ここんとこ精神的な抑圧について多く語っていますが、今日もその関連です。
「癒やしにつながるネガティブ」とは何かを説明してみることにしましょう。
抑圧による苦しみを、どう対処するのか
高共感な人ほど、抑圧に起因する苦しさを抱えることがあるものです。
例えば「自分の価値観よりも、他者の価値観を優先してしまう」とか、「評価されたい、愛されたい欲求が強すぎる」、「自分と他者の境界が分からなくなる」みたいな苦しみがあるでしょう。
確かに弱者を救いたいときには、それは必要なものなんですけどね。
だけどそれとは関係なく、私たちは必要以上にそういう「自分の価値観」を抑圧させてしまうことがあるものです。
それによって「自分の価値観で生きられない」という苦しみを抱えてしまって、自分に合わない仕事や生活を続けてしまうと。
本来なら、14歳ぐらいからの反抗期で、そういう精神的な抑圧を解放するものなんですよ。
だけど現代では14歳って言うと中2ぐらいなので、なかなか親の環境から離れられなくて、抑圧を抱え続けてしまいます。
そして結局反抗期を終えてしまって、「自分の価値観と、他者の価値観が分からなくなる」という現象を抱えてしまうように感じます。
ネガティブになる方が、根本的な問題を解決できる
そういう場合、私はポジティブになろうとするよりも、ネガティブになる方が、根本的な問題を解決できるように感じます。
つまり、「ポジティブになる」というのは一時しのぎでしかなく、「一度徹底的にネガティブになって、自分が抱えている抑圧そのものを消して、根本原因を解決しようよ」というのが私の提案です。
その方が、必死でポジティブを取り繕うよりも、短期間で楽になれるようにも感じます。
じゃあ今日は、そういう「抑圧を解放するために、ネガティブになる」とはどういうことなのかを説明してみましょう。
これが分かると、「自己否定ではないネガティブがある」と分かって、ネガティブの効果が分かるかと思います。
「精神の構造図」の説明
それを説明するために、今回も私が提案している「精神の構造図」を用いましょう。
私たちの精神は、次のような形になっている、ということです。
私たちの精神は、次の3本柱で構成されています。
それが、「自分の価値観」、「他者の価値観」、「代償欲求」の3つです。
そしてそれぞれに対して、「ポジティブな状態」と「ネガティブな状態」があります。
つまり、ネガティブには3つの種類がある、ということです。
それが、「自分の価値観のネガティブ」、「他者の価値観のネガティブ」、「代償欲求のネガティブ」の3つです。
ならここから、この3つのネガティブについて説明してみましょう。
そしてそれを踏まえた上で、どうやって抑圧を解放するのか、その流れを見てみることにしましょう。
「代償欲求のネガティブ」とは
分かりやすい説明のために順番を入れ替えますが、まず最初に説明するのが、「代償欲求のネガティブ」(図の右側)です。
これは、「自分はダメな奴だ」と自分を否定をしたり、うつになったりするという、いわゆる「自己否定的なネガティブ」です。
一般的に言われる「ネガティブ」は、これに該当します。
これは、私たち自身が「このネガティブは不要だ。こんな代償欲求を求める価値観なんて不要だ」と分かっているけれども、手放せないネガティブです。
というのも、代償欲求は「他者の価値観」を実現できないからこそ起きる欲求だからですね。
例えば「他者の価値観」で「親や社会から評価される生き方がいい」と思い込まされていた場合、ずっと親や社会を喜ばせられるわけではありません。
その場合、ゲームや買い物をして憂さ晴らしをしたり、アルコールとか薬物、時には「ポジティブに考えよう」と考え方でごまかすこともあるでしょう。
その「憂さ晴らし」が、「代償欲求のポジティブ側」になります。
そして状況によっては、「お金がない」とか「時間がない」、「場所がない」などによって、可能な憂さ晴らしが限られることがあります。
すると、同じような憂さ晴らし手段を繰り返すことで、依存的になってしまいます。
「必要のない自己否定」を繰り返す流れ
ただ、ずっとそういう憂さ晴らしを続けるわけにはいきません。
ゲームや買い物、アルコールや薬物、考え方に依存するにしても、体力やお金、時間、資源には限度があるものです。
すると、その「代償欲求のポジティブ」が限度を迎えると、「代償欲求のネガティブ」に落ちてきて、自己否定をすることになります。
だってその「憂さ晴らし」は、完全に「無駄遣い」でしかないからですね。
充実感もないし、意味や意義もなく、体力やお金、時間などの資源を浪費するだけでしかありません。
だから、自己嫌悪をしてしまいます。
本来なら、私たちがその価値観のネガティブ側に落ちると、その価値観を疑えるものです。
そして自分にとって不要な価値観なら、「自分には必要ない欲求だ」と分かって、その価値観を消せて、行動をやめられます。
ですが先述の通り、代償欲求は「他者の価値観を実現できない状況」によって何度も生まれるので、何度も代償欲求を求めてしまいます。
だから「もうこの行動はやめよう」と何度も決意するのに、再び代償的な行動をしてしまい、自己嫌悪を重ねてしまうわけです。
なので以前も触れましたが、苦しい状況にいる人は、次図のような3つの状態をメインに生きていると言えます。
こういう自己否定を繰り返すのが、1つめの「代償欲求のネガティブ」です。
「自分の価値観のネガティブ」とは
2つめのネガティブが、「自分の価値観のネガティブ」(図の左側)です。
これは自分にとって必要なものなので、「自分が望む方向性を補完するもの」になりやすいでしょう。
なのでこのネガティブは嫌悪感がなく、「次のポジティブを生む要因」にできます。
例えば私たちだって、「この手段は本当にいいんだろうか?」と考え直したり、「ちょっと休む方がいいかな」、「今は体調を整えよう」とすることがありますよね。
それって、「ポジティブな方向性を実現すること」から見ると、ネガティブな態度です。
だけどそれは、私たちにとっては「目標を実現するためには、必要なことだ」と分かります。
というのも、今の手段を疑ったり、別の効率的な方法を考えたり、休んだり、時に療養するのは、私たちにとっては必要なことだからですね。
だからそういうネガティブに振れたとしても、心地よくそのネガティブに身をゆだねられます。
つまり、「自己否定がなく、未来のポジティブを作るネガティブ」もある、ということです。
私がよく言う「陰と陽」での「ポジティブとネガティブ」は、この「自分の価値観でのポジティブとネガティブ」を指します。
「他者の価値観のネガティブ」とは
3つめのネガティブが、「他者の価値観のネガティブ」(上図の中央)です。
で、このネガティブに入ることで、「この価値観は本当に必要なのか?」と疑えて、不要な価値観を手放せます。
そしてこの「他者の価値観のネガティブ」に入ることが、抑圧を解放する鍵となります。
つまり、この「他者の価値観のネガティブ」が、「癒やしにつながるネガティブ」だということですね。
ただし条件として、「価値観を手放せる場にいること」が重要です。
つまり、「抑圧を解放できる、自由な場を得ること」と「ネガティブな状態になること」の2つがそろって、初めて抑圧を解放できると言えます。
でなければ、このネガティブに入っても、「これは嫌だけど、必要なものだ」と価値観を手放せません。
例えば親と一緒に暮らしている場合、親に面倒を見てもらいながら「親の価値観を否定すること」なんてできませんよね。
たとえ親と一緒にいなくても、「親の望む会社勤めをながら、その価値観を否定すること」は難しいものです。
というのも、その価値観を否定すると、家や仕事を失ってしまうんですから。
なのでこの「自由な場」を得られているかが、きわめて大切になります。
「ネガティブになって、抑圧を解放する」流れ
そしてここから、そういう「自由な場を得ること」と「ネガティブな状態になること」の2つがそろって抑圧を解放する場合、どういう流れと感覚になるのかを説明してみましょう。
これは、「私たちが中2の頃に、家族全員が1週間ほど家族旅行に出て、自分だけが家に残って1人で暮らしていい」という状況を考えると分かりやすいでしょう。
私たちは、14~16歳ぐらいの中2~高2ぐらいの年齢だったとします。
で、家族全員が、自分を残して1週間ほど家族旅行に出ることになりました。
だから私たちは、1週間ほど家で完全に一人きりで、自由に過ごせます。
すると、「行ってらっしゃい」と家族を見送った後、自分以外には誰もいない家の中で、「自由だーっ!」と大はしゃぎすると思うんですよ。
だって、その時期は反抗期真っ盛りなので、家族に対してもうざったいし、一人で自由になりたいんですから。
「やってはいけないこと」をすることで、抑圧を解放する
で、だいたい最初は「やってはいけないこと」をするものなんですよ。
リビングで服を脱ぎ散らかして真っ裸になってはしゃいだり、ダイニングテーブルの上に寝たり、冷蔵庫の中の箱ジュースを箱ごとがぶ飲みしたり、みたいな(笑
これって、とてもネガティブですよね。
だって、いろんな「こうしなきゃいけない」という価値観に対して否定的になっているんですから。
「家では服をしっかり着なきゃいけない」、「ダイニングテーブルの上に寝てはいけない」、「ジュースはコップに注いで飲まなきゃいけない。箱に口をつけてはいけない」みたいな、細かいルールがあるわけです。
そういう細かいルールが、「他者の価値観のポジティブ側」になります。
で、反抗期に自由になれると、自然とそれを否定できるわけですね。
そしてしばらくすると、いろいろ分かってくるわけです。
「服を着ないと、ちょっと寒いな」とか、「ダイニングテーブルの上に寝るのは、固いな。ベッドの上の方が柔らかくて心地よい」みたいな。
当たり前のことなんですが、実際に踏み込んで初めて気づくわけです。
すると、「家では服は着ても着なくてもいいけど、着た方が暖かいから、服を着よう」、「寝るならベッドで寝よう」と、自分の意思で選択できます。
また、「ジュースを箱から直接飲むのもいいけど、そうすると唾液の酵素がジュースに混じって痛みやすくなるって聴いたな」と思い出すと、「ジュースを長期間飲みたい」と分かるとコップを使うようになります。
逆に、「ジュースは今日中に飲みきるし、コップに移すのは面倒だな」と感じれば、その「他者の価値観」を手放せます。
こうして「他者の価値観」が消えて、「自分の価値観」が残る
だから「こうしなきゃ」という抑圧を解放した上で、「私はこっちが心地よいから、こうしよう」と選べるようになるわけですね。
つまり、「他者の価値観」が消えて、「自分の価値観」が残って、動けるようになると。
同時に、今まで抱えていた代償欲求も必要なくなります。
「なんでしっかり服を着なきゃいけないんだ」というイライラもなくなるし、家の中でわざと服を崩そうとすることもなくなるし、「自然な自分」でいられます。
それと同じように、いろんなことを試せるでしょう。
例えば「食事をろくに取らずに過ごす」とか、「徹夜でゲームをする」、「風呂に入るのをやめる」みたいに、まぁいろいろやってみるものです(笑
すると、お腹がすいて「食事は必要だな」と分かったり、「徹夜でゲームをすると、翌日に眠たくなる」、「風呂に入らないと、友人からにおうと言われた」とか気づくわけです。
でもそうやって、抑圧を解放しつつ、自分の価値観として取り込んでゆくんですよね。
「理屈」と「自分の価値観にすること」は、まったく別次元
こういうのは、「当たり前のことだから、分かって当然」ではありません。
「理屈で理解できること」と、「他者の価値観を手放して、自分の価値観にすること」は、まったく別次元の話です。
それは一度否定しないと、理解できないことなんですよね。
「食事をしなきゃいけない」という「他者の価値観に従うこと」と、「食事をした方が、元気が出るな」という「自分の価値観で動くこと」とは、明快に違うわけです。
「否定して初めて、自分に取り込める」と言えます。
そうやって、自分に必要な価値観と、必要ない価値観を選んでゆけると。
これが「ネガティブになることで、抑圧を解放する」ということです。
見た目では何も変わってないように見えても、内面では大きな変化があります。
それが、「抑圧を解放できただけ、代償欲求を必要としなくなった」ということです。
つまり、それだけ「自己否定をするネガティブに落ちること」がなくなった、ということです。
こうして初めて、自己否定を手放せるわけですね。
まとめ
なのでそういう「癒やしにつながるネガティブ」があると分かると、「根本原因を解決するのは、ネガティブになることだ」と分かるんじゃないかと思います。
ポジティブになることは、目先のごまかしでしかありません。
多くの人が、「自己否定するネガティブ」しか知らないので、「ネガティブはダメ」と言っているようにも感じます。
で、そのために、「自由な場を得ること」と「ネガティブな状態になること」の2つが必要になるわけですね。
裏を返すと、中二病でも抑圧を解放できないのは、「自由な場を得ること」ができないからです。
なら、それを大人になってから実現してみるのも、いいように思います。
そしてもし中2ぐらいの子供を持つ親なら、「反抗期の子を家に残して、家族全員で数日~1週間ぐらい実家に戻ったり、家族旅行に出る」ぐらいをしてもいいように思います。
確かに帰ってきたら少し物は壊れているかもしれませんが、子はだいぶ抑圧を解放して、すっきりしているんじゃないかと思います。
その「自由を与えること」は、その子の未来には大きな癒やしとなるかと思います。
いやまぁ、搾取するような支配的な親は、そういう「自由を与えること」はまず許さないとは思うんですが(笑
この辺のメカニズムが分かると、私たちもそれを応用して、今からでも抑圧を解放できうると分かります。
すると、フラッシュバックも消えるし、「評価されたい、愛されたい」という強い欲求とか、無駄な我慢も手放せるようになって、心地よく生きられるかもしれません。
ということで今日は、「癒やしにつながるネガティブ」とは何かを説明してみました。
今日はここまで~。