今日は昨日に引き続き、人間心理のお話です。
「現実を見たくない」と言うけれども、現実(自然)は生命存在を否定しない。願望が自己否定を引き起こしている、というお話です。
「現実」を直視することの恐怖
「受け入れられている実感が欲しい」、「ありのままの自分を受け入れて欲しい」みたいな欲求を持つことって、ありますよね。
特に劣等感とか抑圧を持つ人ほど、そういう思いが強いんですが。
そしてその欲求の裏返しとして、「自信が欲しい」とか、「頑張って成功して、自分の価値を証明したい」、「どんな時でもポジティブになろう」、「どんな困難にも絶対に落ち込まない、強い心を持とう」とかしてしまうんですが。
そういう場合、「現実を直視させられること」って怖いじゃないですか。
だって、「自分には、願いを実現するだけの能力がない」と分かると、絶望してしまうからですね。
「自分を受け入れて欲しい。自分の価値を証明したい」という人にとっては、そういう現実は、おそらく世の中で最も見たくないことかと思います。
そしてそれは、「自分には能力がない可能性」ですら怖いものです。
だから多くの人が、「現実と願望」で言うと、願望側にしがみついてしまうものです。
「私は能力があるはずだ」とか「願えば実現する」と強く心を持って、現実を意識から追い出して、願望を実現しようとすると。
悪徳宗教から出られないのと同じ
言うなればこれは、悪徳宗教から出られない人と同じように感じます。
私たちは現実側で考えられますが、悪徳宗教に引っかかってしまった人とか、そういう環境で生まれた子は、宗教に染まった思考体系(願望側)でしか考えられません。
そしてその宗教では、「外の世界は恐ろしい」とか、「外の世界で生きていけるはずがない」とか言われて育ったので、自信がないわけです。
だから「現実」側に踏み込めずに、苦しいばかりの「願望」側の世界で生き続けようとすると。
この場合、現実側にいる私たちからすると、「その宗教が苦しいなら、その宗教をやめて、現実側に来ればいいのに」と思いますよね。
だって私たちからすると、現実ってさほど怖くはないものなんですから。
もちろん厳しいことも多くありますが、「その宗教を信じ続けてる方が、苦しいんじゃないの? 一度現実側に来て、体験して、選ぶのでもいいのに」と思うものです。
なのに宗教側(願望側)に染まった人は、「少しでも現実を直視したり、認めると、私は絶望してしまう」とおびえて、現実へと足を踏み込めません。
こうしてその人は、「幼い頃に植え付けられた、『お前はこう生きるべきだ』の世界」に居続けると。
そして、「誰か、ありのままの自分を受け入れて欲しい」、「自分の価値を証明したい」と願って、苦しい毎日を続けてしまうわけです。
毎日が苦しい場合、何かがおかしい
私たちだって、抑圧や劣等感を抱えている場合、そう感じますよね。
本来なら、自然に生きる生命は、生き生きと生きる方向に向かうものです。
魚だって、鳥だって、「生き生きと生きよう」としているものです。
なのに、なぜか私たちは、生きること自体が苦しいわけです。
むしろ、時には自ら「死にたい」と感じることもあって。
人によっては、高頻度でそう感じることもあるかもしれません。
それって、「生き生きと生きるのが当たり前」な自然からすると、何かがおかしいと分かります。
「自分の中で、何かがおかしい。何かが狂っている。何かがかみ合っていない」とは分かるけれども、何がおかしいのかは分からなくて。
そうして混乱を抱えて、自己否定とか、羨望とか、抑圧とか、苦しい我慢などを抱えてしまっているように思います。
なぜ「願望」の世界にとどまってしまうのか
つまり、「現実」は生き生きと生きることを許された世界なのに、「願望」側の世界から出られないでいると。
一歩でも現実を知ろうとすると、猛烈な恐怖を感じて、結果として「自信をつけて成功したい。認められたい」と、今までの願望世界に居続けてしまうわけです。
前置きが長くなりましたが、なら今日はこれから、なぜそう感じるようになったのか、その心理メカニズムを説明してみましょう。
人によっては、このメカニズムに気づくことで、現在の「願望」側から出られるようになるかもしれません。
現実(自然)は生命存在を否定しない
この大きな混乱は、根源が分かれば、とてもシンプルです。
私たちは「自分の心理」というややこしい現象に悩まされていますが、一つの「だまされているトリック」が理解できれば、簡単に洗脳から出られます。
つまり、「たった一つの誤解」が、私たちのややこしい心理現象を作ってしまっているわけです。
そしてその結論から言うと、それが「現実(自然)は生命存在を否定しない。願望が自己否定を引き起こしている」ということです。
裏を返すと、「私たちはそれに気づいていないから、現実に出られずに、願望に固執してしまう」ということです。
自然の中にいるイメージ
なら少しここで、イメージをしてみましょう。
私たちは、豊かな自然の中にいます。
心地よい海沿いの砂浜でもいいし、湖のほとりでも、山の頂上でも、鳥のさえずりが聞こえる森の中でも、どこでもOKです。
近くには自分の小さな家があって、そこには十分な食料も水もあり、安心して生きられる環境です。
それ以外には、周囲には誰もいない、民家もない、社会から切り離された、だけど落ち着いて生きられる、別荘のような場所です。
そんな自然に触れていると、落ち着きますよね。
だって、自然は私たち生命の存在を否定しないんですから。
もちろん、自然の中には活火山とか、氷河や砂漠みたいに、いろんな厳しい環境があるものです。
だけど、「生命が生き生きと生きること」は一切否定されません。
生命は、すべて受け入れられています。
とてもシンプルなことです。
「自然は、私たち生命の存在を否定しない。生命が生きる価値を否定しない。どの生命も、生き生きと生きることを受け入れられている」
この「自然」が、「現実」です。
現実とは、突き詰めて言うと「自然」ですからね。
自然から「願望」を見てみる
なら、その自然にいながら、「願望」側を見てみましょう。
見ると、映像のように、大きなスクリーン上に「過去の自分」が上映されています。
「こうしなきゃ、自分に価値はない」、「頑張って自分の価値を証明しなきゃ」、「ありのままの自分を受け入れて欲しい」と言っている、過去の自分が上映されています。
すると、「あ、これが現実の感覚だったんだ」と分かります。
つまり、昔の私たちは「現実を知ると、自分の存在が否定される」と感じていたんですが、実際は逆なんですよ。
実際は、現実(自然)は、私たちを否定しません。
むしろ、大きく包み込んで、生命として生きることを受け入れてくれています。
むしろ、強烈な自己否定を引き起こしていたのは、「願望」だと分かります。
そしてその願望という名の思い込みが、「現実は自分を否定する。現実を直視すると、私は絶望する。だから願望にすがらなきゃ」という錯覚を作り出していたんだと。
「願望」とは一つの搾取システム
つまり、「願望」とは一つの搾取システムだと分かります。
本当は「現実(自然)は、自分を受け入れる」なのに、私たちは周囲から「現実(自然)は、私たちを否定する」と錯覚させられてしまったわけです。
多くの場合、それは親から与えられたことでしょう。
なら、それで最も利益を得るのは、親などの「宗教の運営側」ですよね。
だって、弱い子を外に出さずにいることで、自分の価値観を植え付けて、動かせるんですから。
そして子は、その巧妙なトリックに気づけません。
真実は「自分という生命価値を否定しているのは、宗教者側である。自然は生命価値を否定しない」なのに、自然(現実)をゆがめて見せてしまうわけですね。
そして、自然(現実)に出ることに恐怖を抱くので、いつまでも自然を知ることができません。
結果として、「何かがおかしい」と感じつつ、トリックが分からず、願望側に居続けてしまうと。
ようこそ、「精神的な自由」の世界へ
ここまで読んで、人によっては目からウロコが落ちたり、「そういうことだったのか!」と瞬間的にでもすがすがしさを感じられたかもしれません。
ようこそ、「精神的な自由」の世界へ!
私はこれを感じて欲しかったんですよ。
もしここまで読んで、そのすがすがしさを実感できていた場合、すでにその「願望の垣根」を越えていることになります。
いやまぁほとんどの人にとっては、明日になって、しんどい会社とか学校に向かうと、おそらく消えてしまうような瞬間的な感覚でしょうが(笑
それでも、今この瞬間に感じたすがすがしさを、しっかりと覚えておいてもらえればと思います。
現実(自然)に立脚して生きる
そのすがすがしい感覚が、「現実(自然)」です。
今まで抱えていた「現実を直視すると、私は絶望する」みたいな「現実」のイメージとは、まったく違う感覚だったんじゃないかと思います。
そしてこの現実(自然)に立脚して生きるわけです。
自然な感覚から理解して、判断するわけですね。
すると、「願望側で生きる必要なんて、あまりないよな」って感じますよね。
もちろん、競争だとか、うらやましいことにあこがれもしますが、時と状況に応じて「こっちにしよう」と自分で判断できます。
つまり、「私はこっちが好きだから、こっちにしよう」、「未来のために、短期ではしんどいけど、こちらを選ぼう」みたいに、自分の存在価値に関係なく選べる、ということです。
「自己否定がない世界」とは、「自然に生きられる状態」
そしてこれが、健康的な人のとらえ方です。
だから、「自己否定がない世界」とは、言うなれば「自然に生きられる状態」だと言えるでしょう。
一方で、多くの劣等感を抱える人が、「自己否定がない世界」=「自己肯定感が高い世界」だと思い込んでいます。
そして「自己肯定感は、高ければ高いほどいい」、「『自分はできる』と感じるほどいい」、「願えば何でも実現する」、「超人は、絶対に落ち込まない」、「前向きでポジティブであるほどいい」などと、不自然なことを言うわけです。
つまり、現実と願望をごっちゃにしているわけですね。
そしてこれらは、自然に立脚して考えると、やはり不自然だと分かります。
自然に生きる人は、できるか分からないなら、いろいろ試せます。
願いが叶わないこともあるし、それで落ち込むこともあるし、だけど落ち込んで泣くことですっきりして立ち直れて、また生きられます。
だから「自己否定がない世界」とは、「自然に生きられる状態」だということです。
「自己肯定ばかりを集めた世界」は、自己否定と同じでしかありません。
そしてそれが、「願望側のトリックにはまっている」ということを示す現象でもあります。
まとめ
だから、今回感じたすがすがしさを、「これが現実側か」と分かると、願望側から抜け出しやすくなるかもしれません。
自然は私たち生命を否定しません。
自己否定を起こしているのは、願望(の思考体系)です。
その「願望」を実現しなくても、受け入れられている実感は得られるし、むしろ現実側に来る方が、ありのままを受け入れられます。
「現実を直視すると、絶望する」というのが思い込みの世界で、むしろ「現実(自然)を直視すると、受け入れられる」というのが自然です。
それが、健康的に生きている人の感覚だ、ということですね。
まぁもちろん、願望も必要なものではあるんですよ。
というのも、願望は社会性から生まれたものだからですね。
そして「社会を維持する」という役割を担う種ほど、願望側は大切なものになります。
その「社会的に統一された価値観」があることで、集団行動や組織的行動ができるんですから。
ただ、「社会から出て、境地を開拓する」というタイプの人ほど、そういう願望は苦しみを生みやすくなる、ということです。
これが分かると、「現実」側を選べて、受容感を得られると共に、少しずつでも「生き生きと生きる道」を選べるようになるかもしれません。
ということで今日は、「現実を見たくない」と言うけれども、現実(自然)は生命存在を否定しない。願望が自己否定を引き起こしている、というお話でした。
今日はここまで~。