今日は、人間心理のお話です。

抑圧とはどういう状態か、図で分かりやすく示してみることにしましょう。

 

今日は久しぶりに気合いを入れた長文(今までの1.5倍ぐらいの量)なので、時間がある時にどうぞ。

 

精神的な問題をどう解決するか

私たちって、抑圧だとか、こじれた行動とか、「自分と他者の境界が分からない」みたいな精神的問題を抱えてますよね。

当然それを解決したいんですが、私たちには「私たちの精神(こころ)の形」が、いまいち分からないわけです。

 

今までは、よくあるのがフロイトもしくはユングの無意識構造(→DuckDuckGo画像検索結果)でした。

いわゆる、「自己と自我」、「普遍的無意識、個人的無意識、意識」みたいなものですね。

心理学を学んだことがあるなら、見たことある人も多いんじゃないかと思います。

 

でも、これってよく分からないし、いまいち抑圧について端的に説明しているわけではありません

だいたい、「どれほど昔の概念を、いまだに使ってるんだよ!」とツッコミを入れたくなるぐらいで(笑

 

なので今日は、私なりに新たな「精神の形」を図で定義・提案してみようかと思います。

この構造が理解できると、私たちの心の仕組みが理解しやすくなるんじゃないかと思います。

 

「精神の形」の新たなモデル

じゃあさっそく、その「精神の形」の新たなモデルを提案してみましょう。

それが、下図になります。

 

(2022年10月5日追記:分かりやすい図に差し替えました)

 

まずは、私たちの価値観(欲求)は3つの柱で構成されています。

それが、「自分の価値観」、「他者の価値観」、「代償欲求」ですね。

そしてそれぞれに、「ポジティブ」な状態と、「ネガティブ」な状態があります。

 

価値観が生まれる流れ

まずは最初に、私たちの中でこれらの価値観が生まれる流れを見てみましょう。

 

生まれたばかりの私たちは、一番左の「自分の価値観」のみを持っていました

「自分の価値観」でポジティブになればハイハイをして運動したり、ネガティブになれば泣いたり休んだりして、健康的に過ごします。

 

だけど幼い頃は、自力で生きる力がありません。

そのため、「自分を生かしてくれる存在」に対して、大なり小なり合わせなければ、見捨てられて死んでしまうリスクがあります。

 

そのために、私たちは「他者の価値観」を取り込みます。(上図の中央部分)

見捨てられる危険を感じた場合、「他者の価値観」を取り込んで身につけて、それを「自分の価値観」よりも優先させることで、周囲に合わせて生きるわけです。

そうすることで、生きながらえる生存戦略ですね。

 

そしてこの「自分よりも周囲の価値観を優先して、自分の価値観を押さえ込むこと」を「抑圧」と言います。

 

「他者の価値観」を手放すタイミング

本来なら、14歳ぐらいからの反抗期で、この「他者の価値観」を手放します

14歳ぐらいは、狩猟採集時代で言うと、ちょうど一人で生きられるようになる時期なんでしょう。

それによって、健康的に「自分の価値観」のみで生きられるようになります。

 

また、「自分の価値観」と「他者の価値観」がほぼ同一になる場合もあります。

親と性質が同じで、親が健康的に生きている場合、そういう状況が起こりえます。

この場合も同様に、「自分の価値観」と「他者の価値観」はほぼ同一になるので、こちらも反抗期で「他者の価値観」を手放せなくても特に問題なく健康的に生きられます。

 

ですが現代のように、反抗が封じられていたり、もしくは親と一緒に過ごさなければならない場合、私たちは「他者の価値観」を手放せません

特に個性の強い人ほど、親と価値観がまるで違っているのに、それを持ち続けなければならないことがあります。

 

そうして大人になっても、「自分の価値観」よりも「他者の価値観」を優先してしまう、というクセができてしまうわけですね。

つまり、抑圧を持ち続けてしまうことになります。

場合によっては、親と似たような性質でも、親がこじれている場合、親の持つこじれも引き継いでしまうことがあるでしょう。

これも同様に、親の抑圧を、子が引き継いで持ち続けてしまうことになります。

 

「代償欲求」の誕生

抑圧とは我慢を意味するので、当然苦しいことです。

ただしその場合でも、「代償欲求」を得ることで、気分を紛らわすことができます。(上図の一番右側部分)

 

例えば憂さ晴らしをしたり、気晴らしをしたり、考え方を変えたり、そういうたぐいのものですね。

私たちでも、ゲームやSNSをしたり、物語に触れたり、お酒や食事を楽しんで、気晴らしをしますよね。

他にも少し不健康なものになると、利害が無関係の他者を見下したり、弱者を必要以上に屈服させたりすることで、快楽を得ることもあるかもしれません。

また、「考え方を変えよう。これがきっと未来のためになる」と架空の理論を作ることで、気分を紛らわせることもあるでしょう。

 

ただ、この代償欲求は、「足るを知らない」という特徴があります。

というのも、この代償欲求は、「自分の価値観」と「他者の価値観」を満たしきれないストレスによって起きるからですね。

 

根本原因は「他者の価値観」にある

つまり根本的な原因は、「他者の価値観」が自分の中に残ってしまっていることです。

ちなみに「自分の価値観」は自分に本来備わっているものなので、これはそのままでかまいません。

 

だから、「他者の価値観」を取り除かない限り、代償欲求への問題は解決しません。

そして個性が強い人で、幼い頃に「他者の価値観に従わなければ、生きていけない」と強く強迫観念を植え込まれた人ほど、「他者の価値観」を重視・絶対視するクセがついています

例えば虐待を受けた子や、崩壊した家庭で育った子は、「他者の価値観」を重視しやすいものです。

それには、そういう理由があるわけです。

 

その場合、どんなに気晴らしをしても満たされることはありません。

それどころか、「他者の価値観」を実現できないほど、逆にどんどん代償欲求に対して依存的になっていきます

DV(家庭内暴力)に依存してしまったり、アルコール依存、薬物依存、時には「ポジティブになろう」という「考え方依存」など、様々な依存形式があります。

 

精神的に苦しい時の状態

で、私たちが精神的に苦しい場合、次のような3つの状態をメインに生きていると言えます。

 

(2022年10月5日追記:分かりやすい図に差し替えました)

 

  • 「他者の価値観」のポジティブ: 親や社会が評価することを実行する。一般的に言う「ポジティブ」がこれに該当。
  • 「代償欲求」のポジティブ: 気晴らしを実行して、心地よくなる。
  • 「代償欲求」のネガティブ: 自己否定をしたり、うつになる。一般的に言う「ネガティブ」がこれに該当。

 

実際に私たちが苦しんでいる状態では、この3つを実行しているものですよね。

私たちは「自分の価値観」は最小限に抑えて、「他者の価値観のポジティブ」を最大化しようとしています。

だけど実現できない場合、「代償欲求のポジティブ」になることで、気晴らしや憂さ晴らし(依存的なこと)をします。

そして「代償欲求のネガティブ」になれば、「自分はダメな奴だ」と自己否定をすると。

 

だから一般的には、「ポジティブになろう。ネガティブはダメ」となっているわけです。

 

ですが、精神的に問題を抱えている場合、その「他者の価値観のポジティブになろう」、「代償欲求のネガティブはダメ」としても、無意味だと分かります。

というのも、「他者の価値観のポジティブ側」を実現できないことで私たちは問題を抱えているのに、その「(他者の価値観の)ポジティブになろう、(代償欲求の)ネガティブはダメ」では何も根本問題を解決しないからですね。

 

特に、個性があることで「性質的に、ポジティブをこれ以上実現できない」という場合、「もっとポジティブになろうよ!」なんてアドバイスは無意味です。

その上、代償欲求を最大にしてまで我慢している人にその言葉を使うなら、もはや無意味を通り越して、それは相手を傷つける言葉にしかならないでしょう。

 

どうすれば抑圧を解決できるのか

で、ここからが解決編です。

なら、どうすればこの「他者の価値観」に起因する、抑圧とか依存的な精神問題を解決できるのか。

 

その結論から言うと、「他者の価値観」を消せばいいことになります。

そして「他者の価値観」を消すには、「他者の価値観のネガティブ側」に踏み込んで実行すればいいと言えます。

すると同時に、「代償欲求」も必要性を失って消えます。

結果として、私たちの中では「自分の価値観」だけになって、自分と他者の価値観を区別できるようになり、健康的な状態になれる、ということです。

 

なら、その詳しい内容を説明してみましょう。

上で紹介した図でも、1つだけ私たちは踏み込んでいない部分があります。

それが、「他者の価値観のネガティブ側」です。

 

「他者の価値観のネガティブ側」に踏み込む

本来なら、これは14歳ぐらいからの反抗期で、自然とその「他者の価値観のネガティブ側」に踏み込んで、「他者の価値観」を消滅できます。

というのも、その「他者の価値観のネガティブ側」に踏み込むと、「あ、これは自分には合わない。自分には無意味な価値観だ」と分かるからですね。

 

例えば私たちが、他者の価値観として「魚を食べなきゃいけない」と思い込んでいたとしましょうか。

ただし私たちには魚アレルギーがあって、魚を食べられない性質です。

つまり、「魚」が「私たちに合わないもの」ということです。

 

一方で私たち自身の価値観は、「お肉や野菜が合う」だとします。

ですが当然のように、私たちは幼い頃からの経験で、「魚を食べなきゃ生きていけない」とか、「魚を食べられるようになって、社会から認められたい。そうすれば周囲から受け入れられる」と強く願っています。

 

なので、他者の価値観があることで、「(本来ならお肉や野菜が合うのに)自分に合わない魚を食べなきゃいけない。でも自分に合わないので、アレルギー(ストレス)が出る」という苦しみが生まれます。

そして、そのストレスから「お酒で紛らわそう」、「もっと我慢できるように、いいようにとらえよう」みたいに、代償欲求に手を出してしまうと。

 

無駄な教えが多くある

この場合、「お肉を食べることを許そう」とか、「ポジティブに考えよう」としても無駄です。

また、「足るを知れ!」、「忍耐が足りない!」と精神的な強要をしても、無駄です。

 

だって、お肉を食べることを許しても、自分の中から「他者の価値観」は消えないんですから。

ずっと「周囲から認められたい」という思いは持ち続けます。

そもそも「他者の価値観」が優先されるから抑圧なのに、「お肉を食べることを許そう」と言っても、優先度の関係で無意味になります。

 

また、ポジティブに考えようとしても、それは「他者の価値観のポジティブ」もしくは「代償欲求のポジティブ」に固執することを意味します。

「酒を飲むにしても、足るを知れ!」とか「我慢をしろ!」と言われても、「他者の価値観」を満たせない限り、代償欲求は抑えきれません。

 

だから、頑張るか、気分を紛らわせられたとしても、根本的な解決にはなりません。

ここでは「我慢する(別の架空の論理を作って、我慢する理屈を作ること)」も、「気分を紛らわせる(代償欲求のポジティブ側)」に含みます。

 

こうして「他者の価値観」を手放せる

ですがその場合、「魚を食べなきゃいけない」という「他者の価値観」に対して、ネガティブな態度に入るとどうでしょう。

すると、自然と「なんで魚を食べなきゃいけないんだ」と疑問を持てます

ネガティブになると、その意味や意義を問えますからね。

 

そこで、「自分は自力で肉や野菜、お米など、魚以外の様々な食べ物を入手して生きられる」と現状が分かると、「魚を頑張って食べる」という「他者の価値観のポジティブ側」が無意味になります。

つまり、「その道(魚を食べること)でなくても生きてゆけるし、むしろ自分の価値観で生きられる」と理解できます

だから、私たちの中から「他者の価値観」が消える、ということです。

 

「不可侵の聖域」に踏み込もう

ある意味、「他者の価値観のネガティブ側」というのは、私たちが不可侵の聖域としてしまっているわけですね。

私たちがそこに入ると、「他者の価値観」は存在意義を失い、粉々に崩れ去ってしまうんですから。

 

そのために、親や社会などは、「そこに踏み込むことすら許さない。疑問を持つことすら許さない」と教えます。

だって、それは「その人にとっての絶対的な価値観」なんですから。

それを否定することは、その親や社会の価値観を否定することになるから、(幼い頃の私たちは)そこに踏み込むことを許されません。

 

同時に私たちも、その「他者の価値観のネガティブ側」に踏み込むのは、強烈な恐怖を感じるものです。

というのも、そこに立ち入ると、「自分は死んでしまう」という恐怖を植え付けられているからですね。

それは幼い頃から得た、「これをすると、自分は親から見放されて死んでしまう」という学習です。

 

だから私たちは、無条件で「(自分の中にある)他者の価値観のネガティブ側」には「立ち入ってはいけない」と思い込んでいます。

本当は、そこに解決の根源があるのに、それを見ないふりをして、表面的な「ポジティブになろう、ネガティブはダメ」という抑圧を増大させる方法に依存しているわけです。

 

まとめ

なので、こういう「精神の形」という図で見ると、私たちがどうすればいいのか、その戦略が見えるかと思います。

 

抑圧を解消したい場合、必要なのは「他者の価値観のネガティブ側」に踏み込むことです。

それは、本来なら14歳ぐらいからの反抗期で、自然と立ち入るはずだった場所です。

なのにそこに入れずにいたから、「他者の価値観」を手放せずに、聖域化・絶対視してしまったと。

 

そして「他者の価値観のネガティブ側」に踏み込めば、状況からその無意味さに気づけます。

「全然そんなことしなくても、他のもので自分を満たせる。豊かになれるし、人に喜んでもらえて、受け入れてもらえる」と理解できます。

親の言うことを実現しなくても、頑張らなくても、社会的評価を得なくても、親からは受け入れられなくても、自分を満たせると分かります。

むしろ、親の言うことを実現するよりも、より楽に評価されて、受け入れられます。

 

つまり、自然な生命として、生きられるわけですね。

 

そして「自分の価値観」では、「ポジティブもネガティブも、自分を満たすものだ」と分かります。

「自分の価値観のポジティブ側」は、自分のために活動したり、外部に形を作ろうとします。

「自分の価値観のネガティブ側」は、自分のために休息したり、内面を調整しようとします。

そして共感性の高い人ほど、その「自分のため」の中には、「誰かに喜んでもらうため」という利他的要素も含まれるでしょう。

 

どちらにしても、それら「自分の価値観」は私たちにとっては心地よいものになります。

ネガティブになることで、泣いて、休んで、元気が出て。

その後にポジティブになることで、笑って、活動して、心地よく疲れて、時に失敗して。

そして再びネガティブになる……という風に、サイクルのように回ってゆきます。

 

それが自然だということですね。

 

これが分かると、自分の精神に対して、どういう戦略を採ればいいのかが分かるかと思います。

すると、多くの精神に起因する問題、特に抑圧に関する問題を解決できるかもしれません。

 

ということで今日は、抑圧とはどういう状態か、図で分かりやすく示してみました。

今日はここまで~。

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