昨日に引き続き、今日も精神的なお話です。
「堂々としていればファンはできる、というお話」の続きです。
昨日の記事(前編)の続きになっているので、そちらをまだ読んでいない方は、先にそちらをどうぞ。
ファンとどうやって付き合っていけばいいのか
昨日は「ファンをどうすれば得られるのか」という話をしましたよね。
簡単におさらいすると、それが「堂々と好きなことをしていれば、ファンはできる」ということです。
世の中には、必ず「私たちにとっては自然にできるけど、それができない」という人がいます。
私たちが堂々とそれができていると、そういう人たちは「身近でこんな風に生きる人もいるんだ! 私もそんな生き方をしたい!」と感動します。
そういう人にとっては、作品のクオリティなんか気にしません。
だって、私たちの「生き方」に感動しているからですね。
だから、クオリティが低くてもファンになってくれると。
でも、ファンとどう付き合っていけばいいのか、最初は分からないじゃないですか。
そして、クリエイターにとっては、やっぱり最初は「ファンってなんか面倒だな」と感じるものです。
そこで今日は、「ファンとどう付き合っていくのか」、「ファンからどんな豊かさを得られるのか」という、ファンができた後のお話をしてみましょう。
昨日のおさらい
今回も物語風に説明するので、設定とあらすじを簡単に振り返っておきましょう。
この物語の主人公(私たちに該当するクリエイター側のキャラ)は、絵が好きな高校生で、美術部に所属しているとします。
当然能力なんてないんですが、あるとき同じ高校の子から、「あなたのファンです!」と言われてしまいます。
その子は絵を描きたくても抑圧していたので、主人公の「自分と同じような境遇なのに、堂々と絵を描ける」という姿や作品に、感動したわけですね。
主人公も当然拒絶しきれるものではなくて、「まぁ、邪魔しない程度に、好きに作品とか自分の生き方を見て楽しんでくれ」と言わざるを得ません。
こうして、「なんか変な奴になつかれちゃったぞ……」と、半ばげっそりしながらも、半ばあこがれられるというこそばゆさも感じて、ファンと共に進んでゆくことになります。
初期のファンほど、純粋なファンが多い
で、実はそういう初期のファンって、「純粋に私たちのファン」っていうことが多いんですよ。
すなわち、地位とか名誉に関係なく、純粋に生き方を応援してくれる人ですね。
なのでそういうファンは、私たちの「自分らしく生きること」を最優先で考えてくれて、足を引っ張ることはありません。
というのも、そういうファンは、私たちの生き方とか、それによって生まれた作品を見たいわけです。
もちろん「自分もそうなりたい」とは思っていますが、自分の理想像を傷つけたくはありませんよね。
もし私たちの足を引っ張ると、そういう理想像を汚してしまうので、邪魔をすることはできません。
まぁたまに無意識に邪魔をすることはあるんですが、私たちが「それ集中できなくなるからやめて」とか、「こういう風にしてくれると嬉しい」と言えば、すぐに改めてくれます。
もしそれでも「でも私はどうのこうの」と言う場合、それはファンではなくて、「かまって欲しいだけの人」です。
そういう場合は、さっさと追い出して出入禁止にするといいでしょう。
ただ、最初のファンで、そういうことはほぼありません。
というのも、そういう「かまって欲しいだけの人」は、地位とか名誉がある人が大好きで、そういう人から順に声をかけますからね。
だから、私たちが全くの無名の状態で、それでも「あなたのファンです!」と言う人は、まず間違いなく本当のファンです。
ファンはできる限りの協力をしてくれる
なので、とても配慮してくれるんですよ。
それどころか、私たちがより自分らしく生きられるように、できる範囲で最大限の協力をしてくれます。
展示会とか即売会にでも出たら、いそいそと差し入れを持ってきてくれたりとか、頼めば喜んで売り子を手伝ってくれたり、暇なら話し相手になってもらえます。
美術部に入っていたら、手間のかかる掃除をしてくれていたりとか。
たとえ雑用とかでも、無理のない範囲で「手伝ってくれると嬉しいな」とお願いすると、もう喜んで手伝ってくれます。
それに、自分の興味あることを語り、教えることで、喜んでもらえるんですよ。
これは、私たちにとってとても嬉しいことです。
だいたい、興味あることを真剣に聞いてくれる人なんて、滅多にいませんからね。
でも、ファンの人は、「私たちが語りたいことを聞きたい」という人なので、とてもいい聞き手になってくれて、話していてすっごい心地よかったりします。
で、私たちはそんな風に手伝ってくれたり楽しませてくれて「ありがとう」と喜ぶと、そのファンの子も大いに喜んでくれます。
だって、その子にとっての理想像が喜ぶと、その子自身も嬉しいですからね。
だから、クリエイターとファンっていうのは、ある種の共同体みたいなものです。
クリエイターが先導で「こっちに行って、新たな世界を見たい」という生き方を見せて、ファンもその先の世界を見たいと。
でも、ファンは自分ではそれだけの力がないので、クリエイターを支えて、一緒に新たな世界を見る、みたいな。
「生き方のファン」は、どんなときでも応援してくれる
私たちは、「ファンができるには、完璧なカリスマでないといけない」とか、「競争に勝ち抜かなきゃいけない」、「すごい作品を作らなきゃいけない」とか思いがちです。
だから見栄を張ったり、「自分はすごいんだ!」とかアピールしがちなんですが。
でも実際は、そういう「カリスマを求める人」とか、「勝者であることを求める人」というのは、私たちが地位や名誉、ポジションを失うと、驚くほど簡単に消えていきます。
逆に、「生き方のファン」がいます。
こういうファンは、地位や名誉、ポジションに関係なく応援してくれます。
完璧でなくてもいいし、すごいものを作れなくてもかまいません。
「それでも自分は、こっちに進む」という生き方がはっきりしていて、その覚悟さえあれば、ファンはできます。
だからそういうファンは、たとえ私たちがうまくいかなくて落ち込んでも、全力で応援してくれます。
これも、自分にとっての理想で、共同体だからこそ、支えたくなるわけですね。
ファンの心強さに気づく時が来る
これが分かると、そういうファンの存在は、とても心強いものだと分かります。
ファンは、私たちに無理な要求とか、自分を変えるような要求なんかしません。
ファンは、私たちに「ありのままに生きて欲しい。そしてその先の世界を見せて欲しい」という存在です。
ありのままを認めてくれて、それを支えてくれる。
これって、最高じゃないでしょうか。
すると、ふと気がつくと、自分が抱える孤独感のようなものが消えているんですよ。
私たちはよく、「何のために生きているんだろう」とか、「生きる意味ってあるんだろうか」とか悩むものです。
例えば薄暗い美術室の中、一人で絵を描いていると、外の明るい世界ではみんながわいわいと楽しそうに、クラス対抗のゲームをしていたりすると。
そういう光景を見ると、「自分だけがそういう世界からはみ出して、ついて行けなくて、この美術室に閉じこもっているだけじゃないか」という思いが浮かんでくるんですよ。
そして、「自分がいなくても、世界は何事もなかったかのように、うまく回っていく」とか感じると、なんだかさみしくなって、無力感を持つものですよね。
でもそういうときに、その子がやってきて、脳天気に「次はどんな作品を作るんですか? もう楽しみで楽しみで!」と言うわけです。
すると、悩むことがばからしくなると。
そして、「後ろについてきてくれる人がいるなら、大丈夫。こいつのために、自分らしく前を向いて歩くのもいいな」と分かり、吹っ切れることができます。
こうして主人公は、自分の信じる道をどんどん進んで行くことができます。
すると、一人、また一人と、その生き方に触れて、ファンが増えていきます。
当然自分なりのクオリティも上がるので、さらに多くの人に影響を与える存在になっていきます。
そしていつの間にか、その通った軌跡には大きな道ができていて、多くの人がついて来ていると気づくんですよ。
後から振り返ると、「いつの間にか、自分がその道のパイオニアとなっていた」と気づくことになります。
その最初のきっかけが、「一人のファンができて、共に歩くと覚悟を決めること」なんですよね。
まとめ
そんな風に昨日と今日とで話してきましたが、クリエイターとファンの関係って、こういうものだと言えるんじゃないかと思います。
堂々と自分らしく生きていればファンはできるし、そしてそういうファンは、私たちの生き方そのものを応援してくれます。
だから、私たちは精一杯、より自分らしく生きられると。
クリエイターはよく孤独を感じることがありますが、ファンがいるからこそ、助けられることもあるんですよね。
その最初のきっかけになるのが、「堂々と自分らしく生きること」じゃないかと思います。
そういう発想で生きてみるのも、いいかもしれません。
ということで昨日と今日で、「堂々としていればファンはできる、というお話」をしてみました。
今回はここまで~。