今日は、思いっきり精神的なお話です。
「自分の魂が言っていること」を選ぶのか、「周囲が言っていること」を選ぶのか、というお話しをしてみましょう。
私の不安解消法
最近の私は、いろんな新しいことをしようとして動いています。
で、何かに挑戦しようとするときって、必ず不安が来るものじゃないですか。
そういうときに、私がよくイメージしている不安解消法があります。
それが、「この歳まで生きられたから、もう十分だ」ということですね。
例えば20歳の人であれば、「20歳まで生きられたから、もう十分だ」と思えばいいと。
30歳の場合、「30歳まで生きられたから、十分だ」と思うわけですね。
「しんどいことも多くあったけど、なんとか自分なりに生き抜いてきた。ここまで生きられたなら、十分だ」みたいな。
すると、すぐにでも満ち足りた感覚になって、分かち合うことができるようになります。
だいたい、世の中では20歳にならずに死んでしまう人だって、結構いますからね。
自分の歳よりも若くして死ぬ人とか、山ほどいるわけで。
すると「まぁ、おいしいものも食べられたし、好きなこともできたから、いいか」という気持ちになれるんですよ。
「自分がこうしたい」を先に考えるか、「周囲がこうしたい」を先に考えるか
これはある種、自殺をする感覚と似たようなものかもしれません。
我をなくすというのは、自分を殺すことと同じようなものですからね。
ただ違うのは、「自分が持つ価値観に身をゆだねる」という感覚でしょうか。
いわゆる、「自分がこうしたい」を先に考えるか、「周囲がこうしたい」を先に考えるか、という順番の違いです。
自殺をしてしまう人は、「周囲はこうして生きたい」が先にあって、その価値観を大切にするために自分を殺してしまいます。
最初から周囲に合わせて尽くせば、周囲から必要とされて、労働に対していくらかの対価をもらえるものです。
周囲が求めるものが、自分にとって大好きなことで、合っていることならいいんですよ。
でもそうでなかったり、もしその人が個性的な特徴を持っていて、周囲の人たちと同じような行動をとれなかったらどうでしょう。
そういう「周囲の型に合わない」場合、周囲の望むような結果を出すことができません。
そこでもし周囲が「お前は型に合わないから邪魔だ」とか、「迷惑だ、いない方がマシだ」とか言ったら、その人は周囲のために死んでしまうことになります。
「周囲の型に合わないタイプ」の場合、どうすればよいのか
実は私は、こういう「周囲の型に合わないタイプ」なんですよね。
サラリーマンなんて苦痛でたまらないし、上司に頭を下げるのも嫌で、お客に頭を下げるのも嫌で、好きなことをして生きていたい、というフリーダムな人で(笑
だから、自殺をしたくなる人の気持ちは痛いほど分かるんですよ。
それは昔の私が、まさにそういう「周囲の求める形に自分を変えられない。だから自分はダメな奴だ」と思っていたからですね。
じゃあ、そこで私はどういう風に考えを変えたのか、ということです。
そこで私は、「自分がこうしたい」が先にあって、それを優先にするために「周囲から受け入れられること」を殺す、という感覚で覚悟を決めるようになりました。
周囲から受け入れられることを手放せば、周囲から得られるはずの支援を、全て失います。
「家族からの支援も、親戚や友人知人、地域や国からの支援も、全て失っていい」という感覚ですね。
それは、この分業と専業化が進んだ現代においては、ほぼ自殺を意味するものだと言えるでしょう。
「自分の魂が言う、あやふやなこと」に命を預けられるのか
で、「自分はこうしたい」を先に選んだとしても、「周囲はこうしたい」を先に選んだとしても、どちらにしても「自分以外のあやふやな言葉を信じることになる」と言えます。
だいたい、「自分がこうしたい」という思いだって、私がその「こうしたい」を決めたわけではありません。
なんか知らないけれども、私の内側にある魂のような、輝くものがある。
そしてそんな魂が、私という自我に対して、「こうしたい」と叫んでいるわけです。
そんな意味不明であやふやな言葉に、自分の命を預けられるのか、ということです。
だいたい、その魂が語っていることだって、正しいことだとは限りませんからね。
むしろ周囲の価値観に照らし合わせて冷静に考えると、「全くの荒唐無稽(こうとうむけい)で、ばかげた声だ」と感じるものです。
単純に身近な現実から統計を取れば、そんなのすぐに分かります。
ただ、「周囲が言っていること」も、それが全て妥当であるとは言えません。
抜け道なんて山ほどあるし、例外なんてものはいくらでもあります。
すると、「自分の魂が言っていること」と「周囲が言っていること」のどちらも、結局はあやふやで不完全なものだと分かります。
ならば、そこでどちらを選ぶのか
ならば、そこでどちらを選ぶのか、ということです。
「自分の魂が言っていること」と、「周囲が言っていること」と、どちらを選ぶのか。
それを選ぶ基準は、「自分はどういうタイプなのか」のように思います。
今までさんざん周囲のために尽くしてきて、それで幸せを感じられなかったことは、もう分かっているんですよ。
すなわち、私は「周囲の型に合わない」タイプなんだと。
ならば、「自分の魂が言っていること」に身をゆだねてみるのは、それなりに合理的であるようにも思います。
もちろん、そこは未知の領域で、リスクがあるものです。
でもそこで、「自分を殺して苦しみながら生きながらえる」のか、「リスクを取って、自分が生き生きとできる領域を探す」のかを考えれば、答えは見えてくるように思います。
そういう意味でも、私は「ただ単純に生きながらえること」には興味がないように思います。
自分らしさを全然発揮できずに100年生きるぐらいなら、生き生きと輝く1年間を過ごしたい、そういう人です。
リスクを取ろう。新たな境地に向かおう
なら、もう選ぶ方向は決まってますよね。
「リスクを取ろう。自分を生かせる、新たな境地へと向かおう」
そんな境地があるのかすら分からなくても、何もせずに一生を終えるぐらいなら、死を覚悟しても新境地へと向かう方がまだマシなんですから。
ある意味、「自分の命の価値は、その程度だ」と思っているように感じます。
私はあんまり自分の命を大切にはしていなくて、「挑戦してダメで、朽ち果てて死ぬのであれば、その程度の命でいい」という感覚だったりします。
その上で、初めて「この環境で、どう自分を生かしきるのか」という戦略を考えるわけですね。
いや、「自分の命はその程度だ」とか思っていても、死ぬのは嫌ですから!(笑
できれば生きていたいですから!(笑
というか、好きなことができるなら、必死で生きようとしますから!(笑
だから、自暴自棄なことはしません。
今の自分を最大限に生かせる戦略を考えて、最も豊かになれる道を模索します。
それはもう、すごいモチベーションで動けるんですよ。
だって、全部「自分のため」ですからね。
ちゃんと自分のためになることなら、しっかりとモチベーションは上がりますから。
リスクを取るほど、慎重になる
その上で、一時的でも不本意なことをすることもあります。
でも、それは「自分が決めた、自分のためになる最も妥当な手段」ですからね。
不本意なことでも、自分が受け入れられる形にできるので、苦しむことはありません。
そして「今は不本意なことをしなければならないけれども、いつかここから出て行ってやる」と、自分軸を保っていられるわけですね。
私は、人はリスクを取れば取るほど、無謀なことをしなくなり、慎重になるように思います。
例えば社長やビジネスオーナー、投資家ほど、お金を長期的なリスクにさらすので、お金の使い方には細心の注意を払うようになるものです。
逆に、リスクを取らない人ほど、無謀なことをするように思います。
例えば昔の江戸職人が言う「宵越しの金は持たねぇ」なんて、リスクを取っている人からすると、とんでもないことですよね。
それとか、普段リスクを取らないサラリーマンほど、独立する時に、経験もないのにいきなり大金をはたいて店を構えたり、収入の見込みもないのに独立したりと、無謀なことをしがちのように思います。
まとめ
だから、このあやふやな世の中で、何を選ぶのか、ということですね。
「自分の魂が言っていること」を選ぶのか、「周囲が言っていること」を選ぶのか。
どちらにしても、不確定な声に身をゆだねることになるので、どちらを選んでも自殺をするようなものです。
で、「自分は周囲の型に合わないタイプだ」と分かれば、自分の魂が言っていることに身をゆだねてみるのも、ある程度妥当な判断のように思います。
実際、その言葉に従えば、すごいエネルギーが出てきて心地よいんですよね。
リスクを取るからこそ、無謀なことはしなくなります。
そして神経を研ぎ澄ませて、新たな道を模索できるようになります。
私がしているのは、そういう生き方だということですね。
このブログを見ている人は、そんな「周囲の型に合わない」タイプが多いかと思います。
周囲に認められようとして、頑張って努力して、それでもできなくて、落ち込んで……みたいな人が多いでしょう。
そういう場合でも、他に道はありますよ、ということですね。
そういうリスクを取り始めると、「ああ、この歳まで生きられたから、十分だ」と満足できるようになります。
そして、今ある豊かさに気づけて、豊かさを分かち合えるようになるんじゃないかな、と思います。
ということで、今日は「自分の魂が言っていること」を選ぶのか、「周囲が言っていること」を選ぶのか、というお話をしてみました。
今日はここまで~。