真剣に生きられる道を模索できます。

 

意味を持てれば、質素さや逆境は苦ではなくなる

それに、意味を持てれば、少々の質素さとか、逆境は苦ではなくなります

それは、「自分は誰かを助けることができる」、「誰かのためになれる」と分かるからですね。

 

私が好きな言葉に、「誰かが、どこかで待っている。あなたが助けてくれることを、泣きながら待っている」という言葉があります。

まさにこれで、世の中には苦しんでいる人とか、哀しんでいる人は多くいるものです。

そういう人を見捨てて、どうでもいい人に自分の人生とか時間を費やすなんて、無意味ですよね。

 

なので、必要としてくれる人とか、喜んでくれる人のために、移動したり、考えたり、試行錯誤するわけです。

その高いエネルギーで、未来を切り開いてゆくと。

特に、「強者にへつらうよりも、弱者を助けたい」と願う人ほど、そういう「意味」を重視するのもいいように感じます。

 

ある意味、これは「自分の可能性との戦い」という日々になると言えるかもしれません。

「自分を押し殺して、ただ我慢する」という日々ではなく、「自分をどうやって生かして、そして自分も生きていくか」という現実と戦う毎日です。

そしてそういう生き方の方が、合うタイプもいるように感じます。

 

まとめ

そんな風に、意味を元に考えてみるのもいいかと思います。

そして、「自分を殺すことに全力を尽くして人生を過ごすよりも、自分を生かすことに全力を尽くして人生を過ごす」というのも、一つの道かなと思います。

私自身は、そういう生き方ができれば、途中でくたばっても心地よく死ねるように感じます。

でも、「自分を殺して1000年間も長生きする」なんて、私にとってそんな「長生き」は、無間地獄(むけんじごく:仏教での永遠の地獄のこと)でしかありません。

 

そこに「世の中にこれを実現したいから」とか、「こういう人を助けたいから」という意味があれば、質素さなんて小さなことでしかありません。

むしろ、人生でそういう目的を持てないほど、見栄とか世間体を気にしてしまうように感じます。

そう考えると、「必要とされない場所や、喜ばれない場所からは、離れていい」と分かるかと思います。

 

私の中では、命は道具と同じで、「きれいに保つもの」というよりも、「どんどん効果的に使うもの」だという感覚です。

道具なのに、「道具を汚したくないから使わない」っていうのは、あんまり道具として生まれてきた意味がないと思うんですよ。

その目的に合わせて、どんどん喜んで使ってもらえるような環境に身を置くと、道具も喜びますよね。

それと同じで、命の使い方も、自分の個性に合うように環境を合わせれば、うまく使えるように感じます。

 

ということで今日は、「意味を持てると、質素さも苦ではなくなる」というお話でした。

今日はここまで~。

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