今日は、精神的なお話をしてみましょう。
「堂々としていればファンはできる」、というお話です。
明日もこのネタが続く予定なので、今日はその前編です。
どうすればファンを作れるのか
何かを作っていたりする人にとっては、「ファンが欲しい」って感じることってあるんじゃないかと思います。
でも、ファンってどうやったらできるのか、分からないものですよね。
特に今、一人もファンがいない状態の場合、「こんな自分にファンができる」なんて想像すらできなかったりするわけです。
でも、実はちょっとしたことで、ファンってすぐにできちゃうものなんですよ。
それを引き起こすきっかけが、「堂々としていること」じゃないかと思います。
ということで今日はそんな、「堂々としていれば、ファンはできる」というお話をしてみましょう。
その人の「生き方」が、初めてのファンを作る
私は、「ファンがどれだけいるか」よりも、「ファンが1人でもいるか」という方が大切なように思います。
というのも、ファンは1人だろうが1000人だろうが、大して感覚に違いはないんですよね。
まぁ収入額は変わるでしょうが、ファンがいることによる心理的な満足度は、大して変わりません。
でも、ファンの0人と1人では、精神的には全く別世界になります。
で、そんな1人目のファンができるかどうかの分かれ目は、「堂々とそれができるか」じゃないかと思ってます。
すなわち、「1人目のファンができるには、クオリティは関係ありませんよ」、ということです。
私はよく「ニッチならクオリティが大切だ」とか言っていますが、それは収益のためであって、最初のファン作りにはクオリティなんてどうでもいいと思っています。
いや、まぁ後々売り上げも欲しくなるので、クオリティは大切なんですけどね(笑
ただ、それよりも、「堂々とそれをして生きられるか」という、「生き方」の方が、初めてのファンを作るのに重要だと思っています。
これは、初めてのファンができる時を見てみると分かります。
なのでここでは、実際にどういう流れで「こんな自分」にファンができるのか、説明してみましょう。
絵が好きな高校生のお話
分かりやすくするために、物語風で説明することにしましょう。
私たちは、何か「こういうのを作りたい」というものを持っていて、それを作っているクリエイターだとします。
絵でも漫画でも音楽でも歌でも文章でも何でもいいんですが、まぁここでは「絵を描きたい」という好きなことを持っていたとしましょう。
以降は、「絵」に相当するものを、漫画家さんなら漫画で、作家さんなら文章で置き換えて読み進めるといいでしょう。
で、主人公は、私たちに相当するクリエイターです。
主人公は高校生で、絵が好きなので美術部に入っているとします。
でも周囲には全然絵が好きな人がいないので、仕方なく一人きりでも、美術室で絵を描いているとしましょう。
時には「うまくできたな」と満足したり、時にはうまい人のまねをしようとして「こんなのできるか!」とキレたりなんかして、それでも楽しくできていると。
それで文化祭とか展示会に出しても、当然自分の絵なんて反響があるわけがなくて。
だから別に期待せずに出すだけ出していたり、「作品置き場」みたいな感じで美術室に置いていたりするんですよ。
こうして「ファンのようなストーカーのような存在」が現れる
でもあるとき、同じ学校の子で、偶然その作品に触れて感動する人が出ます。
だいたいそういう子って、内心では「自分もそんな風に生きたいのに、できない」という状態の子です。
内心ではすっごく絵を描きたいのに、周囲からのいろんな抑圧があって、本来の自分を出せないような子ですね。
そういう子が、「自分と同じ高校にいる学生なのに、こんなにも堂々と絵を描いて表現している」と知ると、もうそれだけで大衝撃なわけです。
「そんな風に、ありのままを出していいんだ!」ってこと自体が、本人にとっては驚きだからですね。
すると、その子はすっごい「その絵を描いた人のことを知りたい」と思うようになるわけです。
そして作者を探し出して、その人のことを周囲から聞き出したりして、自分でも調べて「いつも美術室にいて、描いているんだ」とか知ってゆくと。
まぁいわゆる、ファンの前身になるような、軽いストーカー状態になると(笑
私たちだって、すっごい興味のある作家さんとかクリエイターさんって、作品に触れまくったり、どんな人なのか調べまくりますよね。
インタビューが載っている雑誌があれば、それを見るためにその雑誌を買ったりだとか、ネットでその人の過去記事を見まくったりとか。
そうしてどんどんと、「ああ、この人の生き方って、とてもすてき!」とか、「この人の作品って、最高!」と、はまっていくわけですが。
「視界の隅で、チラチラする」という存在
一方で主人公側に視点を戻して見ると、やっぱりそういう子の存在って、分かりますよね。
美術室で絵を描いていても、「なんか視界の隅でチラチラして、落ち着かないな」って感じで。
ネットの場合でも、なんかやたら「いいね!」をする決まったアイコンがあるぞ、みたいな。
そしてやたらと、「話しかけたい!」みたいなオーラを放ってくるわけです(笑
なので、「絵を描きたいのに、邪魔するなよ」と思ってため息をつきつつ、その子に「何か用でもあるのか?」と、訊かざるを得ないと。
「あなたのファンです!」という衝撃
すると、その子は突然、「あなたのファンです!」とか言うんですよ。
私たちからすると、「は?」って感じですよね。
「何かの間違いでしょ」、「誰かと間違えてるんじゃないの?」みたいな。
でも、その子は確かに私たちの作品を指して、「あなたの作品に感動しました!」とか、真剣に言うわけです。
そして、「あなたのようになりたいです!」もしくは「あなたような作品を作れるようになりたいです!」、「あなたの作品のような生き方をしたいです!」とか言うと。
私たちからすると、完全に意味不明ですよね。
だって、世の中には自分よりもうまい絵を描く人は山ほどいるわけです。
まぁド素人よりかは少しは描けるかもしれませんが、一流に比べると、自分なんか全然たいしたことがないわけで。
だから、「お前、美術の教科書見たことないのか!?」とか、「街中とか、雑誌とか、商品パッケージとか、すごい絵は山ほどあるだろう!」とか思いますよね。
「よりにもよって、なんでこんな上手でもない、自分の作品を好むんだ!?」みたいな。
それに、「こんな自分」にあこがれる人がいるなんて、思いもしないじゃないですか。
今までファンが一人もいない状態だとなおさらで、「こんな自分にいいところなんか、あるはずがない」、「あこがれられる要素なんて、一切ない」って思っているものなんですよ。
それどころか、他の人のように成果を出せなかったり、協調性がなくてみんなでわいわいできなかったりして、「自分は周囲よりもはるかに劣った人間だ」と感じているかもしれません。
そして絵だって、自分の実力がたいしたことがないことぐらい、今までの経験で痛いほど知っているわけです。
だから教科書とか雑誌を引っ張ってきて、「こっちのプロの作品がレベルが高くていいよ。自分の作品はよくないよ」と言っても、相手は引きません。
相手の好きなようにさせると、自分の「恵まれた点」が分かる
というのも、「絵を描きたいのにできない」というその子にしたら、クオリティの問題ではないんですよね。
「自分と大差ない境遇なのに、そんな風に、ありのままに絵を描いていること」そのものがすごいことなんですから。
すなわち、私たちの生き方にあこがれていると。
だから、目の前の子は私たちに向けて、目を輝かせて「あなたのようになりたい」と言っているわけです。
それが分かれば、もうその子に向けて「自分はすごくない」と言うのを観念するしかありません。
なら、「じゃあもういい、好きなだけ味わってくれ」とか、「絵が好きなら描けばいい」と、相手の好きなようにさせるしかできませんよね。
でも、たいていがすぐにできるわけではありません。
まぁそれは当然で、その子は精神的な問題だったり、環境的な問題で私たちのようにできないから、あこがれているんですから。
一方で、私たちにはそれが思い切りできる環境とか、精神的な自由、それを実現するための技術とかがあるんですよ。
いわゆる、自分が気づかなかった「恵まれた点」が見えるようになると。
すると、「ここなら自由に描ける」と場所を提供したり、「自分はこう思うよ」と考え方を提供したり、「こうすればいいよ」と技術を与えることができるでしょう。
そうやって条件をそろえてもらえると、たいていの子は、念願のことができて感激するわけです。
だって、今までできずにあこがれていた「絵を描きたい」ということが、現実になるんですからね。
確かにそれは、クオリティは低いかもしれません。
でも、ずっと苦しんでいた枷(かせ)から解放される喜びというのは、とても大きな可能性と、喜びを与えてくれます。
最初ほど、ファンは「面倒な存在」に感じられる
私たちからすると、「まぁこれでいいか。よかったね、じゃ、さよなら」として、自分の作品に集中しようとするわけです。
実際好きなことがある人で、ファンを持っている人からすると、ファンってちょっと「面倒だな」って感じるところがありますよね。
特に最初ほど、「集中したいのに、なんか邪魔される」というイメージを持ちやすいものです。
なので、つい「これで解決。やっとこの子から解放される」みたいに、ファンを手放すことに安心感を持ったりするんですよ。
でも、当然ながらその子は完全に私たちのファンになってるので、ファンをやめるとかありえないと(笑
そして、その子は「迷惑でなければ、私も美術部に入ります!」とか、「これからも作品を見させてください!」、「あなたの生き方があこがれなんです!」とか言って。
なら、「好きにして」としか言えませんよね。
「できれば邪魔しないでね」みたいな。
当然相手はファンで、邪魔することにはめいっぱい気を遣ってくれるので、言えば適度な距離感を保ってくれるんですよ。
結果として、「なんか変な奴になつかれちゃったぞ……」と、半ばげっそりしながら、でも半ばあこがれられて嬉しさもありつつ、ファンを受け入れざるを得なくなるわけですね。
で、今は半ば「面倒な存在」のファンが、それから「大切なものを教えてくれる存在」になってゆくわけです。
そして話は明日の後編へと続きます。
まとめ
とりあえず今日の分をまとめておくと、そんな風に堂々としていれば、ファンはできるものなんですよね。
最初のファンというのは、クオリティなんか関係ありません。
それは当然で、みんながクオリティを求めているのであれば、全員がトップのプロ作品しか見ないでしょう。
でも実際は、クオリティが低くても、感動させることができます。
それが、「生き方」ですよね。
世の中には、必ず「私たちにとっては自然にできるけど、それができない」という人がいます。
なら、堂々と「こうして生きていればいい」と好きなことを精一杯していれば、それにあこがれる人は必ず出てきます。
そんなとき、今まで気づくことのなかった、「自分にとって当たり前にできること」に価値があったと分かります。
それが才能なんですよね。
だから、ある意味「才能は誰もが持っている」と言えるでしょう。
ただ、自分が気づいていないだけです。
自信がなくてもいいので、堂々と「私は自分のままで生きればいい」と振る舞えたとき、周囲から「私もそうなりたい」と言ってもらえるので、それで才能に気づけると。
そういう流れで気づくこともある、ということです。
ということで、今日は「堂々としていればファンはできる」、というお話をしてみました。
もう少し話せることがあるので、明日はこの後編のお話をしてみましょう。
今日はここまで~。