今日も大絶賛スピリチュアルなお話です。
タイトルからしてとんでもない見出しをつけていますが、内容もまさに、誰もついてこられないようなお話になります(笑
今日は、「天の声を聞く」とはどういうことかを説明してみましょう。
古い人が「天」とか「神」と言いたくなる心理
ここ1ヶ月ぐらいで、急激に今まで分からなかったことが分かるようになってきました。
もうこの1ヶ月で、ブログとか本では書ききれないほどの、多くの物事が分かったぐらい、「目が覚めた」と言える期間でした。
というか、今もそれは続いているんですが。
で、その引き金を引いたのが、先日話した1冊の本によるものなんですよね。
あの本の著者に限らず、たとえば斉藤一人さんとか、竹田和平さんみたいに、「天」とか「神」とか言って、成功法則を語る人がいるじゃないですか。
私はあんまり、そういう「天」とか「神」とかいう言葉を使いたくないんですよ。
だって、一般的な現代人の感覚からすると、明らかにおかしいでしょ。
日常会話で「天がこうしろと言っている」とか、「神がこうしろと言っている」とか言うのを聞くと、「この人、変な宗教に入っているんじゃないか」とか、「この人、頭おかしいんちゃうか」、「この人、統合失調なんだな」とか思っちゃいますよね(笑
だから、できるだけそういう仮想的な概念を使わずに、説明したいわけです。
でも、劣等感を解決して「我がなくなる感覚」を経験すると、「あ、こりゃ『天』とか『神』という概念を使いたくなるわ」と分かったんですよ。
だって、彼らが言っていることが「まさに言っているまま」だからですね。
たとえば、一時期納税日本一を連発した斉藤一人さんとか、「『頑張って斉藤一人さんに勝とうと思います』とか言うけど、私は天の力を借りて生きているんだ。人の力で頑張ってもできないからやめなさい。私に勝ちたいなら、天の力を借りなさい」と言っているんですよ。
個人投資家で有名な竹田和平さんとか、「私を生かしてくれる天は、ありがたい」、「誰でも天がついている」、「天と生きれば愛が咲き、天が実を結んでくれる」とか言っているわけです。
もうね、普通の感覚からすると意味不明でしょ(笑
でも、我がなくなったら、「まさにそうで、それ以外の何物でもない」、「こんなに端的に表現した表現はない」という感覚になるんですよ。
「天」や「神」とは何か、簡単におさらい
今回はそれを、できるだけ現代人にも分かるように、仮想的な概念を使わずに説明してみようかと思います。
で、今回はその中でも、「天の声を聞く」ということについて、説明してみましょう。
一応簡単に先日のおさらいしておくと、劣等感を解決すると、我がなくなります。
すると、「私が、私が」という「自分を満たしたい」という気持ちがなくなってしまいます。
私は今まで「私が満たされるため」という感覚で物事を判断していたのに、その「私」がなくなってしまったんですよね。
で、我がなくなった状態でも私は生きているので、日常ではいろんな判断や決断をしなければならないわけです。
そんなとき、自分の中に「私」以外に、「判断してくれるもの」があるんですよ。
それがまた効果絶大なもので、「私」が判断するよりも、よっぽど適切で、喜びと豊かさを与えてくれる判断機構になります。
それほど頼りになる判断機構なので、つい思わず「天」とか「神」とか呼びたくなってしまうわけです。
だから、「天」とか「神」とかいうものは、「自分の中にある、我を手放したら見える、素晴らしい判断機構」だと思えばいいでしょう。
キリスト教ではこれを「神」と呼んでいて、仏教では「仏心」とか「仏性」とか呼びます。
竹田和平さんとかは、「まごころ」を略して「まろ」とか呼んでいるんですが。
天とか神とかは、そういう「我を取り払ったら、出てくる本当の心」みたいなものです。
「天の声を聞く」とは、「我がない状態で考える」こと
じゃあ、今回の本題で、「天の声を聞く」とはどういうことなのか、説明してみましょう。
これは驚くほどシンプルで、「天の声を聞く」というのは、普通の人が言う「考える」と同じものだと思えばいいでしょう。
すなわち、「我がない状態で考えること」ですね。
すると、「天の声を聞く」という感覚になります。
現実で、何か問題が起きて、判断や決断をしないといけないことがあったとしましょう。
そういうとき、我がないと「自分が置かれた状況」を客観的に見るようになります。
いわゆる、神の目線から自分を俯瞰して見るわけですね。
これは空間的だけでなく、時系列でも俯瞰して考えることになります。
そして、「どういう意味があるんだろうか?」、「どうすればいいんだろうか?」と胸の中で考える(=天に問いかける)と、答えが返ってきます。
我がなくなると、その答えは「自分が考えついたこと」ではなくて、「天から与えられたもの」という感覚になるんですよ。
というのも、我(私)がすでにないから、「私が思いついた」とは思えなくなるわけですね。
で、自分の状況を、我を抜きにして客観的にとらえると、そりゃもういい解決策が出てくるに決まってるでしょ(笑
客観的にとらえられるから、その状況で思いつく限りのベストな判断ができます。
自分を犠牲にすることもなく、かといって周囲を犠牲にすることもなく、自分が最も納得できる形の答えを得られます。
で、ベストな判断ができれば、後から「ああすればよかった」、「こうすればよかった」と後悔することはありません。
だから、どんな結果になったとしても、自分の決断に満足できて、すがすがしく生きられるわけです。
これって、最高でしょ。
まとめ
だから、「天の声を聞く」というのは、「我を抜きにして考えること」と同じです。
我がない状態だと、解決策は「与えられたもの」と感じられるようになります。
だから、「天の声を聞く」と表現したくなるわけですね。
たとえば東日本の大震災が起こったとき、あの衝撃的な映像を見ながら「人の命って、はかないものだ」とか、「はかなくても、しっかり生きよう」とかいう感覚を、無心に感じた人が多いと思います。
あれがまさに、我のない状態です。
「これからどうなるんだろう」とか、「未来はどうなるんだろう」という不安は、その後に落ち着いて、我が戻ったときに発する揺らぎですね。
あの映像を見ていたときって、悩みも不安もすべて吹き飛んで、未来とか過去なんか考えずに、「今」を生きてましたよね。
その状態で生きる、ということです。
そしてその状態で自分に向けて問いを発すると、我で考えることがなくなるので、「自分が考えついた答えだ」とは思えなくなります。
すると、不思議と「これは天が答えてくれたものだ」と感じられますから。
次に何か衝撃的な出来事が起こった場合、試してみるといいかもしれません。
なので、我がない人は、「自分の目標」というものを捨ててます。
天の意思だけで生きているわけですね。
で、そっちの方が最高にうまくいく上に、お金も入ってくるわ、人に喜ばれるわ、楽しく満足して生きられるわで、素晴らしいと。
こうしてどんどん我を捨てて、「天の声に従って生きれば生きるほど、豊かに楽しく生きられる」となってゆくわけです。
うーん、これでも相当分かりやすく説明したつもりなんですが、まだ分かりにくいですかね。
まあ、また分かりやすい説明が思いついたら、お話しします。
ここ1ヶ月ぐらいで、この概念が急に理解できるようになって、私の世界はがらりと変わりました。
まさに、人生のステージが変わった感じです。
だから、こういうのを語りたくてしょうがないんですが、普通の人からすると「トンデモ話」ですよね(笑
今まではこういう話はあえてしなかったんですが、最近はそのエネルギーがあふれ出すぎて、語らなければ収まりそうにもないので語っているという(笑
ま、意味不明な話として聞き流してくださいませ。
ということで、今日は「天の声を聞く」とはどういうことかについて、お話ししてみました。
今日はここまで~。