今日も精神的なお話です。

「なぜポジティブを目的にすると、間違った方向に突き進みやすいのか」というお話をしてみましょう。

 

まぁこのブログでは、よく「ポジティブに対するネガティブキャンペーン」みたいなことをやってますが、今日もそんな感じです(笑

 

なぜポジティブを目的にすると、苦しみやすいのか

コロナウイルスの影響もあって、最近はだいぶ「ポジティブになろう!」と言う人は少なくなりましたよね。

「ポジティブになろう! ポジティブじゃなきゃ! 絶対ポジティブ! ポジティブにならないのは許さない!」

みたいに連呼していると、やっぱり「ポジティブ疲れ」みたいなものが出てくるでしょ(笑

 

それはまるで、ネガティブになったら深い闇の底にでも落ちるかのように、ネガティブにおびえているようにも感じます。

私からすると、「ネガティブにおびえて、自分の思想に合わないことを排除しようとすること自体が、ネガティブじゃないの?」と思ったりもするんですが(笑

 

まぁポジティブに進みたい人は、それで進んでもらってかまわないんですよ。

ただ、個性のある人ほど、ポジティブを目的にすると、苦しみやすいように思います。

なので、今日はなぜそんな、「ポジティブを目的にすると、間違った方向に突き進みやすいのか」という理由を説明してみようかと思います。

 

ポジティブかネガティブかは、一つの手段でしかない

これは単純に、ポジティブかネガティブかは、一つの手段でしかないからですね。

で、目的が何かを忘れて、手段を目的とすると、ややこしいことになると分かります。

 

例えばポジティブとは「とある方向に積極的に動くこと」を、ネガティブというのは「あまり動かず、不測の事態に対して備えること」を指すとしましょう。

なら、例えばコロナウイルスのように感染症でもはやったりすると、備蓄を増やすことが大切になると分かります。

備蓄は先行きにネガティブだからできることで、「ポジティブに備蓄を増やそう!」なんて言わないんですから(笑

それは、一つの手段でしかありません。

 

なのに、「ポジティブになろう」という手段を目的にしてしまうと、うまくいきにくくなると分かります。

それは、その反対側の手段をうまく使えなくなるからですね。

備蓄なしで、台風とか地震、ウイルスで混乱した状況を生きようとするようなものです。

 

間違った方向に進んでいる場合、必要なのは方向転換

私たちからすると、「前向きに生きよう」って言葉は、「いいことだ」とか思いがちですよね。

「なんか前進している感じがあるし、後退とか立ち止まるよりも、前向きになる方がいい」みたいに思うものです。

 

でも、間違った方向に進んでいる場合、「私は前しか見ない、前進しかしない」っていうのは、苦しいだけだと分かります。

だって、ずーっと間違った方向に進むことで、永遠に苦しむんですから。

 

「ポジティブじゃなきゃ」って言っている人にとって、本当に必要なのは、方向転換なわけです。

なのに、「前に進まなきゃ」と軌道修正をしないことで、周囲や自分の状況が見えなくなっているんですよね。

だから、「ポジティブじゃなきゃ」と苦しむわけです。

 

納得できる道を進む人は、「ポジティブじゃなきゃ」なんて言わない

そもそも、自分にとって納得できる道を進んでいるなら、苦しくても「ポジティブにならなきゃ」なんて言いません

それは、その方向性に進むことに意味を感じているからですね。

「ポジティブにならなきゃ」と言っている時点で、納得できない道を進んでいるわけです。

 

それで、うまくいっていれば問題ないんですよ。

でも、今までの方法論でうまくいかない状態なのに、「ポジティブに、現状維持を続けよう」というのは、あまり得策ではないように感じます。

だって、方向性を変えようとしたり、疑ったり、再検討や模索をすることは、全部ネガティブ側ですからね。

 

周囲の人から見ても、そういう「ポジティブばかりの人」って、嫌だと思うんですよ。

それは、「自分の価値観や手段が最高だ」と信じて疑わないからで。

「ポジティブが絶対善で、ネガティブが絶対悪」みたいな思考になると、ネガティブ側の人や手段を許せなくなるものです。

実際に、「ネガティブはダメだ!」と許せない人って、嫌でしょ(笑

 

「ポジティブになろう」よりも、「自然でいよう」

私の中では、「ポジティブになろう」よりも、「自然でいよう」が好みだったりします。

それは、ポジティブな手段も、ネガティブな手段も、時と状況に応じて使えるからですね。

「元気な時は動いて、疲れたら休む」、「安定した状況では動いて、不安定な状況では土台固めをする」、私はそういうスタイルが好きです。

 

で、「ポジティブになろう」と「自然でいよう」というのは、両立しません

というのも、「自然」とは「ポジティブもネガティブも両方を含むもの」ですからね。

自然とは、朝があれば夜もあるし、夏があれば冬もあり、上昇気流もあれば下降気流もあってつり合う世の中です。

「両方を使おう」と「片方だけ使おう」という方法論は、相容れないものだと分かります。

 

それなのに、たまに「ポジティブになって、自然でいよう」みたいに論理破綻したことを言う人がいるんですよ。

言うなればそれは、「部屋を赤く塗ろう。緑に塗ろう」と言っているのと似たようなものです。

言っていることが意味不明でしょ(笑

なので自然でいたいなら、「ポジティブにも、ネガティブにもなろう」がいいかなと思います。

 

ポジティブって何なの?

まぁ余談ですが、以前も言いましたが、私からすると、「ポジティブって何なの?」って言いたくもなるんですよね。

「休むことはポジティブじゃないの? 寝ることとかくつろぐこと、遊ぶこと、無駄な時間を過ごすこと、落ち込むこと、泣くこと、それらはダメなことなの?」

そう言いたくなるものです。

 

なら、「ポジティブが何を指すのか」なんて、結局は「その人の思い込み」でしかないと分かります。

そんなあやふやなものに対して「ポジティブでいよう」なんて言うのは、「私の思い込みを続けよう」と言っているのと変わらないように感じます。

言い換えると、「世界の片方の側面しか許さない」と言っているのと変わらないようにも思います。

もし「世界の両面を受け入れよう」とするなら、それは「自然でいよう」になるんですから。

 

「外向型のように生きよう」から脱却しよう

で、多くの場合で、「ポジティブでいよう」というのは、「外向型のようにいよう。外向型のように生きよう」とすることのように思います。

「感覚にニブくなって、同じ手段を繰り返して、みんなと同じように生きて、競争に勝とう」というスタイルかなと。

ニブくてレールの上を歩く人はそれでもいいんでしょうが、個性の強い人で、独自の道を進む人ほど、そういうスタイルは合わないように感じます。

 

なので私の場合は、自分の思い込みを外して、いろんな世界の側面を知る方が好きですね。

「世の中には、いろんな人や考え方、生き方がある。それを受け入れていこう」

こういう自分の常識を否定することは、ネガティブ側のように思います。

 

まぁより正確に言うと、私がよく言う「陰と陽」の概念ですね。

「ポジティブな中にもネガティブがあって、ネガティブな中にもポジティブがある」、そういうとらえ方が好きだったりします。

 

まとめ

そんな風に、ポジティブもネガティブも、一つの手段でしかないと思うのもいいでしょう。

それを「ポジティブじゃなきゃ」と目的にするから、他の道が見えなくなって、現状維持を続けやすいように思います。

 

安定した時代なら、その方が何も考えずに生きられるのでいいのかもしれません。

でも、不安定な時代ほど、多くの手段を選べる方がいいように感じます。

 

すると、目的をしっかりと把握できて、適切な手段を選べるかなと思います。

 

ということで今日は、「なぜポジティブを目的にすると、間違った方向に突き進みやすいのか」というお話をしてみました。

今日はここまで~。

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