今日は、久しぶりに精神的なお話です。
なぜ毒親で育った人ほど、「好きなことへの理由」を求めてしまうのか、というお話です。
好きなことに「理由」を求めてしまう苦痛
とある人が、こういうことを言っていたんですよ。
「好きなことをしたいのに、つい『それをする意味ってあるんだろうか?』と考えてしまって、うまく行動できない」と。
こういう「好き嫌いに対する理由」を考えてしまい、悩んだり苦しむことって、人によってはあるように思います。
「なんで私はこれに興味を持ったんだろう?」
「私はこうするのが好きだけど、していいのかな?」
「こんなことをして、私の人生に意味なんてあるのかな?」
みたいなものですね。
そして考え込んでしまう
それで、考え込んでしまって、なかなか理由が見つからなかったり、意味が見えなかったりして。
なので、なかなか行動できなかったり。
でも、実のところ、「好き嫌いや価値観」は結果ではなく、理由そのものなんですよね。
これが分かると、「好き嫌いに理由なんて必要ない。それは認知のゆがみだった」と分かって、行動しやすくなるように思います。
ってことで今日は、なぜそんな風に、「毒親で育った人ほど、好きなことへの理由を求めてしまうのか」というお話をしてみましょう。
なぜ好き嫌いに理由がないのか
以前の記事でも触れたように、本来、価値観には理由はありません。
というのも、「価値観」とは結果側ではなく、「理由」側だからですね。
なお、ここでは分かりやすく説明するために、「価値観」を「好き嫌い」と言うことにしましょう。
ここでは、「価値観」イコール「好き嫌い」とします。
遺伝子とは、「好き嫌い」の情報群
私たちの好き嫌いって、私たちが「意思で変えられるもの」ではないことがほとんどです。
というのも、遺伝子はまさに「好き嫌いがまとまった情報群」ですし、その遺伝子によって、私たちが意識できる「好き嫌い」が生まれるわけです。
例えば、「目は2つある方が好き、鼻は1つ、口も1つ、それらを顔の上に作る」みたいな人体の設計図は、すべて「好き嫌い」だと言えます。
そういう配置が好きだから、そういう配置にしていると。
それとか、「肌の色はアジア系」とか、「筋肉はつきやすい体質」、「脂肪はつきにくい体質」みたいな肉体的な特徴も、「遺伝子が好き嫌いで選んでいる」と言えます。
他にも、「お酒が好き」、「ピーマンの苦みが嫌い」みたいな味覚まで、遺伝子で決まるものです。
自分の意思で遺伝子を変えることはできない
私たちは、それら遺伝子を、自分の意思で変えることはできません。
「私は自分の意思で、遺伝子を変えて、目を3つ作れます!」みたいに自在に変えられる人がいたら、見てみたいものです(笑
すると、少なくとも幼い頃は、「好き嫌いに理由なんてない」が正しくなります。
というのも、幼い頃になるほど基本的に、先天的な好き嫌いでのみ判断するからですね。
だから、少なくとも幼い頃は、「好き嫌い(価値観)は、理由そのものである」と言えます。
幼い頃に「好き嫌いをするようになった理由は?」と言われても、「私の遺伝子がそう言っているから」としか言えないんですよ。
なので幼い頃は、基本的に「好きだから、嫌いだから」で理由は完結するのが普通です。
なぜ「好き嫌いに対する理由」を考え始めたのか
でも、私たちはなぜか、「好き嫌いに対する理由」を考えてしまうわけです。
その原因はいくつもあるでしょうが、一つの大きな原因として、親や周囲から「理由を問われること」で、行動をコントロールをされてきたから、という原因があるでしょう。
そしてこれが、毒となる親の元で育った子が抱えやすい、「認知のゆがみ」の典型例だろうと思います。
例えば親が子をコントロールしたい場合、「どうしてそうするの?」とか「どうしてそうしたの?」と、子供に理由を問いかけて、子供を責めます。
すると、「どうして?」と訊かれると、理由を答えなきゃいけないじゃないですか。
でも、少なくとも好き嫌いでの行動に関しては、本来は「好き嫌いの理由」なんてないわけです。
「なぜピーマンが嫌いなの?」と問われても、「嫌いだから嫌い。私の遺伝子がそう言っているから」でしかないんですよ(笑
「理由がなければ否定される」という環境
だけど、子供にはそんな「好き嫌いに理由はない」なんて分からないので、無理矢理にでも「こうだから」とか答えます。
「ピーマンは苦いから」とか、「食べたくないから」とか、まぁ無理矢理な答えですよね。
すると、親は子が答えた理由に対して個別に反論することで、「その理由は間違っている」と否定できて、子の行動をコントロールできます。
「そんなの正当な理由にならない」と、否定できるわけですね。
たとえ子供がうまく答えられなかったとしても、「理由を言えないってことは、あなたが間違っている」と否定できて、コントロールできます。
そうやって行動をコントロールされていると、子は「好き嫌いには理由がなければ、行動してはいけない」と学習してしまうんですよね。
本来は、「好きだから、嫌いだから」で完結させていいわけです。
なのに、相手からコントロールをされることで、「理由をはっきり言えなきゃ、好き嫌いをしちゃいけない」と誤認してしまうと。
ある意味、「正当性がなければ、その行動をしてはならない」と学習して、どんなことにも理由を求めてしまうわけです。
まとめ
なので、「好き嫌いに理由なんて必要ない」と知ることで、そういう認知のゆがみを正せるかと思います。
「なんで私はこれに興味を持ったんだろう?」
「私はこうするのが好きだけど、していいのかな?」
「こんなことをして、私の人生に意味なんてあるのかな?」
そう問いかけること自体が、認知のゆがみを持っている、ということです。
それは、幼い頃から好き嫌いに対しても「どうして?」と問われた結果でしょう。
それは多くの場合で、親から行動をコントロールされるために問われたことでしょう。
健全な人は、理由ではなく、「それをするリスクとリワード(報酬)」だけで考えます。
リスクが大きいなら行動しないし、何らかのメリットがあるなら、リスクを下げるなり、リスクと天秤にかけて行動すると。
この「好き嫌い」に対するメカニズムが分かれば、「意味」から解放されるかもしれません。
究極のところ、私たちが生きる意味も、「好きだから、好きに生きる」でいいかと思います。
で、理由を排除できれば、意味にとらわれなくなります。
すると、好き嫌いにも「こういうリスクがあるから、こういう行動をする」という判断主体で、気楽に行動できるかと思います。
ということで今日は、なぜ毒親で育った人ほど、「好きなことへの理由」を求めてしまうのか、というお話でした。
今日はここまで~。