今日は人間心理のお話です。
ポジティブに考えるほど、現状から出られない思考の罠(わな)にはまる、というお話です。
最近はよく「ポジティブに対するネガティブキャンペーン」をしてますが、今日はまさにそれです(笑
「ポジティブ考えるから、現状から出られない」という思考の罠
私たちは苦しい状況では、「現状から出たい」と感じるものですが、なかなかうまくいかないことが多いですよね。
だから苦しいことがあると、「ポジティブに考えよう」とすることが多いように思います。
それは、ポジティブに考えることで前向きになれて、少しでも元気になれて、変化を作れそうな気がするからで。
実際にポジティブに考えると、落ち込んだ気分が消えた感じになって、「頑張ろう!」とできるものです。
でも最近の私は、その「現状から出られない」という原因が、「ポジティブに考えよう」とすることそのものにあるように感じてきました。
つまり「ポジティブ考えようとするから、現状から出られなくなる」という思考の罠があるわけです。
じゃあなぜそう言えるのか、説明してみましょう。
なぜポジティブになると、現状維持をしてしまうのか
この理由は、冷静になって見ると、とてもシンプルで簡単です。
その結論から言うと、「損をしていると分かっているのに、その損をポジティブさで埋め合わせてしまうから」です。
そして人は「損をした」と受け入れない限り、学ばないし、行動も変えません。
だからポジティブに考えようとするほど、損失を否定して先送りにして、現状維持をしてしまうわけです。
これを説明するために、次のような2つの事実を再確認しておきましょう。
- ポジティブに考えようとするのは、損失を受けている時である
- ポジティブに考えるその内容は、「別の価値」に気づいているわけではない
この2つが見えると、「なぜポジティブになるほど、現状維持をしてしまうのか」が分かるかと思います。
「ポジティブに考えようとするのは、損失を受けている時である」という事実
まずは、1つめの「ポジティブに考えようとするのは、損失を受けている時である」ということです。
ここで改めて、「ポジティブに考えよう」と思う状況を想定してみましょう。
私たちはどういう状況で、「ポジティブに考えよう」とするのか、ということですね。
なら、それは「損失を受けた時」だと分かります。
というのも、私たちにとって利益になることなら、自然と「やった、いいことがあった!」となるので、「ポジティブに考えよう」とはしません。
例えば500円玉を拾ったら、「やった!」と喜ぶだけで、わざわざ「これをポジティブに考えよう」とはしませんよね。
同じように、利益にも損失にもならないことは、「こういう出来事があった」と認識するだけで、これも「ポジティブに考えよう」とはしません。
例えば「歩いていると、鳥が木から飛び立った」とか「雲が動いた」、「見知らぬ人々が会話している」とかは、私たちにとって利益でも損失でもありません。
なので、これも「ポジティブにとらえよう!」なんて思いません。
ならば、「ポジティブになろう」とするのは、必ず「自分は損をした」と理解している状況だと分かります。
実際に「損をした」と分かったときって、苦しいですよね。
だから、「ポジティブになろう」と考えることで、マイナスを埋め合わせて、プラスマイナスゼロにして気分を整えるわけです。
「ポジティブになっても、別の価値に気づいているわけではない」という事実
そしてここで2つめの、「ポジティブに考えるその内容は、『別の価値』に気づいているわけではない」ということを見てみましょう。
私たちはポジティブに考えようとしますが、その「ポジティブになる」というのは、「別の価値を見つけること」ではありません。
むしろそれは、「これが未来に価値になると、こじつけていること」に過ぎません。
出来事には「別の側面」がある
ならここで、「別の価値を見つけること」とはどういうことなのかを、改めて見てみることにしましょう。
本来ならば、出来事には必ずトレードオフとなる、「別の側面」があります。
そしてその「別の側面」に気づくことで、私たちは目からウロコが落ちて、価値観が変わります。
例えば「私が500円を拾って、喜んだ」という出来事があったとしましょう。
でもそこには、「誰かが500円を落として失った」という別の側面があると分かります。
もちろん、相手が「500円」という物質にどれだけの価値観を持っているのかは分かりませんが、そういうトレードオフがあるものですよね。
そして「もし私よりも貧しくて、工夫できない人が落としたなら、ちょっとその人は哀しいかもな」と共感すると、それが私たちにとっての利益なのか、損失なのか、分からなくなります。
そんな風に、「別の側面(トレードオフ)」に気がつくと、基本的に目からウロコが落ちて、価値観が変わるものです。
だから、次に同じような状況に出くわしたときに、行動が変わります。
忘れ物のバッグが落ちていたら、安全な場所なら「そのままにしておこう」とできたり、盗まれそうなら「落とし物として預けよう」とできるかもしれません。
「ポジティブに考える」は、価値観が変わっていない
でも、「ポジティブに考えよう」という場合、その「目からウロコで、価値観が変わる」ということがありません。
まずほとんどの場合で、「これが未来の価値になる」と、不自然な理論でこじつけているに過ぎません。
例えば「嫌なことがあったら、それだけ未来にいいことがある」とか考えて、納得しようとしますよね。
でもこれって、冷静に考えてみるとトンデモ理論でしょ(笑
だってそんな確証はないし、むしろ幻想的な願望でしかないんですから。
いやまぁ、少し前の私も、盛大にそういうことを言っていましたが(笑
他にも、「うまくいかない時期は、自分の根っこを育てている時だ。未来に成長する土台になる」とか、「失敗があるから学べて、未来に成長できる」とか言いますよね。
確かにそれはそうなんですが、冷静に考えると、「今うまくいかないのは、時期や状況に合わないことをしているからだ」ととらえるのが自然です。
つまり、「今、うまくいかないことが起きること」と「未来に自分がどうなるか」ということは、本来ならば無関係なことです。
「今、目の前で算数の筆算が解けないこと」と、「次の秋、きっと裏山で栗が採れるから利益になる」ことは、まったくの無関係です。
「算数の筆算でうまくいかない」という問題は、算数に目を向けて学ぶことで、初めて解けることです。
それなのに、「未来によくなる」という不確定な利益を勝手に想定することで、「今の原因」に目を向けることをごまかしていると言えます。
おそらくその根底には、「うまく行っていない」という事実に目を向けるのが怖いからか、自尊心を失いたくないから、という事情があるかもしれません。
だから、「ポジティブになろう!」とその理屈を考えても、目からウロコが落ちることはなく、価値観が変わることもありません。
つまりそれは「別の価値に気づいた」というわけではない、ということです。
「次の秋に裏山で栗が採れるから、算数の筆算ができなくても大丈夫」とこじつけているに過ぎません。
「自分が損をした」とは思っていないから、変化できない
この「損をしていると気づいていること」と「別の価値に気づいたわけではない」という2つが分かると、なぜ「ポジティブになると、現状維持をする」のかが分かります。
というのも、実際は損をしているのに、「自分が損をした」とは思っていないんですから。
人は、予想外の利益を得るか、損をしない限り、行動を変えません。
で、実際では損をしていて、トータルではマイナスなのに、「きっとこうよくなる」と未来の利益をこじつけて、プラスマイナスゼロにしているわけです。
感覚では損をしていないんですから、それで行動が変わるわけがないでしょ!(笑
だから「実際は損をしているのに、現状維持をしてしまう」という現象が生まれます。
そしてこじれを深めてゆく
そして、その「ポジティブに考える」という埋め合わせの考え方を、「こじれ」と呼びます。
多くの場合で、「我慢や苦しみが、未来にこう利益になる」、「自分のような人が報われる」と、不自然な理論でこじつける内容になるでしょう。
だけど、再度言うと、「うまくいかないのは、時期や状況に合わないことをしているから」です。
そんな中で、「私のような人が成功する」と自分を説得するのは、「こじれている」としか言えないかと思います。
そして当然ですが、状況が変わらない限り、同じ過ちを繰り返し、損をし続けます。
なので、どんどんと「もっとポジティブになれる思考体系を」とポジティブさを求めて、こじれを深めてゆきます。
例えば「仕事が合わなくて苦しい」という場合、本来なら「仕事を変えたり調整すること」が自然なのに、それを無視して「もっとポジティブになろう」とするわけです。
「無理矢理にでも笑顔を作れば、セロトニンが出て心地よくなる」とか、「元気そうに振る舞えば、元気も出る」としてしまったり。
で、科学的には正しくても、「苦しいことなのに、毎日自分から笑顔で元気そうに、苦痛に飛び込んでゆく」という生命としては不自然な行動をしてしまうと。
そして、ずーっと我慢して、「もっとポジティブに、もっと!」としてしまうわけですね。
ある意味、これは「ポジティブ依存症」と言ってもいいでしょう。
健全な人は、泣いて損切りをする
なら健全な人はどうするかというと、「素直に泣く」ということです。
もちろん社会や学校ではその場で泣けないこともありますが、例えば家に帰って「うまくいかなかった、わーん」と泣いて、憂さ晴らしに枕を殴り飛ばせばいいわけです(笑
そして泣くことで、抑圧を翌日に持ち越さずにすみます。
これはある意味、「損切りをする」と言えるでしょう。
損をしたと理解したとき、「損だった」と素直に受け入れることで、損失を確定してしまうわけですね。
で、泣くことで感情を精算して、損を切り捨てると。
これは、2度、3度と同じことが繰り返されると、この損切りが学習効果を発揮します。
というのも、何度も泣いていると、学習しますからね。
だから、例えば合わない仕事をしている場合、「何度も泣くなんて、バカらしい。この仕事は合わない。変えよう」と、素早くフィードバックできて行動できます。
ポジティブに考えるから、行動が変わらない
一方で「ポジティブに考えよう!」とする場合、行動が変わりません。
それは、自分の中でプラスマイナスゼロに錯覚してしまっているからですね。
だけど実際は、「元気を失う一方で、利益はトンデモ理論でこじつけた幻想的な未来」という、完全なマイナスです。
そして、ポジティブに「これが学びになる」とか考えても、それはごまかしでしかありません。
言うなれば、「ポジティブになれば、現状から学べて、未来はよくなる。未来の糧(かて)になる」とか思いつつ、実際は何も学んでいないし、糧にもなっていないわけです。
人はプラスマイナスゼロのことからは、何も学びません。
損失を受け入れるから学べて、フィードバックができるんですから。
実際に「これをポジティブに考えよう!」と言っている人を、客観的に見てみるといいでしょう。
その「ポジティブに考えよう!」と言った時点で、何も学んでいないと分かります。
まとめ
だから、「ポジティブ考えようとするから、現状から出られなくなる」という思考の罠があると言えます。
「ポジティブになろう!」とするほど、自分の中で損失がなくなってしまうので、現状維持をしてしまうわけです。
それどころから、埋め合わせるためのこじれを深めるし、実質はマイナスなので、ポジティブになるほどどんどんマイナスになってしまうと。
同時に、こじれという思い込みや、「私のような人が報われるべきである」という幻想を強めてしまうことになります。
冷静になって見ると、とてもシンプルで当たり前のことなんですが、これが分からなくなるんですよね。
一方で、「泣く」というネガティブな側に振れば、損失を確定できます。
もちろん1日の中では泣けないこともあるでしょうが、損失を翌日に持ち越す必要はありません。
また、1週間、1ヶ月、1年単位の大きめなネガティブの波に乗ることで、頻度が低く小さな我慢(損失)も確定できるし、フィードバックも得られるでしょう。
だから苦しんでいる人ほど、「できるだけ短期でポジティブに」ではなく、「長期でネガティブを波のように取り込む」が効果的かと思います。
私はここ初夏から夏にかけて、こういう考え方に変わったように思います。
もうとにかく、「14歳前後からの反抗期以降で、社会性を発揮する以外の状況で、ポジティブになる意味はない」ということです。
それは「反抗期に反抗できなかったこと(抑圧を解放できなかったこと)が根本問題」であって、「ポジティブになる」こと自体がこじれている、ということです。
それは、ポジティブ依存症でしかないんですよね。
この「ポジティブさは、ごまかしでしかない。何も学んではいない」という事実が分かると、ポジティブさを重ねる無意味さが分かるかと思います。
するとうまく損切りができて、すっきりして、フィードバックを元に現実を変えてゆけるかと思います。
ということで今日は、ポジティブに考えるほど、現状から出られない思考の罠(わな)にはまる、というお話でした。
今日はここまで~。