新しい心理メカニズムの概念を考えていたら、一気に時間がなくなってしまったので、今日はお休み日記です。
今は何も作ってない状態です
今はネガティブな波に乗っている時期なので、特に本や作品の制作はしていなかったりします。
とはいえ、なんだかやたらとアイデアが出ていて、ブログだけは楽しく書けている状況です(笑
今の私は、2割のポジティブ(外部を変えようとする割合)、8割のネガティブ(内面を整えようとする割合)ぐらいですかね。
完全にネガティブばかりにすると、逆にアイデアは出なくなるように感じます。
やはり、多少はアイデアを出す場があることで、どんどんアイデアがつながって発展してゆくのかなと。
夕涼みがよかった
以前も少し触れましたが、この夏から夕涼みを始めたんですよ。
今はもうだいぶ涼しくなったのでやめてますが、これがとてもよかったように思います。
この夏はエアコンなし生活をしていたので、正直なところ暑くてしょうがなかったと(笑
なので、夜は風通しがいい部屋で涼んでいたわけです。
明かりをつけずに、夜の暗い中、2階の窓から静かに夜の空や空気を味わってました。
そしてこれが想像以上に心地よくて、30分とか1時間とかあっという間ですから。
なのにSNSのように「時間を無駄にした」なんて感覚はなくて、不思議な「心地よく生きている」という充実感があったりします。
まったく後悔はなくて、むしろずっと「明日も楽しもう」と感じてました。
SNSは本当にインプットなのか
それで最近疑問に思うようになったのが、「SNSは本当にインプットなのか?」ということです。
ほら、よく「SNSで情報をインプットをする」と言ってるじゃないですか。
確かにそれはそうなんでしょうが、私の感覚ではそれは「インプット」というよりも、「アウトプットのためのインプット」のように感じます。
いや、「アウトプットのためにインプットするんだろう」と言われればそうだし、1年前の私もそうツッコミを入れたくなったでしょう。
でも、今の私は少し感覚が変わってきたんですよ。
私の中では、「アウトプットのためではないインプット」みたいなものが、自然なインプットのように感じるようになりました。
例えば食事だって、トイレに行くために食べているわけではありませんよね(笑
いやまぁ、「元気を得て、活動して、次のエサを得るため」というのをアウトプットと言えなくもないですが、その場合は「エサを取る仕掛け(ビジネスシステム)の維持や改良」をインプットとするのが自然な対応かなと。
本当のインプットとはどんなものか
なら、「SNSでインプットする」というのは、私の中では「アウトプットに限りなく近い活動」のように感じます。
「それって、本当にインプットなの?」という感覚です。
感覚的に言うと、「もっとアウトプットから遠いインプットが、アウトプットを飛躍させる」というイメージです。
言うなれば、木々が「実を作るのがアウトプット」だとすると、インプットは「花を大きく開かせること」だけではないように感じます。
「根っこから養分を吸い上げる」、「葉っぱで太陽の光を受け取る」みたいな遠い部分の方が、インプットとして大きいように感じるんですよ。
ある意味、アウトプットから遠いネガティブな部分が、アウトプットを大きくさせるように感じます。
「生産的になるための時間」は生産的なのか
だからある意味、「生産的になるための時間」は本当に生産的なのか、ということです。
特に「夜にSNSに触れる活動」というのは、私の中では、どちらかというとアウトプット側(ポジティブ側)のように感じます。
それは確かに生産性を少しは高めるでしょうが、本当に「生産的な時間」なのか、ということですね。
逆に、夕涼みの心地よさを実感すると、「あ、これがインプットだ」と感じるんですよね。
「夜、静かに夕涼みをして、30分とか1時間を簡単に溶かす」なんて、とてもネガティブで、非生産的で、無意味に見えるものです。
だけど、そういうのが「いろんなエネルギーが入ってきている」と実感するんですよ。
別の表現をすると、例えばSNSや制作を「我を忘れて活動する時間」だとすると、夕涼みは「我を取り戻す時間」という感覚です。
実際に、忙しくしていれば、過去の抑圧とかフラッシュバックで苦しむことはなくなります。
「仕事をしていると、煩雑な悩みが消える」とか、ありますよね。
でもそうではなくて、自分を自然な感覚に戻して「我を取り戻す」ことでも、煩雑な悩みを消せるわけです。
そういうアプローチの違いというか、別の方法があるように思います。
なので「忙しくして、悩みから解放されたい」というアプローチばかりの人は、そういう反対側の方法もあると分かると、楽になれるかもしれません。
刺さる人には刺さる、ということ
話は変わって、以前に本の感想をいただいたんですよ。
私が以前に書いた本で、「前向きスピリチュアル」という本があるんですが、その「最終章の部分が心に刺さって、印象的で、今でも助けられている」というものでした。
あの本を読んだ方なら分かるかと思いますが、最終章にある「ザルと川のたとえ話」ですね。
あの本の最終章で、私は「死とは何か、人は死んだらどうなるのか」ということを、私なりの論理で説明しました。
で、「私たちは、自分が死んだら『みんな』になる」ということを、川とザルのたとえ話で説明したんですが。
実はこの部分、私の中でも中核となる死生観になっていて、私が作った概念の中でもトップレベルにお気に入りな概念だったりします。
それで感じたのが、「魂から叫んだことは、たとえ売れなくても、刺さる人には刺さるんだな」ということです。
最も売れた本と、最も売れなかった本の関係
実はこの本、私の書いた自己啓発本の中でも、最も売れていない本なんですよ(笑
いやもう、びっくりするほど売れてませんから(笑
この本を読んでいる人は、私のファンの中でもよっぽどマニアックな人だなと思ったりするんですが(笑
ただ、私は楽しく書けたし、当時の私は「これが最高だ!」というものを出したわけです。
なら、それで「助けられている」という人がいるならば、それはそれで意味があったように感じます。
「たった一人でも深く印象に残ってくれるなら、それでいい」みたいな充実感があったり。
そしてこの本の内容は、「内向型の生き方戦略」という本の前身になっています。
アプローチはほぼ同じですし、この本があったから「内向型の生き方戦略」という本ができたんだと。
そして今のところ、私が書いた本の中では、「内向型の生き方戦略」が単体では最も売れている本になっているわけです。
だから、「最も売れなかった本と、最も売れた本が、自分の中ではほぼ同一」という状態なんですよ(笑
「次の種になる」という現象
すると、「その差に売り上げを作る違いがある」というノウハウ的な次元を越えて、なんだか「生命のサイクル」のようなものを感じたりもします。
ある意味、次の種になっているんですよね。
「前向きスピリチュアル」は売れなかったからダメな本なのかというと、全然そうではないし、刺さる人には刺さっているし、次の種にもなっていると。
そういうのを考えると、「目の前の表面的な結果で判断するのは、ちょっと評価範囲が狭いな」と感じたりもします。
自然の中には私たちが知らない因果関係が多くあって、それが予想もしなかった結果をもたらすこともあるように感じます。
つまり、私たちが「知っている」と感じている部分は、ごくごく小さな領域だけなんだと。
だから、その「知っている」、「予想できる」だけで判断する必要はないかな、と感じたりもします。
「分からないことは多くある」ということが分かれば、「善し悪しの判断は保留して、とりあえず安全確保をして、その先にある景色を見てみよう。話はそれからだ」とできるようにも思います。
そしてそういうスタイルの方が、生き方として合う人もいるように思います。
まとめ
まぁそんな風に、夕涼みだとか、過去作についてつらつらと語ってみました。
私の中では、「中期でネガティブな波に乗るのは、そろそろ限界かな」という感覚なので、少しずつ動き出そうかと思ってます。
正直もう少し下りの波に乗っていたいんですが、ポジティブになるのに限度があるように、ネガティブになるのも限度があるようで。
金融業界のロジックはほぼできていて、仕掛けも実施・検証段階に入っているので、こちらも今は手をつけることがないんですよね。
次に何を作るのかはまだ決めていませんが、まぁ少しずつ進めてゆこうかと思ってます。
ということで、今日はここまで~。