今日も、人間心理のお話です。
人はよく願望と現実をごっちゃにする、というお話をしてみましょう。
投資家ジム・ロジャーズへの批判
ジム・ロジャーズという投資家がいるんですが、私はこの人の考え方が好きなんですよ。
筋も通っているし、全体的な見通しも似ているし、何より生き方も判断の仕方も私と似たようなスタイルですからね。
で、彼はだいぶ昔から、「このままだと日本は強烈なインフレになるし、経済力も失う。だから早めに対処しておけ」みたいに言っているんですが。
なのにネットを見ていると、こういう反応が結構あるんですよ。
「こんなに日本を否定して、ジム・ロジャーズは日本を攻撃している!」とか、「彼は日本嫌いだ、反日だ! 許せない!」みたいな。
ちょっとズレている解釈
こういう反応って、ちょっとズレているように感じるんですよ。
だって、彼は日本が好き(正確には日本「も」好き)で、「このままだと日本が金融、経済的に危機的になるから、対処した方がいいよ」と助言をしているわけです。
ある意味、痛い目を見ないように、アドバイスをしているんですよね。
言うなれば、「日本に台風が来るよ」と言っているようなものです。
歴史的に見て、日本は台風が来やすい土地なので、「日本に台風が来る」と指摘して、準備させるのは妥当な判断ですよね。
同じように、経済の歴史から見ると、「通貨を多く作ってきたので、強烈なインフレが襲いそうだ。経済力も失いそうだ」というのは分かるものです。
だから彼は、「準備した方がいいよ」とうながしているわけです。
なのに人によっては、それを「日本への攻撃だ」とか「反日だ」みたいに受け取ってしまっていると。
「現実と願望をごっちゃにしてしまう」現象
なぜこんな現象が起きるのかというと、その背後に「現実と願望をごっちゃにしてしまう」という心理現象があるように思います。
以前も少し触れましたが、私たちは現実と願望をごっちゃにしてしまうことがあるように思います。
例えば「自信」みたいな概念がまさにそうで、本来なら「自信」なんて概念は必要ありません。
だって、レベルが低いところから挑戦して、少しずつレベルアップしてゆくと、自分のレベルがどの辺かはおのずと分かるからですね。
例えば足の速さでも、小学生と徒競走をして、中学生、高校生、アマチュアアスリート、プロアスリート、オリンピック選手と順に競争していくと、だいたい自分がどのレベルなのかは分かるはずです。
本来なら、そこに「自信」なんて概念が介入する余地なんてないものです。
なのになぜ「自信がない」なんてわざわざ言うのかというと、「私はこのレベルでなければならない。このレベルであって欲しい」という願望があるからでしょう。
その願望が、現実である自分の実力をゆがませて見せて、「私は自信がない」と言わせていると。
つまり、願望と現実がごっちゃになってしまっているわけです。
対処方法が分からないから、「攻撃だ!」と批難する
それと同じことが、ジム・ロジャーズへの反論にもあるように思います。
おそらく、そういう人たちは、インフレや日本の衰退に対して、どう対処すればいいのか分かっていないんじゃないかなと。
でも、「自分は対処策を知らない」という、「現段階ではまだ知識がないこと」を受け入れられません。
だから、「日本にはインフレなんて起きない。経済衰退もしない。それで(私は)安泰、安心だ」という願望を持って、その願望を現実とごっちゃにしているんじゃないかなと。
そうすることで、自分が持つ「どう対処すればいいのか分からない」という不安を取り除いているように感じます。
ある意味、不安が期待を作り、その期待が現実をゆがませて見せて、そういうロジックを真実だと思わせてしまうと。
まぁ未知なる未来をどう認識しようがその人の自由ですが、「安心の作り方」という観点で見ると、ツッコミを入れたくなりますよね。
「台風が来そうだから、準備して安心しましょう」と言うのと、「日本に台風なんて来ないから、準備なんて必要ない。台風が来ないことを信じて安心しましょう」と言うのとでは、やはり現実認識が違っているように思います。
そして自然に立脚して考えると、「日本に台風が来る」という予測は、「まぁ妥当だし、自然だな」と判断できるんですから。
逆に、「日本にはインフレなんて起きない。台風も来ない。経済衰退も、財政破綻も、通貨の大きな価値変動も、一切ない!」というのは、だいぶ不自然のように感じます。
なのに、「そう信じたい」という願望があることで、その願望を現実だと誤認してしまうわけですね。
現実と願望をごっちゃにすることは、よくある
実のところ、世の中にはこういう「現実と願望をごっちゃにした、願望に基づく判断」はよくあるように思います。
「私はプロでなきゃいけない」とか、「私は称賛されるべき人間なはずだ」、「私はあの人と同じように売れっ子になっているはずなのに」みたいな。
そしてその背景には、「私はこういう人間でなきゃいけない」という、強迫観念にも似た思い込みがあるように思います。
「認められなきゃいけない」、「価値を証明しなきゃいけない」、「こういう人間にならなきゃいけない」という思い込みですね。
で、そういう願望が、現実をゆがませて見せているように思います。
例えば「願えば実現する」みたいな教えも、抑圧を持つ人ほど「そうであって欲しい」と感じるものでしょう。
だから多くの人が、「願えば実現する可能性がある願望」と「そうではない現実」を前にして、願望側を選んでしまうんですが。
でも、その不自然さに気づけるかどうか、ということです。
言うなれば、「願望と、現実(自然)と、どちらに軸足を置いて生きるのか」という問題ですね。
で、そこに「搾取のための、論理のごまかし」があると分かると、「願望にすがりついて、自己否定をする」ということから脱却できるかと思います。
これについては、また明日か後日に詳しく語ることにしましょう。
まとめ
なのでそういう風に、「人は現実と願望をごっちゃにする生き物だ」と意識するのもいいように思います。
そしてこれが分かると、他者に対しても、自分に対しても、より理解を深められるかと思います。
他者に対しては、「ああ、現実と願望をごっちゃにしているな」と分かって、「理に反する不可解な動き」が理解できます。
一方で自分に対しては、「現実と願望をごっちゃにしているのかも」と疑えると、「引き裂かれるような痛み」を引き起こす行動を減らせます。
「なぜこんな苦しいことに、自分から飛び込んでいるんだろう?」と疑えると、「なぜそういう選択をしているのか」という根源が見えてくるかと思います。
自然の立場から見ると、「現実(自然)」は「自分の存在が否定される」ように見えても、実際は「自然は存在を否定しない」と分かります。
むしろ「願望」が自分を強烈に否定していて、その思い込みが「現実は自分を否定する。だから願望にすがらなきゃ」と、現実(自然)をゆがませて見せていると分かります。
すると、自己否定を引き起こす「願望」に執着するのではなく、自由で受け入れられた「現実」を選べて、気楽に生きられるかもしれません。
この部分は大切なので、もうちょい詳しい話を、明日か後日にするかと思います。
ということで今日は、人はよく願望と現実をごっちゃにする、というお話でした。
今日はここまで~。