今日は、精神的なお話です。

「あこがれること」と「はまること」は違う、というお話をしてみましょう。

 

「自分には才能がない」と思う人、無我夢中で行動できる人

「大好きなことをして生きていきたいのに、自分には全然その才能がない」と感じることって、よくあるんじゃないかと思います。

「これができたらいいのにな」、「こんな風になりたい」と思うのに、自分には全く才能がないわけです。

よくあるのが、「こんな絵を描きたい」とか「こんな物語を作れるようになりたい」と思っても、自分には全然できないと。

で、「自分には才能がない」と落ち込んで、やめちゃうわけなんですが。

 

一方で、「これすごい!」と感じたら、思いっきりそれにはまって、無我夢中でできる人がいますよね。

それで、「すごー! すごーっ!」と叫んでいたら、いつの間にかそれができるようになっていた、みたいな。

例えば絵でも、はまる人は「この水彩ブラシを使えば、こんなに簡単に水彩風にできるなんてすごい! うおお、こんなこともできるのか! 面白い!」みたいなノリで、どんどん描いているわけです。

すると、いつの間にか水彩表現がうまくなっていた、という流れですよね。

そういう人は、水彩に満足したら、次は「うぎゃあ゛あ゛、この筆ブラシすごすぎるう゛う゛う゛!」と、より高い成長をしていくんですが。

 

こういう両者を見て思うのが、「あこがれること」と「はまること」は違うんだな、ということです。

今日はちょっと、そんな「あこがれること」と「はまること」の違いについて、説明してみましょう。

これが分かれば、楽しく成長してゆけるんじゃないかと思います。

 

「あこがれること」とは、「豊かになる可能性」

とりあえず結論から言っておくと、「あこがれること」よりも、「はまること」をやりましょうよ、ということですね。

で、「あこがれること」と「はまること」の違いは何かというと、「あこがれること」のごく一部に「はまること」がある、そういう関係だと思えばいいでしょう。

 

「あこがれること」とは、簡単に言うと「豊かになる可能性」だと言えるでしょう。

すなわち、「今の自分は持たないけど、それを持てばより豊かになれる」と分かるものです。

 

だから、「自分が持っていない、豊かになれるもの」を見たら、結構何でもあこがれちゃうものなんですよ(笑

例えば私の場合、メジャー系でブレイクしている作家さんを見たらあこがれますし、すごい詩的表現ができる人を見てもあこがれますし、絵がうまい人を見てもあこがれて、漫画を描ける人もあこがれると。

当然、クリエイティブな発想にもあこがれますし、ノマドで生きている人や、自転車で長期旅行をしているような人にもあこがれます。

もうあこがれまくりでしょ(笑

 

それは、いろんなものの中で、私が「自分にそういう能力があったら、もっと豊かになれるのにな」と可能性を感じているからですね。

私にはメジャー系で活躍する手段もあるし、詩的表現を加えて表現することもできるし、絵や漫画で説明するという手段もありえると。

なので、あこがれを持てば持つほど、可能性が広がります。

 

「はまる」のは、今の自分に隣り合うピース

でも、「はまる」かというと、全く次元が変わってきます。

そもそも私はリーダーしかできなくて、メジャー系のようにチームプレイができませんし、詩的表現にも興味なくて、絵も満足しちゃったと。

「はまる」というのは、今の自分に合わない限り、はまれないわけですね。

言うなればパズルのピースと同じで、ピースの全ては「あこがれ」や「興味」という可能性なんですが、はまるのは隣のピースだけなんだと。

 

どんどん成長できる人って、そういう「はまるピース」を選ぶのがうまい人じゃないかな、と思います。

パズルだってそうで、「一つのピースを取って、全体のどこにあるかを予測して配置する」よりも、「とりあえず隣にはまりそうなピースを見つけて、はめていく」みたいな流れの方が、作りやすいじゃないですか。

 

これが分からないと、目移りするばかりになって、何も実現できなかったりします。

私が知っている人で、何をやってもうまくいかない人がいるんですよ。

その人は、「これすごい、あれもすごい」といろんなピースに目移りばかりしていて、機材を買ったり環境をそろえたりしています。

でも結局、すぐに飽きてしまって、何も仕上がったものを作れていません。

それは、今の自分に、適切な「あこがれのピース」をうまく選んで、当てはめることができないからなんですよね。

 

うまくいくほど、パズルそのものを楽しむ

逆に、うまくいく人ほど、パズルをはめまくりなんですよ。

そういう人は、「それを自分の身につけることで、将来全体像が何の形になるのか」なんて、ほとんど考えていないようにも感じます。

とりあえず、「はまった! 面白い!」で、はまることばかりをやっているわけです。

でも、どんどん進めていって、気がつくとそれが大きな一枚の絵になっていたりするんですよね。

 

見方を変えると、ピースをはめられない人って、「一生をかけて作るパズルだから、きれいな絵にしなきゃいけない」と思っているように思います。

もしくは、「私はこんな絵を仕上げなきゃいけない」と考えている場合もあるでしょう。

実際、ピースをはめられない人ほど、漫画を描いていないのに「漫画家になりたい」とか、小説を書いていないのに「小説家になりたい」とか、やたら「○○になりたい」と言うんですよ。

「○○をしていたい」ではないと。

 

だから、そういう人ほど、「こんな絵にしなきゃいけないのに」とか考えて、ピースをはめられなくなってしまうわけです。

はめようとしても、「こういう絵にしなきゃいけないから、このピースはここに入れなきゃいけないのに!」と、入りもしないピースを強引に自分にくっつけようとしていたり。

「修行する」とか、「頑張ってやる」というのは、そういう合わないピースを無理矢理入れようとするようなものです。

 

パズルを楽しんで、絵を広げよう

逆に、ピースをはめる人は、「どんどんパズル作りを楽しもう」というノリですね。

実のところ、最終的にどんな絵ができるかなんて、私たちには分からないんじゃないかと思います。

パズルはどんどん広げるほど、いろんな風景になりますからね。

私自身、昔の私には今のような私になるとは思いもしませんでした。

 

でも、後悔のない生き方をしてどんどんはめていたら、なんとなく絵が見えてくるんですよ。

それは、たとえぐちゃぐちゃでも、分かりにくくても、「これでいい。これでこそ、私の絵だ」と納得できるんですよね。

 

まとめ

だから、「自分には才能がない」と落ち込んでいる場合、「あこがれの中から、今の自分にぴったりとはまるものを見つけること」をやってみるといいでしょう。

あこがれを持つことは素晴らしいことです。

で、いろんなことに目移りして手を出すのではなくて、「隣のピース」を選んで、はめてみましょうと。

 

実は、慣れるとすぐに、「隣のピース」は見つかるものなんですよね。

すると、「うぎゃあ゛あ゛、これ最高じゃあ゛あ゛あ゛あ゛」と叫びながら、後悔もなく、楽しく向上してゆけるんじゃないかと思います(笑

 

ということで、今日は「あこがれること」と「はまること」は違う、というお話をしてみました。

今日はここまで~。

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