ここ最近は人間心理について連続して語ってますが、今日もそのお話です。

抑圧のメカニズムで、いろんな心理現象を説明してみることにしましょう。

 

今日は、ユング心理学との比較とか、原型(アーキタイプ)について触れてみようかと思います。

とりあえず今日で細かいことは出し切って、次ぐらいで「夏の抑圧解放編」は最終回です。

 

簡単なおさらい

おとといの記事で触れましたが、私が提案している精神構造図を使うことで、抑圧に絡む心理現象を解説できます。

↑ おなじみのこの図ですね。

 

私たちの精神は、「自分の価値観、他者の価値観、代償欲求」という3つの柱と、それぞれに「ポジティブ、ネガティブ」という2つの状態の組み合わせでできています。

で、抑圧を持つ場合、「他者の価値観ポジティブ、代償欲求ポジティブ、代償欲求ネガティブ」という3つの状態がメインで生きています。

 

ユング心理学の「ペルソナ(仮面)」と、今回の精神構造図の関係

心理学用語で、「ペルソナ(仮面)」というものがあります。

これはユングが定義したものですが、いわゆる「社会において、求められたことを演じる性質」のことです。

私の中では、「仮面」(元はラテン語の「仮面・人格」を意味)という隠喩が、とても象徴的で素晴らしい用語定義だと思っているんですが。

 

そしてまさにこれが、上図での「他者の価値観ポジティブ」になります。

その「他者の価値観ポジティブ」という仮面が、私たちを抑圧で苦しませる原因になっているわけですね。

 

実のところ、ユングも私も、言っていることはほとんど同じものなんですよ。

ただ、違う切り口で見せているだけです。

 

ですが、ユングの定義では理解しにくい部分があります。

それが、「シャドウ」という概念になります。

 

ユングの場合、「ペルソナ」に対立する存在として「シャドウ(影)」というものがあります。

これはペルソナの反対側に位置する価値観で、ペルソナを「社会的な行動に従う価値観」だとすると、シャドウは「それに反する、自分の欲求に従う価値観」だと言えます。

 

ですが、このシャドウという概念が、とても漠然としてしまっているんですよね。

というのも、私の提案している図で見れば分かりますが、「ペルソナ(他者の価値観ポジティブ)の反対」に位置する価値観は、4つもあるからですね。

「代償欲求ポジティブ」、「代償欲求ネガティブ」、「他者の価値観ネガティブ」、「自分の価値観」という、ペルソナに対立する存在が4つもあります。

 

これが、ユングの言う「ペルソナ」を分かりにくくしている原因のように思います。

つまり、ペルソナを外す(抑圧を解放する)にはどうすればいいのか、道を具体的に示せていないわけです。

 

ですが私の定義であれば、「他者の価値観ネガティブを攻めればいい」と分かって、抑圧解放への戦略を作れます

また、人間が葛藤を起こすプロセスも、堂々巡りをしている流れも可視化できます。

そういう点でも、今回提案した精神構造図は、より進化した深層心理の概念図として使えるんじゃないかと思います。

 

「ストーリーの原型は、この抑圧解放プロセスである」という推測

私はストーリーの原型(アーキタイプ)が好きで、ストーリープロットの法則とかを研究しているんですよ。

で、改めて思うと、ストーリーの原型がまさに、この抑圧解放プロセスであるように思います。

つまり、なぜ私がストーリープロットに魅せられたのかというと、私には「抑圧を解放したい」という欲求があって、そこにそのヒントがあったからのように感じます。

 

実際に先日語った「抑圧を解放する時、死と再生が起きる」という話でも、あれってまさにストーリーを抽象化したものと同じでしょ。

あの記事を読んで、「なんだかストーリーっぽい普遍性がある」と感じた人も多いんじゃないかと思います。

実際にあのプロセスが、ストーリー構造の原型になっているようにも思います。

 

だから私の中では、ストーリーの目的とは「抑圧を解放させるため」じゃないかと思ってます。

農耕が始まってから、人々は土地に縛られた都市生活をするようになり、反抗期で自由になれなくなってしまい、抑圧を抱え続けるようになりました。

だからその代わりとして、ストーリーが用いられるようになったんじゃないかなと。

 

で、特に中高生には「別世界に行き、その世界の法則を知り、新たな世界で活躍する」というファンタジーが大切にされます。

それがまさに、14歳ぐらいからの反抗期で必要な、「今までの価値観の社会から出て、自分が生まれ変わる(死と再生をする)」という象徴のように思います。

 

「イニシエーション」も、この抑圧解放プロセスの人工的代用品

心理学で抑圧について学んだ人なら、「イニシエーション(通過儀礼)」という言葉を聴いたことがあるかと思います。

これは古来から行われている、「今までの自分を捨てて、新たな自分になる」ということを象徴するような儀式のことです。

 

例えばバンジージャンプは、今はスリルを味わうための娯楽ですが、元々はこのイニシエーションでした。

オセアニアの小さな島で、とある部族が「若者が大人になるための試練と儀式」として用いていたと。

 

成長した若者は、縄で足をくくり、高い場所から飛び降ります。

当然原始的なものなので、安全でもないし、常に命の危険がつきまといます。

だから飛び降りる若者は、自分で自分の命をゆだねる縄を作ります。

 

ならなぜそんな危険なことをする必要があるのかというと、それが「死に向き合う」という必要があるからでしょう。

つまりこのイニシエーションは、抑圧解放プロセスの人工代用品のように思います。

人工的に「死と再生」を作ることで、抑圧を解放させようとしたメカニズムじゃないかな、と思ってます。

そのために、バンジージャンプの準備をする段階から、「孤独に向き合う(他者の助力を得られない)」、「普段の社会から離れる」、「死に向き合う(ネガティブに向き合う)」、「死と再生を経験する」というわけです。

 

実際にどの原始的なイニシエーションも、その中にはそういう「孤独に向き合う(他者の助力を得られない)」、「普段の社会から出る」、「死に向き合う(ネガティブに向き合う)」、「死と再生の経験する」という象徴が含まれます。

「滝や崖などの高い場所から飛び降りる」だけでなく、「森の中に1ヶ月放置されて、生き延びる」とか、「部族から離れた神殿に閉じ込められて、何も食べずに数週間を生き延びる」みたいな危険なものもあります。

また、戦国時代の騎士や武士家系になると、「初陣を飾る」というものもあるでしょう。

そして「象徴としての、今までの自分の死」を経て帰ってきた人を、大人として認めるわけです。

 

それは、命の危険を伴うものでなければなりません。

というのも、そういう命の危険を伴うことで、「死」に向き合えるからですね。

日本の「元服」も同じで、その結果「名前を変える」ということで、新たな命になったことを示すわけです。

 

ただ、現代は「危険なことはダメだ」ということで、成人式のようなイニシエーションも、今は「体育館で偉い人の話を聞いて、同窓会で楽しむ場」になりはてています。

そしてそれが、「大人になっても抑圧を持ち続ける」という一因になっているようにも感じます。

 

まぁ実を言うと、このイニシエーションも人工的なものなので、効果がない人には効果がないんですよ(笑

抑圧は高共感な人に強く出るので、大多数の低共感な人には、さして重要ではないと。

 

それに、抑圧解放にはそれなりの条件を整えることが必要で、「バンジージャンプをすれば、必ず抑圧を解放できる」というわけでもありません。

むしろ、そういうバンジージャンプのような通過儀礼は、「刺激にニブい外向型を優遇する」という意味しか持たないことも多いわけで。

なので「イニシエーションをやめる」というのも、一つの合理性ではあるように思います。

 

ただ、それだと高共感な人で抑圧を持ち続ける人が、苦しみ続けることになります。

なのでそういう意味でも、本来の意味での「抑圧を解放する」という方法論が重要になるように思います。

 

一瞬で「自由」を理解できる

ちなみに「他者の価値観ネガティブ」に踏み込んで抑圧を解放した場合、ちょっと面白い現象が起こります。

それが、「一瞬で自由を理解できる」という現象ですね。

 

これは体験した人にしか分からないんですが、仮面を手放した瞬間に「あ、私は自由だ」と、一瞬で理解できるようになるんですよ。

ちなみに「自由」というのは仏教用語なんですが、そのたった一瞬で、仏教の言っている教義の核心がすべて理解できるようになります。

仏教だけでなく、聖書にもあるような、同様な「自由」の概念が理解できるようになります。

 

これは実際に、「目からウロコ体験」をイメージしてみると分かるでしょう。

目からウロコ体験をすると、「あ、そういうことだったんだ」と、今まで理解できなかったことが一瞬で理解できるようになるものです。

「それのインパクトの大きいバージョン」と思えば、その心地よさが理解できるんじゃないかと思います。

 

まさに「世界が変わる」というインパクトです。

実際は、世界が変わったんじゃなくて、自分が変わっているんですけどね。

 

自然に触れて「まじめに働くのがバカらしくなる」が正常である

私は今回、「自然に触れて、ネガティブになろう」と提案しているんですが、そこで典型的な分岐点があるように思います。

それが、「まじめに働くのがバカらしくなる」という感覚に対して、どう向き合うか、という分岐点ですね。

 

実際に自然に触れてネガティブになると、「まじめに働くのがバカらしくなる」という現象が起きます。

これはもう、すぐに実感で分かるでしょ(笑

旅に出たり、海を眺めると、だいたいそう感じるものです。

「なんでわざわざあんなストレスを抱えなきゃいけないんだ」みたいな(笑

 

で、そこでどう判断するかで変わるように思います。

そこで「でも現実はそうしなきゃ」と今までの思い込みに戻るか、それとも「そうしなくても生きられるし、そうすればいいんだ!」と目からウロコで気がつくか、そのどちらかですね。

 

で、「そうしなくても生きられるし、そうすればいいんだ!」と気づくのが、抑圧の解放です。

十分なネガティブになれていて、自然の目線になりきっていれば、そのシンプルな真実に気づけます。

そして、そこを出発点とできます。

 

だけど多くの人が、「でも現実はこうしなきゃ」と、条件反射だけで今までの思い込みに戻ってしまいます

そしてそれが、「条件反射のポジティブ(他者の価値観ポジティブ)」だということです。

ポジティブになるから、元の世界に戻ってしまうと。

 

でも冷静に考えると、その「現実はこうしなきゃ」という「現実」は、ただの思い込みですよね。

そもそも「究極の現実」とは「自然」を指します。

そして自然は、私たちに「お前はこうしなければ、生きる価値はない」なんて言いません。

自然は常に、私たちが生き生きと生きることを受け入れます。

 

なのでその思い込みの根底にある「私はあの場所でしか生きられない」、「私はあの場所で生きなければならない」という思い込みを手放すことです。

自然に調和できるほど、それが幻想だと気づけます。

その「条件反射的なポジティブ」に気づけると、「これが思い込み(仮面)の拒絶反応か」と理解できて、無意味なポジティブを手放せるかと思います。

 

まとめ

ってことで、抑圧解放のメカニズムで、細かい心理現象を語ってみました。

とりあえず出せるものは出しておきたかったので、どばーっと出してきましたが、細かい部分はまた細々と未来に出してゆくかと思います。

 

さて、ようやくこれでいろいろ片付けられたように思います。

おそらく次回、今回の長かった「夏の抑圧解放編」も最終回とできればと思います。

 

ってことで、今日はここまで~。

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