今日は少し、哲学的なお話をしてみましょう。
「性善説、性悪説は無意味である」というお話です。
「性善説、性悪説」という観点
世の中には、性善説、性悪説ってありますよね。
「人は本質的に善だ」とか、「本質的に悪だ」みたいに定義することで、「こう教育する方がいい」というアプローチなんですが。
私の中では、こういう性善説、性悪説というくくりで考えるのは、無意味に感じるんですよ。
じゃあなぜ無意味になるのか、今日はそんなお話です。
なぜ「性善説、性悪説」は無意味なのか
この理由は単純で、「善悪」というのは、社会ごとに定義されるからですね。
以前も「絶対悪は存在するのか」の記事で触れましたが、「善や悪」というのは、「どの社会から見るか」という基準点が必要になります。
例えば私たちの人間社会からすると、「畑を広げて、食べ物をより多く、安価に得られるようにする」というのは、基本的に善なる行動ですよね。
でも、その土地で生きていた動物とか生命にとっては、追いやられることになってしまいます。
つまり、ある社会にとっては善でも、「その社会に属さない生命」にとっては、悪になりうると。
社会によって、善悪は異なる
実際に、社会によって、善悪や価値観は異なるものです。
例えば、ある社会が「昔ながらに暮らせるのがいい」という善があっても、他の社会では「そいつらが変化しないせいで、成長を阻害している」という悪にもなりえます。
視点を反転させると、「競争で経済成長をするのは善である」という価値観の社会から見れば、「既得権益を手放そうとせず、成長を止めている」というのは悪になるでしょう。
そして、人間社会は様々な社会が組み合わさっているものです。
ビジネスや業種、国家、地域、人種、思想、年齢、性別、趣味趣向、身体的特徴、政治、経済、教育、いろんな社会があって、複雑に組み合わさっています。
つまり、「統一的な社会」なんてものはない、と言えるわけですね。
なので、結果として「性善、性悪」なんて定義は無意味になる、ということです。
一元論と二元論
もう少し哲学に踏み込むと、こういうのは、「一元論、二元論」としてよく言われます。
で、一元論と二元論はどちらが正しいのかというと、これはものの見方を変えただけに過ぎません。
そして、一元論は「状態」を見て、二元論は「変化」を見ている、と言えるでしょう。
一元論は、「同一性」に目を向ける
一元論というのは、性善説とか性悪説のように、「人間の性質は、基本的に同じである」という風に、「同一性」に目を向けます。
だから、「人間はすべて善である」、「すべて悪である」、「すべてこういう性質を持つ」という風に、「すべての人間は、こうである」と言うわけです。
他にも、例えばプラトンの「イデア」という概念も、一元論です。
現代の科学的な思考も、基本的に一元論です。
これは、安定した時代で、社会を維持する場合に効果的な概念になります。
というのも、「みんな同じである」と扱うことで、うまく全体に適応できる、社会的な政策を作れますからね。
なので、一元論は政治や社会と結びつきやすいと。
二元論は、「変化」に目を向ける
一方で二元論は、「陰と陽」とか「春夏秋冬」のように、「状態や性質は変化する」という前提でものを見ます。
なので、こういう二元論は、変化にうまく適応して、生き抜く時に効果的な概念になります。
そして二元論は、個人や個性みたいな、「違いをうまく使う」という発想と結びつきやすい、と言えるでしょう。
なので一元論と二元論は、「どちらがいい悪い」、「どちらが正しい」ではなく、ものの見方でしかない、ということですね。
「同じもの」に目を向ければ一元論になるし、「変化」に目を向ければ二元論になると。
とはいえ、私の中では、やはり二元論の方が好きだったりします。
それは、「変化する時代に生きる」とか、「個性をうまく使う」というアプローチが好きだからだろうと思います。
私はあんまり社会に縛られたくないですからね(笑
まとめ
そういう風に見ると、「性善説、性悪説」というのは、「一つの限られた社会でしか通用しない発想だ」と分かるかと思います。
なら、「それを人類すべてに当てはめることなんて、できそうにないな」と分かるんじゃないかと思います。
実際に広い視野で見れば、「何が正しい」なんて言えなくなります。
食べる側はよくても、食べられる側からするとたまったもんじゃないわけで(笑
同じように、例えば「誰かを助けること」も、場合によっては「自立心を失わせる」みたいになりうるわけで。
なのに、そういう「他者の命を食べること」や「失敗させないこと」を「善だ」と信じ込むことは、私からするととても「社会維持的だな」と感じたりします。
私は「違う価値観やメリットがありうるよね」、「違ってもいいじゃない」みたいに、いろんな価値を見つけるのが好きなスタイルですからね。
特に、独立したり、自分の生き方をする、みたいな「確証がない世界で生きる」という場合、そういう二元論の方が合うように感じます。
例えば「活動と休み」、「ポジティブとネガティブ」、「上昇と下落」、「成長と衰退」、「得ることと手放すこと」みたいなものは、どちらも大切だということです。
すると、うまくバランスを取れて、自分なりのスタイルを作れるかもしれません。
ということで今日は、「性善説、性悪説は無意味である」というお話でした。
今日はここまで~。