今日は、精神的なお話です。

「困っていない人よりも、困っている人に与える」、というお話をしてみましょう。

 

面白くない場所からは、どんなにメリットがあったとしても、さっさと撤退する

「なんか面白くないな」って感じるときって、あるじゃないですか。

私は基本的に好き放題して生きているので、ここ数年はなかなかそういう経験はなかったんですが。

でも久しぶりに最近、プライベートで「ああ、こういうのが『面白くない』っていう感覚か」と感じた出来事があったんですよ。

面白くないどころか、最後にはイライラしてしまったという。

 

で、そういう場合、私は「そこは違う場所だな」ということで、さっさと逃げ出します。

すなわち、「面白くない場所からは、どんなにメリットがあったとしても、さっさと撤退する」ということです。

これができるだけで、もうすっきりと生きられるんですよね。

 

困っていない人に分かち合っても、面白くない

そもそもなぜ私がイライラしたのかというと、困っていない人に分かち合おうとしたからですね。

私には時間とか資本、能力とか作品、励ます言葉や勇気づける言葉みたいな、いろんなものを分かち合う豊かさがありますが、それを誰に分かち合うのか、ということです。

 

で、困っていない人に与えても、全然面白くないんですよ。

だいたい力を持っている人はさほど困っていないし、私が全力で与えようとしても、相手は私に感謝もしませんし、ろくな反応も戻ってこないと。

だって、相手はもうそれを、十分に持っているからですね。

むしろ、提案を受けるのは慣れっこで、うんざりしているぐらいで。

そういうのって、私にとっても全然面白くないですよね。

 

言うなれば、ある漫画家さんが描いた漫画を誰に与えるのか、ということと同じです。

Aさんに見せれば「心が救われました。生きる希望が持てました。ありがとうございます」と涙を流して喜んでもらえます。

一方で、Bさんに見せると「なにこれつまらない。もうこういうの飽きてるんだわ」と言われます。

だったら、Bさんに対しては「お前には見せへんわ!」とか思うでしょ(笑

 

AさんBさんの両者が普通の人だったら、それでいいんですよ。

でも現実では、Aさんが「普通のファン」で、Bさんが「編集長や新人賞選考員、有名クリエイターやプロデューサーのような、力がある権威者」になるわけです。

編集長やプロデューサーに受け入れられれば、優れた支援が得られるので、一気に売れることができます。

 

支援がなくても、イライラしない生き方

で、多くの人がそこで、編集長やプロデューサーに受け入れられるために、イライラや我慢をしながら生きているんですよね。

それはそれで一つの生き方なんですが、私はどうも我慢が苦手なんですよ(笑

だから、つい「どんなに力や権威がある人でも、相手から感謝されないのなら、こちらから突っぱねる」ということをやってしまうと(笑

 

そもそも、ファンに与えれば大いに喜んでくれるわけです。

なら、なぜそこで、喜ばない編集長やプロデューサーに自分の時間や作品を与えなければならないのか、ということですよね。

喜ばれないし、感謝されないということは、相手は「もう十分にある」ということです。

十分にある人に与えるよりも、足りない人に与える方が、喜んでもらえますし、より大きな価値ができますよね。

 

だから私は、私のファンでもない編集長やプロデューサーには興味ないんですよ。

そんな人に時間や作品を与えるぐらいなら、喜んでくれるファンの人に与えたいと。

もしその編集長やプロデューサーに受け入れられれば私が一躍有名になれて、大金持ちになれるとしても、そんなの関係ないんですよね。

そもそも、私は既に十分な豊かさを持ってますから。

 

大好きな人と、大好きなことをして生きられる自由と豊かさがあれば、なぜわざわざイライラすることを抱えなければならないのか、ということですね。

それで、冒頭のちょっとした「十分にある人」と一緒の時間を過ごさざるを得なくなり、面白くないどころか、「こんな力があるだけのしょーもない人間と時間を過ごすぐらいなら、この時間をファンを喜ばせるために使いたい」と強烈に思ったという。

 

「強い人」よりも「弱い人」に与える、というスタイル

だから、私は私を必要としている、力がない人に分かち合いたいと思っています。

私があふれるほど持っているけれども、相手は全然それを持たなくて、切にそれを欲している、そういう人と分かち合いたいと。

 

で、多くの場合、「それを持たなくて、切に欲している」という人は、地位や名誉とはかけ離れた場所にいる、小さな弱者です。

そういう人が、力を持つ人にあこがれるわけですね。

例えば私の場合、詩的センスが皆無なので、詩的な表現ができる人には超あこがれるんですよ(笑

私は詩的センスにおいては、もう最も何も持たない弱者です。

 

それと同じで、私にあこがれるファンの人は、私が大いに持っているものを、全然持っていない人になります。

私はそういう人たちに分かち合うから、大いに喜んでもらえていることになります。

 

「足りない人に与えて、対価を得る」がビジネスの本質

そして、これこそが、ビジネスの本質じゃないかと思います。

足りない人に、余っているものを与えると。

そして、足りない人から感謝として、いろんな形で対価を得ます。

そういうのが正常な分かち合いと、対価を得る流れになるわけです。

 

余っている人に与えて、それで対価を得ようとするのは、ビジネスの本質からは外れてますよね。

特に新人賞とか見ると、「余らせている人に与えるのはアホらしい」って感じるんですよ。

だから、「新人賞が欲しいなら、お先にどうぞ」と譲れると。

ただ単純に、「ファンに与える方が嬉しいし、価値もあるから、そうしている」というだけです。

 

だいたい、目上の人にこびへつらっているような私なんか、嫌でしょ(笑

「あやえもさんが必死で作り笑いをして、出版社の編集長にこび売ってる!」なんて姿、誰も見たくないかと思います(笑

そもそも私には大切なファンがいるから、そんなことをしないわけですね。

ファンと分かち合えて、そこで喜んでもらえるから、力を持つ人なんかどうでもいいんだと。

 

「ブラック・ジャック」という手塚治虫先生の漫画がありますが、あのブラック・ジャックと同じ感覚です。

彼は「外科手術」という特殊能力を持ちますが、それを分かち合うようになると、喜んでくれる人ほど与えたくなるんですよ。

「どんなにハンディキャップを背負ってでも、成し遂げたいことがある」と切実に願う患者ほど、どんどん助けて、分かち合っていくと。

逆に、地位や権力だけを持って、成し遂げたいことがないような人には、「同業者は他にもいるから、そちらをどうぞ」、「同業者さん、お先にどうぞ」と譲るわけですね。

まさにその感覚です。

 

まとめ

そう考えると、私の生き方が分かるかと思います。

ただ単純に、「こっちの方が嬉しいから」で与えて、実はその方がちゃんとした対価を得られる、という考え方です。

困っていない人に受け入れられようとすると、自分の強みが失われて、感謝も得られずに、イライラして、価値を得られなくなると。

逆に困っている人に与えようとすると、自分の強みが生かされて、感謝も得られて、喜びと共に対価を得られます。

 

で、困っている人に与えようとすると、誰でも自分の豊かさに気づきます。

自分より持っていない人や、その分かち合いを切に欲している「力のない人」は、たくさんいます。

そういう人に分かち合えば、相手が弱ければ弱い人ほど大いに感謝されますし、涙を流して喜んでもらえます。

すると、そこで初めて「自分が持つこの特徴は、人を助けて、未来を作り出す力があるんだ」と分かります。

 

先日、36歳でがんになって余命幾ばくという人を知りました。

その人は子どもに何が残せるのかと真剣に考えて、毎日を生きているんですよね。

私はそういう、必死な人が好きなんですよ。

今私はとある専業漫画家志望の方のプロットチェックをしていますが、その方も同じように、「大好きなことで生きていきたい」、「こういう感情を、うまく表現したい」と必死になっています。

そういう人には、私は自分の力をどんどん分かち合いたいと思ってます。

 

力がなくても、有名でなくても、いいんですよと。

私は、売り上げ部数だとか、経歴だとか、どれだけすごい舞台で活躍しているかとか、そんなのにはさほど興味はありません。

希望を持っていて、それに対して真剣に挑む人に、力を分かち合えればなと思ってます。

 

ということで、今日は「困っていない人よりも、困っている人に与える」、というお話をしてみました。

今日はここまで~。

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