今日は精神的なお話です。
「過去と今とで、一貫性なんてなくていい」というお話です。
地位を保ちたい人ほど、自分の間違いを認めない
今はまだコロナウイルスで混乱している時期なので、SNSでも見ていると、国とか政治家への不満とかがたくさんありますよね。
で、やっぱり見当違いの対処とか、いろいろあって、「間違いを正そうとしない姿勢が悪い」みたいなコメントもあって。
それで思うのが、政治家だけでなく、自分の地位を保ちたいとする人ほど、なかなか自分の間違いを認めないように思います。
それはきっと、自分の間違いを認めると、責任を取らなきゃいけないからだろうな、と思ったりもします。
特に政治は「成功しなくていいけど、間違ってはいけない」という世界なので、責任逃れがうまかったり、ふてぶてしい人ほどうまくいきやすいように感じます。
政治だけでなく、伝統的で硬直した企業でも同じで、「失敗しない」という人ほどうまく出世できますよね。
それは、新たなことをする必要がないので、「こういう時はこうする」という定型に従ってうまく動けるほど、「優れている」と評価されるからだろうと思います。
「過去の自分は間違っていた」とするほど、行動を変えられる
ただ、新しいことをしたい場合、やっぱり「過去の自分は間違っていた」とできるほど、行動を変えやすいように思います。
というのも、過去の自分を正当化するほど、正当化がしんどくなって、自分を変えられなくなるんですよね。
だいたい、「過去の自分」と「今の自分」って、別人なんですよ。
学んで成長しているし、価値観も変わっているから、今までと同じ選択肢を前にしても、違う選択肢を選ぶことだってあるわけです。
例えば今まで絵を好きで描いていた人が、音楽を始めたとしましょうか。
その「絵を描いていた過去の自分」と、「音楽を始めた今の自分」って、別人というか、価値観が変わっているじゃないですか。
すなわち、過去の自分と今の自分に、一貫性がなくなっているわけです。
過去と今とで、一貫性なんてなくていい
そこで「私は絵描きなのに、なぜ私は音楽をするんだろう? 一貫性がないじゃないか。そこに意味はあるんだろうか?」みたいに考え始めると、明らかにしんどいでしょ(笑
だって、そこは「やりたいからやりたい」でいいし、過去と今とで一貫性なんてなくていいからですね。
それを、「自分がやることには、一貫性がなければならない」とか、「過去の自分と今の自分は、一貫性がないといけない」とか思うから、考え込んでしまうんだと。
ノベルゲームだって、リプレイして同じ選択肢が来たら、やっぱり今までとは違うものを選んじゃうでしょ(笑
人は成長して価値観が変わるほど、違う選択肢を選んでもいいんだ、ということですね。
そこに「過去との一貫性」なんて考える必要はないわけです。
同じように、「今まではこの環境にいたけど、もうこの環境から出よう」とか、「今まではこの人やこの組織に尽くしていたけど、もうやめよう」と変化してもいいかと思います。
親に尽くしていたけど、やめていいと。
会社のためになろうとしていたけど、それもやめていいと。
過去の自分と、今の自分とで、一貫性なんてなくてもいいんですよね。
まとめ
なのでそういう場合、「過去の自分は間違っていた」とできると、その一貫性を打破しやすくなるように感じます。
まぁ、「間違っていた」とまでせずとも、「違う選択肢を選ぶ自分になっても、いいよね」としてもいいでしょう。
「過去の自分は、今の自分とは違う」と受け入れて、自分を変えていくのでいい、ということです。
それに、意味とか一貫性なんて、後からついてくるものだと思うんですよ。
一貫性とは、動き出す前から考えるものではなくて、動いた後で「今までの行動には、こういう法則性があった」と見つけてゆくものかな、と思います。
すると、すんなりと興味を失ったものを手放せて、新しい興味ある方向に動き出せそうに感じます。
ということで今日は、「過去と今とで、一貫性なんてなくていい」というお話でした。
今日はここまで~。