今日も精神的なお話です。
「選ばれる人になる」ではなく、「選ぶ人になる」という考え方について、お話ししてみましょう。
「選ばれる人になる」か、「選ぶ人になる」か
よく、「選ばれる人になりなさい」って言うじゃないですか。
例えばお客から選んでもらえたり、会社から選んでもらえたりすることで、お客ができたり、会社に就職できるわけです。
これはこれで素晴らしい教えだと思うんですが、私は「選ばれる」というスタイルは取っていません。
このブログでも、「選ばれたい」と思うことで、しんどい思いをしている人が多いんじゃないかと思います。
例えば入社試験とか、原稿の持ち込みとか、ありますよね。
で、採用されればいいんですが、落とされたらショックで落ち込むでしょ(笑
「自分には価値がないんだろうか」とか、「自分の作品には、価値がないんだろうか」と思って、元気がなくなってしまって。
すると、モチベーションも落ちて、幸福感も失われて、元気よく生きることができなくなってしまうんですが。
超絶すごい実力があって、すぐに認められたり、一生認められ続ける才能があれば、それはそれでいいんですよ。
でも、「選ばれたい」という発想だと、ずっと認められるために動かなくちゃいけなくて、そこには常に「選ばれない」という恐怖があって、なんか苦しいですよね。
じゃあ、そういう場合、どうすればいいのか。
そこで今日の本題である「選ぶ側の人になる、という発想もありますよ」ということですね。
「選ばれる人になる」と「選ぶ人になる」では、ルールが違う
「選ばれる人になる」と「選ぶ人になる」では、ルールも考え方も、全く正反対のものになります。
「選ばれる人になる」という場合、基本的に「目上の人に受け入れられる」ということが主体となります。
例えば社長や人事担当から選ばれることで就職できて、編集者から選ばれることで掲載や連載できて、お客に選ばれることで買ってもらえると。
だから、相手の希望にかなう人材にならなきゃいけないし、自分の好きにできないし、売れるためには相手のご機嫌を取らないといけないわけで。
すると、「買ってもらうために頭を下げる」とかしなくちゃいけなくなります。
これって、ストレスですよね。
で、何のために買ってもらいたい(お金が欲しい)のかというと、「豊かになって、人に頭を下げずに、自由に気楽に生きたいから」だったりするんですよ。
なら、よくよく考えてみると、「人に頭を下げずに生きたいから、人に頭を下げて買ってもらう」みたいに、なんかちぐはぐなことをしていると分かります。
最初から「選ぶ側に立つ」という発想
「なら、最初から選ぶ側に立てばいいんじゃないの?」というのが、私の考え方です。
選ぶ側に立つということは、最初から自分がトップに立つことを意味します。
で、この場合、「お客から選ばれる」ではなくて、「お客に与える(分けてあげる)」というスタンスになります。
というのも、選ぶ側には、「自分は世の中にこういうものをもたらす」という確固としたビジョンが必要になります。
ビジョンがないと、選べませんからね。
「私はこういう道を選ぶ」と決めないと、選ぶことはできません。
例えば「私はこういうゲームが好き。だから、そんなゲームを作って売って、喜んでもらう」とか、「私はこういうカップリングが好き。だからそんな漫画を作って売って、喜んでもらう」とできるわけです。
すなわち、選ぶ側に立つと、お客には「そのよさを教えて与える側」になります。
「選んでもらう」(お客が上、自分が下)じゃなくて、「与えて、教える」(自分が上、お客が下)ですね。
だって、お客よりも自分の方が、圧倒的にその世界を知っていて、詳しいわけです。
そして、他にはない魅力を持っています。
すると、「お客から選んでもらう」という感覚ではなくて、「お客が『私はこれでなきゃダメなんです。是非もっと分けてください』と頭を下げに来る」という感覚です。
すなわち、私たちはお客の師(メンター)になる、ということです。
「選ばれる人になる」を「良質な小間使いになる」とすると、「選ぶ人になる」は「圧倒的な師になる」ということです。
これがまた、すごく気持ちいいんですよ(笑
というのも、頭を下げて買ってもらう必要なんかなくて、相手が頭を下げて「私にください」と言ってくれるんですから!
「完全に実力勝負の世界」に入れるかどうか
でも、これを実現するには、覚悟が必要になります。
だって、売れなければ自分の実力不足で、他者の責任にできませんからね。
それに、「人々が頭を下げて懇願するほどの、圧倒的な魅力」が必要になります。
それを自らの手で作り出さなきゃいけないんですから。
そんな「完全に実力勝負の世界」に入れるかどうか、ということです。
「売れなかったとしても、誰一人責めることはできない。全て自分のせいで、結果を受け入れられるか」、その世界に飛び込める覚悟があるかどうか、ですよね。
私はもう最初から、こういうスタイルで動いていました。
能力があれば、売れる。
能力がなければ、売れない。
私や商品に魅力があれば、人はやってくるし、商品は売れる。
私や商品に魅力がなければ、人は来ないし、商品は売れない。
なら、他者を否定したところで、売れるようになるわけではないんですよね。
不平不満や愚痴泣き言を言う前に、自分の能力を磨かなきゃいけないと。
実力世界というのは、そういう世界なわけで。
クリエイティブな世界は、実力世界
クリエイティブな世界というのは、そういう実力世界なんじゃないかと思います。
これが分かっているクリエイターさんは不平不満を言いませんし、素直にいろんなところから学んでいるようにも思います。
でも、「選ばれる」という発想だと、一気に不平不満が出てくるんですよ。
だって、「なんであの人が選ばれたのに、自分が選ばれないんだ!」、「なんであれが売れたのに、自分のこれは売れないんだ!」みたいな理不尽って、世の中には山ほどありますからね(笑
だから、愚痴も言うし、不平不満も語るわけで。
私は、この世の中は理不尽で、楽園からはほど遠くて、公平でも平等でもなく、暴力や腐敗がはびこっていて、不幸や苦しみがあふれている、そんな世界だと思っています。
私はそういう認識の方が、生きやすいと思うんですよね。
だって、だからこそできることもあるし、喜んでもらえることもあるし、信頼できる人が現れたときには嬉しいわけで。
逆に、「この世は天国であるはずだ」思うと、理不尽や暴力、腐敗に目が行き、「こんなのひどい」と嘆くばかりになると。
まぁそれはそれでアリでしょうが、私は「誰かが自分の目の前に、素晴らしいごちそうをお膳立てしてくれる」のを待つことはしていません。
それよりも、「自分で自分の目の前に、下手でもおいしいご飯を作って、自分や周囲の人を満足させる」というスタイルを選んでいます。
そういう「あるかどうかも分からないお膳立てを待たずに、つたなくてもいいから、自力でなんとかすること」が、「クリエイティブ」の意味じゃないかな、と思います。
まとめ
そういう風に考えると、クリエイティブな世界で生きる人は、「選ばれる人になる」ではなく、「選ぶ人になる」という発想の方が、楽に生きられるんじゃないかな、と思ったりもします。
完全な実力世界にする方が、自分の責任にできて、楽になると。
それに、不完全な世界の方が、クリエイティビティーを発揮できますからね。
すると、「目からウロコ体験」も多く得られて、楽しむこともできるわけで。
「選ばれる」から「選ぶ」側に。
「他者が主体」から「自分が主体」に。
こういう発想をすると、覚悟が決まって、逆に幸せを味わえるんじゃないかとも思います。
ということで、今日は「選ばれる人になる」ではなく、「選ぶ人になる」という考え方について、お話ししてみました。
今日はここまで~。