今日も精神的なお話です。
「工夫力がないと、被害者マインドになりやすい」というお話をしてみましょう。
被害者になりたがる人たち
SNSとか見ていると、「被害者の立場から見た主張」がそれなりに多いじゃないですか。
「こういう苦しい人がいるのに、政府や役人は何をやっているんだ!」とか。
「こういう人から、こういうひどいことを言われたし、ひどい扱いをされた。許せない」とか。
で、拡散する側も、同じように「自分は被害者側だ」と、まるで自分が被害を受けたかのように共感してしまって、同じように「許せない!」と主張しているんですが。
おそらくそれは、人がリスク対策を重視するからだろうと思います。
すなわち、「自分にも起こりうる脅威やリスク」というのは、それだけ注目しやすい、ということですね。
だから、閲覧数が欲しい側もそれを理解しているので、「これはあなたにも起こりうることです」的なタイトルをつけて、恐怖をあおって、読んでもらいやすくしているんだろうと思うんですが。
私の中では、こういうのは「工夫力がない人ほど、そういう脅威やリスクの情報に左右されやすくなる」かなと思います。
すなわち、「工夫力がないと、被害者マインドになりやすい」ということですね。
これが分かると、「工夫力を身につけることで、自力で豊かさを作れる」と分かって、自分なりに豊かさ作りができるかな思います。
工夫できる人は、欲しいものを自力で作れる
じゃあ、なぜ「工夫力がないと、被害者マインドになる」のかというと、この原理は簡単です。
工夫っていうのは、基本的に「手元にあるものだけで、欲しいものを作る」ってことですからね。
「手元にあるもの」は、お金や時間だけでなく、スキルとか可能性、教材とか情報源、人脈、知恵や考え方、そういうものも含まれます。
すると、工夫を重視する人ほど、「自分の手元に何があるか。何にアクセスできるか。何が使えるか」が、自分の豊かさを左右することになります。
これは言い換えると、「自分にとって使えるもの以外は、さして自分の豊かさを左右しない」と切り捨てられるんですよね。
だから、「他の人がこうされた、ああされた」とか、「国がこうしなかった、こうした」とかいうのは、元々「使えるもの」ではないので、「自分とは関係ないことだ」と切り離しやすくなります。
また、たとえ失ったとしても、「また作ればいいや」とできるので、失うことをさほど恐れなくなります。
ある意味、「失っていいもの」と、「失ってはいけないもの」の優先順位付けがしっかりできているように思います。
なので、お金とか、見栄とか世間体とか、そういう「失ってもいいもの」を先に手放すことで、いろんな対応ができるわけです。
だから、失うことをさほど恐れはしないと。
工夫力がないと、「失うばかり」になる
一方で、工夫力がないと、「欲しいものは、自分で作れる」という発想がありません。
だから、「今持っているものが、自分のすべて」になるわけです。
その場合、「失っても、また作ればいいや」という戦略が取れないので、未来は「失うばかり、奪われるばかり」になります。
だから、「できるだけ豊かさを奪われたくない」と、脅威やリスクにおびえるわけですね。
そして工夫力がないと、自分が豊かになるにも、「他人から与えられなければ、豊かになれない」という状態です。
だから、国や会社、社会や親、目上の人やお金持ちから与えてくれないと、豊かになれないことになります。
なので、自分では何もできなくなって、「私の豊かさは、周囲によって決まる」となって、周囲をコントロールしようとします。
だから自分で行動するよりも主張を重視するし、立場の強い「被害者側」につきたがるし、それで周囲や社会を動かして、「なんとかしてもらおう」とするわけですね。
今の時代は、工夫できる人が強い
で、今のような時代は、工夫ができる人の方が圧倒的に強いように感じます。
というのも、コロナウイルスとかで混乱が増えている時代は、他の人とか、会社、国などにも余裕がなくなって、頼りになりにくいと。
今までは余裕がある人が多かったので、「私は被害者なんです!」と主張すれば、話を聞いてもらえたり、配慮してもらえたかもしれません。
でも、今のような混乱した時代は、多くの人が「私も被害者です!」、「いや、俺の方が被害者だ!」みたいに、「被害者の苦痛比べ競争」になってしまっていると。
すると、よっぽどの悲劇的な被害者以外は、なかなか助けてもらえないんですよね。
実際に世の中を見ても、少々の「私は被害者です」という主張をしても、誰も助けてくれませんよね。
豊かな時代なら、「私は被害者です」と言えば助けてもらいやすいんですが、混乱している時代は見捨てられやすいと。
「人は生まれた環境で、大部分が決まってしまう」という現実
よくあるのが、「人は生まれた環境でも、大部分が決まってしまうのに、豊かな人はそれが分からない。それを自分の実力だと思っている」って主張がありますよね。
これも、「豊かな人に配慮させて、自分が得よう」という、「他人から得る」ための戦略になります。
確かに、そういう要素もあるんですよ。
例えば北朝鮮に生まれた場合、よっぽどのことでなければ、北朝鮮からは出られません。
他にも、例えば砂漠のオアシスで生まれて、周囲に広大な砂漠が広がっている場合、なかなかその環境からは脱出しにくくて。
「現状」も同じように、確かに「出にくい現状」ってのはあるものです。
それだけでなく、生まれてきた瞬間に、「余命1ヶ月です」と宣言されるような子もいるわけで。
アドバイスをする側になると、それは言えない
ただ、私はあんまり、「人は生まれた環境で、大部分が決まってしまう」という主張はしなかったりします。
というのも、これはアドバイスをする側に立つと、そういうことは言えないからですね。
だってそれって、アドバイスをする側からすると、「あなたは、自力での逆転はほぼ無理です」って宣言することになるんですから(笑
「国や社会が対応すれば大丈夫でしょう。でも、20年後か、100年後ぐらいですかねぇ。まぁそれまでは、苦しんでください」なんて、言えないでしょ(笑
その苦しみを得ているのが多数派ならまだ可能性はあるかもしれませんが、少数派の場合は、特に変革は難しくて。
それに、例えば生まれてきた瞬間に「余命1ヶ月です」と宣言されたとしても、それが「無意味な命です」なんてことはありませんからね。
その場合、なんとかして、相手に希望を持たせたり、意味を感じてもらったり、可能性を切り開いてもらいたいわけです。
「工夫力をつける」が一番よさそう
すると、やはり「工夫力をつけようよ」というアプローチが私の好みかな、と思います。
もちろん、他にも「我慢しろ。他の人も我慢しているんだから」と、ただ我慢を強いる人もいるかもしれません。
確かにそういうのもひとつの手段なんでしょうが、私はそういうアプローチはあまり使わないスタイルです。
私の中では、「工夫すること」が、一番現実的で豊かになれるかな、というアプローチです。
で、工夫の中には、「限られた命の中で、生きている意味を作る」ということも含まれます。
まとめ
そんな風に考えると、今のような時代は、工夫力を身につける方が、豊かになれそうに思います。
もちろん「私はもう無理だ」とあきらめるのでもいいし、被害者競争に参加して勝ち抜くことで、目上の人から配慮してもらうのも立派な戦略です。
他にも、例えば明治維新のように志士が集まって、命を賭けて変革に挑むこともできるでしょう。
それとか、「テキトーに生きて、テキトーに死ぬ」というのも、突き詰めればそれも立派なひとつの生き方でしょう。
なので、自分にとって好きな戦略をとればいいかなと思います。
ただ、「豊かになる」という目標を持つ場合で、今のような時代は、「被害者になる」戦略は、あまり効果的ではないように思います。
なら、工夫に目を向けて、「手元にあるものだけで、欲しいものを作る」というアプローチを選べるかもしれません。
「社会の改革」をしなくても、そういう「自分の改革」をすることでも、状況を変えられると思うんですよ。
すると、被害者意識も手放せて、小さなところから豊かさ作りをできるし、その豊かさを周囲に分かち合ってゆけるかもしれません。
ということで今日は、「工夫力がないと、被害者マインドになりやすい」というお話をしてみました。
今日はここまで~。