今日は、がっつり生き方のお話です。
「もう、どうすればいいのか分からない」という状況でどうすればいいのか、私なりの答えを語ってみることにしましょう。
「もう、どうすればいいのか分からない」という苦しみ
以前、SNSでこういう人がいたんですよ。
それが、「もう私は、どうすればいいのか分からない」、「どうやって生きればいいのか、分からない」と、絶望して落ち込んでいる人でした。
こういうのって、人によってはよく感じることなんじゃないかと思います。
今まで必死で、限界まで頑張ってきて。
それで、思いつく限りの手段を執って、なんとかしようとして。
それでも、全然うまくいかなくて。
手段が思いつかなくなったら、どうすればいいのか
すると最後には、手段そのものが思いつかなくなるわけです。
そして、「もう私は、どうすればいいのか分からない」、「どうやって生きればいいのか、分からない」と途方に暮れたり、絶望したりするんですが。
じゃあそういう限界点まで来た場合に、どうすればいいのか。
そこで今回は、そんな状況での私なりの答えを語ってみようかと思います。
「感情を味わう前に、対処を優先する」という問題
とりあえず結論を言っておくと、「自分の感情を味わい尽くしましょう」ということです。
すると、自分の感情を理解できて落ち着いたとき、初めて「私はどうすればいいのか」ではなく、「私はどうしたいのか」という道が見えるかと思います。
限界まで頑張る人は、一つ根本的にこじれがちなことがあるんですよ。
それが、「自分の感情を味わう前に、対処を優先しようとする」ことです。
健康的な人は、感情を先に整理する
それを説明するために、ここで少し、「健康的な人と、こじれを持つ人の、思考の流れの違い」を見てみましょう。
健康的な人は、まず最初に感情を整理して、その後で対処策を決めます。
これは、子供を見てみたり、自分の子供時代をイメージすると分かりやすいでしょう。
とある子供がいて、鉄棒とか自転車でうまくいかなくて、グスグスと半泣き状態です。
そこで親だったり大人が寄り添って、大人からどうしてもらえたかで変わります。
素直に育つ子は、そこで「まずは感情を共感してもらえた」ということがあります。
「うまくいかなくて哀しいのね。悔しいのね」と、自分の感情を受け入れてもらえるわけですね。
すると、その子は「この感情を味わっていい」と許可を得られるので、思い切り泣いたり、悔しがって、感情を爆発させます。
そしてそうすることで、内面の「したいことと、できないことの差」というストレスを解決します。
感情は、内面のストレスを解決するためのもの
そもそも感情というのは、内面のストレスを解決するためのものです。
だから感情を大いに出せば、しばらくするとストレスが緩和されて、すっきりします。
するとストレスから解放されるので、そこで「じゃあ君はどうしたい?」と親や大人から言われると、自分の気持ちを出せるようになります。
今回の場合、「鉄棒ができるようになりたい」、「自転車に乗れるようになりたい」とか、「でも今日はできそうにないから、やめたい」とか言うことでしょう。
そして、今はできそうになければ「今日はやめとく」とか、「別の方法を考える」みたいな解決策でも、絶望することなく選べます。
そうやって、内面の「したいことと、できないことの差」というストレスを解放しつつ、自分が望む方向に進んでゆけるわけですね。
つまり、地に足をつけて、望む方向に進んでゆけると。
こじれを持つ人は、対処ばかりを先にする
一方で、こじれを持ちがちな人は、その感情部分をすっ飛ばして、対処ばかりを先にするようになります。
幼い頃に周囲の大人から感情を共感してもらえなかったり、感情を拒絶されるわけですね。
例えば鉄棒や自転車がうまくできなかった場合、「哀しいのね、悔しいのね」と感情を認めてもらうのではなく、「そんなことじゃダメ。こうしなきゃダメ、ああしなきゃダメ」と言われてしまうと。
すると、その子は自分の感情を押しつぶして、「感情を無視する」という条件反射のような習慣ができてしまいます。
そして、「こうしなきゃダメ、ああしなきゃダメ」という、解決策を真っ先に求めてしまうと。
「自分はどうしたいのか」が分からなくなってくる
確かにこれは、「鉄棒や自転車をうまくできるようになる方法」だと言えるでしょう。
でも、そうしていると、少しずつ「自分はどうしたいのか」が分からなくなってくるんですよ。
というのも、自分の感情を無視しているから、「具体的な解決策が、自分の問題を解決する唯一の方法だ」と思い込んでしまうわけですね。
自分の感情を無視して解決策を求める場合、できないストレスを背負い続けてしまいます。
すると、「できないこと」が「解決できない苦しみ」になります。
本来なら感情を出すことで解決できることが、解決できない苦しみになって、だからこそ「そのマイナスの感情を感じること」が大きな恐怖になります。
だから、もっと「こうしなきゃ、ああしなきゃ」と具体的な解決策を求めてしまうようになります。
言い換えると、「今日はやめとこう」という「解決策をもたらさない解決方法」も見えないし、むしろ「それはしてはいけない」と思い込んでしまいます。
その後はおきまりのパターン
その後はおきまりのパターンで、「そのためには、こうしなきゃ」という論理構築の連続です。
でも、感情を発散できないので、ストレスは抱え続けるし、失敗を恐れ続けます。
だから、どんなに達成しても苦しいままで、「どうしてこんなに苦しいんだろう?」と原因すら分からなくなります。
そしてもし失敗すると、「できない自分が悪いんだ」と自分を責めるようになります。
すると、次第に「根本的に、自分はどうしたいのか」が見えなくなってしまいます。
「鉄棒や自転車をできるようになりたいのか」ではなく、「鉄棒や自転車をできるようにならなきゃ。そのためにはどうしなきゃいけないのか」で論理構築してしまうと。
こうして、すべての具体的な対処策をやり尽くしてもダメだったら、「もう私は、どうすればいいのか分からない」、「どうやって生きればいいのか、分からない」と絶望してしまうわけです。
「できなくてもいい」は、ありのままを受け入れられている状態
見方を変えると、「今日はやめとこう」という一時撤退的な道も、一つの選択肢なんですよね。
これは言い換えると、「できなくてもいい」という、ありのままの存在を受け入れられている状態だと言えるでしょう。
達成よりも、自分の欲求を優先できているんですから。
でも、こじれを持つ人ほど、そういう「今日はやめとこう」を自分が許せません。
だって、「具体的な解決が絶対だ」と思い込んでいるんですから。
これが、「ありのままの自分を受け入れられない」という思いと苦しみにつながっているわけです。
感情を受け入れるのが先か、具体的な解決策を求めるのが先かで、そんな風に大きな差が出ると。
まとめ
なので「どうすればいいのか分からない」、「どうやって生きればいいのか、分からない」というのは、具体的な解決策を優先している場合に起きます。
だからそういう場合、まずは自分の感情を味わってみるのもいいでしょう。
怒りを持っているのか、苦しいのか、哀しいのか、さみしいのか、悔しいのか、そんな感情を味わい尽くすことですね。
そしてそれを出しきると、内面でのストレスが解放されて、すっきりします。
そこで初めて、根本的な「私はどうしたいのか」に向き合えるようになります。
なら、「今日はやめとこう」とか、「ちょっと別の方法を考えよう」みたいに、肩の力を抜いた状態で判断できます。
これが「ありのままの自分を受け入れられて、少しずつでも自分なりに進める」という状態です。
だから、苦しいことや大きな問題があっても、ストレスを解決しつつ、歩いてゆけるわけですね。
それに、そうやって「ありのままの自分を受け入れる」ことで、「どうしたいのか」という根本的な欲求を受け入れられます。
今までは「こうしたい」という自分の軸があっても、「だけど、こうしなきゃ」という別の声が邪魔をして、それが行動を防いでいました。
でも、ありのままの自分を受け入れられると、その「私はこうしたい」という欲求を、素直に受け入れられます。
すると、引き裂かれるような「こうしたい、でも許されない。こうしなきゃ、でもこれ以上できない」の板挟みから逃れられて、自分が望む方向に進めるようになると。
これが分かると、感情を受け入れることで、根本的な「どうしたいのか」を元に、自分なりの道を模索できるかもしれません。
ということで今日は、「もう、どうすればいいのか分からない」という状況でどうすればいいのか、私なりの答えを語ってみました。
今日はここまで~。