今日は精神的なお話をしてみましょう。

「最近、我がなくなってきました」、というお話です。

今日は普通の人からすると奇妙な内容を話すので、信じる必要はありません(笑

 

「食中毒も、たまにはアリだな」と思ったこと

いや~、ここ丸3日ぐらい、食中毒で寝込んでいました。

おかげさまで回復して、今日から少しずつ日常生活を再開しています。

 

今回の原因はわかっていて、発症する前日に食べた、タコの刺身ですね。

ボイル済みのタコだったんですが、ああいうのはボイルしてあったとしても、調理前に流水で洗う必要があるようですね。

食中毒を起こすような菌は、常温なら短時間で激増するとかで。

私は今まで、「刺身用だから、大丈夫だろう」とか思ってそのまま切って食べていたんですが、それが問題だったと。

勉強になることばっかりですね~。

 

で、食中毒で寝込んでいたわけですが、「たまにはこういうのもアリだな」と思えるようになっていた自分に気づいたんですよ。

「まあ、時にはゆっくりして、くつろぐのもいいか」、「時には、大いに休むのもいいか」みたいに。

 

「寝込むこと」=「人生を無駄にすること」なの?

今までは、「寝込むこと」=「人生を無駄にすること」だと思ってました。

そして、何かにせき立てられるかのように、作り続けていたんですよ。

もちろんそれらは「やりたいこと」なので、情熱を持ってできることではあります。

 

でも今思えば、それって「生産的なことをしなければ、自分に価値はない」と思い込んでいたことになるんですよね。

言うなれば、昔の私、というか1年半前までの私は、心のどこかで「自分が生きた証を残したい」と思っていました。

「自分が生まれてきた意味を見つけたい」、「自分が生まれてきてよかったと言われることを、一つでも多く残したい」、「自分がここで生きていたことを、誰かに覚えていてもらいたい」みたいに思っていました。

これは私だけでなく、多くの人が持っている思いじゃないでしょうか。

 

でも、そんな思いが、1年半前の劣等感を解決した出来事から、急激になくなってきたんですよね。

何というか、「生きた証なんて、別にどうでもいいや」と思うようになったというか。

すなわち、「生産的にならなくても、別にいいや」と受け入れられるようになったんですよ。

 

「我がなくなってきた」という感覚

これがまさに、「我がなくなってきた」という感覚と言えるでしょう。

私の中で、「私はもう、十分に生きたな」と満たされた感じがあるんですよね。

この感覚は、生きることに投げやりになったのではなくて、私はどちらかと言えば生きたいわけです。

そして、やりたいこともたくさんありますし、楽しいこともしたくて、その上情熱もあふれ出るほどあるんですよ。

でも、さほど生き続けることに執着はしていない、みたいな感覚です。

 

劣等感を解決すると、なんかもう十分に満たされた感覚になれるんですよ。

そして、「ああ、いつ死んでもいい」って感覚になります。

言うなれば、「私」というものにこだわらなくなる、ということですね。

認められなくてもいいですし、億万長者にならなくても、いつ死んでもいい。

だって、現時点で最高に豊かなんですから。

完全なる自己満足の世界ですね。

 

で、そういう風に我がなくなってしまうと、今までの「『私が』成功したい」という欲求がどんどんしぼんで来たんですよね。

いわゆる、「自己実現」というものを卒業してしまったと。

今の自分に満足したら、自分が設定した目標である「自己実現」なんか、する必要はなくなりますからね。

 

自己実現を超えた、「天に従って生きる」という感覚

でも、私の体や能力は豊かさであふれかえっていますし、私の周囲にも豊かさが余りまくっているわけです。

そして、私自身も、どちらかと言えば精一杯生きたいし、今まで以上に楽しいことをして生きていきたいわけです。

ただ、「『私』が成功したい」という思いがすっかり消えちゃって、そっち方向の目標やモチベーションがさっぱり消えてしまったと。

だったら、「じゃあ『私の成功』はもういいから、後は自分が余っていて困るほどのものを、どんどん周囲に与えるようにしてみよう」と動き出すようになったと。

 

これは仮想的に言うと、自分のビジョンで進むのではなくて、天が私に与えた使命で生きる、みたいな感じです。

「たまたま私は、これを余分に得た。きっとこれは天が私に与えてくれた、特別な豊かさなんだ。ってことは、天はこれを分かち合ってゆけと言っているのかな」って感じですかね。

私が設定した目標で生きるのではなくて、天の意思に従って生きる、という感覚です。

でも、誰か他人に決断をゆだねるのではなくて、「自分の中にある『魂』みたいなものに決断をゆだねる」という意味合いですね。

そして、自分が持つ能力を精一杯発揮して、自分が喜ぶこと(=他の人に喜んでもらえること)をしてゆこうと。

 

私はどんなことでも論理的に説明をしようとする人ですが、この感覚だけは、昔ながらの「天」とか「神」とかいう概念を使いたくなるほど、論理的に言いにくいことなんですよ(笑

逆を言うと、「天」とか「神」って、この「究極の自己満足の世界」を分かりやすく表現できる、いい仮想的な概念なんですが。

 

まとめ

なので、最近の私は、「無理に生産的にならなくてもいいや」、「休みたいときは、休めばいいや」と思えるようになりました。

生きるときは潔く生きればいいし、死ぬときは潔く死ねばいい、みたいな。

劣等感を解決して十分に満足してしまうと、我が死んでゆきます。

で、その後に目覚めるのは「天」であったり、「神」のようなものだということですね。

 

いや、私が神になったとかいうのではなくて、「天は私をこっちに進めさせたいのかな~?」とか模索しながら、生きていく、みたいな感覚ですかね。

で、そういう「天が示す方向」は一人一人違っていて、でもその方向に向かっていくと、その人が最高に満たされて、エネルギーが出て、充実して楽しく生きられる道になるんですよ。

だから、論理的に言うなれば、「私が楽しみながら、しかも充実して生きる道は、こっちかな~?」と模索しながら生きていく、とも言えるでしょう。

 

こんなことを言っても、誰も理解されないんでしょうが(笑

でも、この究極の自己満足の世界に来ると、自己実現で成功した喜びなんか吹っ飛ぶぐらいに、充実して豊かな状態になれるんですよ。

「自己実現」ってのは、どこか欠乏意識を元に設定されているように思います。

でも、それを超えた場所には、「ただ、あふれ出る豊かさを分かち合うだけ」という世界があるということです。

 

クリエイティビティーを発揮して、劣等感を解決できたら、この世界が分かります。

この話を奇妙に感じた人は、「普通の人」なので、安心してください(笑

世の中の9割5分以上の人は、そういう人たちですからね。

でも、この話にワクワクしたり、興味を抱いてしまった人は、私と同じ「変な人」なので、内面を癒やしてみるのもいいかもしれません。

すると、いつかはこの感覚が分かることでしょう。

 

ってことで、今日は「最近、我がなくなってきました」、という妙なお話をしてみました。

今日はここまで~。

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