今日も精神的なお話です。

「価値観の筋トレ」で鍛えると、自分の価値観で判断できるようになる、というお話をしてみましょう。

 

「○○ができない私は、ダメ人間ですか?」という問いかけ

とあるところで、こういうツイートを見かけたんですよ。

「○○ができません。私はダメな人間ですか?」みたいな。

 

こういうのって、自信を失ったときに、よくあるでしょ。

「これができない。やっぱり私はダメ人間なんだろうか?」という感覚ですね。

特に「周囲がみんなできて、自分だけできない」とかいう状況になると、もうすっごいさみしいというか、孤独感が炸裂するように思うんですが。

 

で、その心情を考えると、きっと「ダメじゃないよ」と言って欲しいんだろうと思います。

そういう気持ちは山ほど分かります。

 

ただ、本当に立ち上がれるのは、「ダメ人間かどうかの基準は、自分で決めていい」とできる人だろうと思います。

で、そのために、「価値観の筋トレ」をやってみるのもいいですよね、というお話です。

 

「ダメじゃないよ」は短期的な癒やしでしかない

私は共感性が強い側なので、「私はダメ人間なんですか?」とか言われると、「ダメじゃないよ。理由は山ほどあるよ」と言いたくなるんですよ。

実際、そう言われると元気も出るし、励みになるし、認められた気がするものです。

ただ、それが長期的にはいいとは限らないんですよね。

 

というのも、その「ダメじゃないよ」という私からの言葉も、その人にとっては「他人の価値観」なんですよね。

「みんなができて、自分はできない」というのも、他人の価値観です。

すると、「他の人から認められないと、自分は価値がない」と思い込みやすくなるわけです。

 

私の中では、本当に大切なのは、「自分なりに考えて、自分なりに価値を判断すること」かなと思います。

ある意味、「他の人がどう言おうと、自分にとっての価値は、自分で決める」ということです。

そういう軸があることで、「他の人が多く否定していても、自分だけは認めてあげよう」とか、「世界中を敵に回しても、この人を助けてあげよう」とかできるようになるかと思います。

すなわち、「みんなから迫害されて泣いている、たったひとりの子」も助けられるように思います。

 

「価値観の筋トレ」をしてみよう

これはある意味、「寄りかかって支えてもらうか、自分の足で立てるようになるか」という問題と同じです。

本当に急激に疲れたり、貧血が起きたときは、寄りかかって助けてもらえばいいでしょう。

ただ、長期的には、健康な身体を作って、自分の足で立って歩ける方がいいですよね。

 

で、私が提案するのは、「ちょっと短期間でもいいので、集中して『価値観の筋トレ』をしてみましょうよ」ということです。

すなわち、価値観について深く考える時期を作って、自分で判断して立ち上がれるようになろうよ、ということですね。

 

これは、目先はしんどいんですが、乗り越えると後が楽になります。

なので、「夏休みの宿題を早めに終わらせたい」みたいなタイプの人ほど、こういう「早めに鍛えてみる」という発想もいいかなと思います。

 

「ダメ」って、いったいどういうこと

そのために、少し考えてみるといいでしょう。

「ダメ」って、いったいどういうことなんでしょう?

 

例えば、「これができない人はダメだ」とか言いますよね。

私の場合、チームプレイや団体行動はできないし、我慢もできないし、上から行動を指図されることとか、「こうしろ」と命令されることとか、大の苦手です。

 

それは本当にダメなことなんでしょうか。

とてもシンプルな問いかけです。

これを、しっかりと突き詰めて考えられるかどうかかな、と思ったりもします。

 

例えば「みんなができているから」と言いますが、その「みんな」とは、本当に「世の中すべての人間」なんでしょうか。

そしてそれらができていない人は、世界中でどれぐらいの率で存在して、どれぐらいの率で成功者、失敗者が分布しているでしょうか。

そういう内容を、ひとつひとつ客観的に考えていくわけですね。

 

「多数派か、少数派か」という問題でしかない

すると、「自分だけがダメ」ではなくて、「多数派か、少数派か」という問題でしかないと分かります。

だいたい、世の中には似たような人は多くいますからね(笑

 

そして、そういう性質の違いは、ほとんどの場合で「トレードオフだ」と分かります

「トレードオフ」というのは、「何かを得るために、何かを犠牲にした」という性質のことですね。

すると、犠牲とか欠点だけではなく、「それで何かの長所が得られている」と分かります。

チームプレイができなくても、そういう人は指揮ができたり、独自の行動とか、独特な計略が得意だったりするんですよ。

 

「どの側を使って戦うか」という問題でしかない

で、そういう風に「ダメな性質や特徴の裏には、必ず利点がある」と分かると、「完全にダメな性質なんてない」と分かってきます。

すなわち、「どの側を使って戦うか」という問題でしかないと分かります。

 

言うなれば、日本刀と同じです。

「自分の日本刀は、切れないなまくらだ」と思っていても、実は峰の反対側が鋭かったりすると。

もしくは、「斬ろう」と振ってダメでも、「撲殺しよう」と振ると、うまくいくかもしれません(笑

それとか、「戦いで使おう」としてダメなら、「練習用に使おう」としたり、「展示用に使える」、「相手の剣とすり替える用に使える」とかできるかもしれません。

 

そんな風に、いろんな軸で反転させれば、「完全にダメな性質なんてない」と分かるし、「反転軸はいくらでもある」と分かります

そうやって、自分の「ダメな部分」を「一本一本の日本刀」として、見ていくわけです。

 

すると、「自分はダメだ」と思っている人ほど、「ああ、自分は使えない方法で使ってばかりいたんだ」と、実感で分かってきます。

もしくは、「役に立たない場で使おうとしていた」と分かってきます。

 

「自分から少数派に降りてゆく」発想

なら、ほとんどの場合で、「多数派ではなく、自分から少数派に降りてゆけば、うまくいく」と分かるんですよね。

普通の人は、「多数派になりたい」と思うものです。

それは、多数派ほど安心だし、集団として守られているからですね。

 

だけど、そこであえて、自分から少数派に落ちてゆくと。

ある意味、「差別がある環境で、自分から差別される側に向かう」みたいな感覚です。

確かにそれは、多数派からは差別されるし、苦しむことになるかもしれません。

だけど、それで才能を発揮できるし、助けられる命もある、ということです。

 

なら、どちらを重視するのか。

差別をする側に属して、差別はされないけど、才能も発揮できずに「何もできない人間」で終わるか。

差別をされる側に属して、差別をされるけど、才能を発揮して人々を救い、感謝されてゆくか。

 

そして、後者を選べる人が、輝けるんじゃないかと思います。

 

ある意味、これは自分を癒やすことでも同じです。

自分の中にいる、「最も無価値でダメな、差別をされた子」を見つめて、そのたったひとりのために、全世界を敵に回してでも助けてあげられるか。

それを覚悟できたときに、自分の中にある「内なる子供」を助けられて、自分を受け入れられて、過去を清算できるように思います。

 

まとめ

そんな風に、短期間でもいいので、「価値観の筋トレ」をして、鍛えてみるのもいいかもしれません。

他人に「誰か、私を認めて」とよりかかるのではなく、自分で立ち上がれるようにしてみるわけですね。

 

そのために、「価値って何? ダメって、どういうこと?」と、深く考えてみると。

すると、その筋トレが自分に力を与えてくれて、「自分は自分の価値観で生きよう」とできるようになるかもしれません。

 

これは筋トレ同様に、目先ではしんどいことですが、長期的には大きな力になります。

個性がある人で、周囲との比較で苦しみやすい場合、そういうトレーニングをして鍛えてみるのもいいかもしれません。

 

ということで今日は、「価値観の筋トレ」で鍛えると、自分の価値観で判断できるようになる、というお話をしてみました。

今日はここまで~。

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