ゴールデンウィーク突入ですね~。
今日はうちの周りもやけに静かでした。

今日は、精神的なお話をしてみましょうか。
「周囲に期待しない方が、うまくいく」というお話です。

 

周囲への期待を捨てることで、自発的に動けるようになる

「どうして、あの人はああなんだろう」
「こうすれば、あの人はもっとよくなるのに」
「あの人さえいなければいいのに」
「あの人がこうしてくれさえすれば、問題は解決できるのに」

そういうのって、よくあることですよね。
実際に問題となる人は多くいるもので、どうしても「問題の人」に目が行くものです。

でも、それは裏を返すと、「その人に期待している」ってことですよね。
そして、そんな「他人への期待」は捨てる方が、覚悟もできて、自発的に動けるようになるものです。

 

劣等感を作り出したのは、ほとんどが親が原因

多くの人が抱える期待として、「親への期待」ってのがあると思うんですよ。

これは劣等感を持っている人が、自分が持つ劣等感に気がつき始めたら、持ち始める期待ですね。

というのも、劣等感の原因というのは、ほとんどが親が原因なんですよ。
親が純粋にありのままの子どもを愛していれば、子どもは劣等感なんか持たないものです。

ですが、「あんたさえいなければ、私は幸せになれた」みたいなメッセージを、明にも暗にも伝える親がいるものです。
すると、子どもは「自分なんかいなければよかった」、「誰の迷惑にもならない、完璧な人にならなきゃ」、「こんなにダメな自分でも、愛して欲しい」みたいな思いを持つようになるものです。

他の多くの人は、愛情を与えてもらえた。
自分はその、与えられるはずだったものを、与えられなかった。
だから毎日苦しんで、心が痛くて、自信が持てなくて、「こんな自分には価値なんてない」と思い込んでしまっていると。

 

親に対する期待を手放すことで、覚悟が決まる

でも、その「期待」を手放すことですね。

世の中に、「子を愛す親はいなくて当然」と思うようにするといいでしょう。
「生んでもらって、育ててもらっただけで万々歳」という程度にまで、期待のラインを下げることです。

すると、「後は自力で作り上げるものなんだ」と覚悟が決まるかと思います。

実際のところ、上を見ればきりがありませんよね。
「あの人の親は、財産を残してくれた」とか、「あの人の親は、土地や家を残してくれた」、「親から会社や仕事のポジションを譲り受けた」、「結婚相手を見つけてくれた」、「友達になる人を紹介してくれた」……などなど、挙げればきりがないわけです。

すると、アラブの石油を持っている王族で、何一つ不自由していないような人でも、「私はあの人ほど財産を譲り受けなかった」とか、不平を漏らすことになるわけです。
それって、私たちから見たら、とても贅沢なことですよね。

同じように、私たちが「親から何々を譲り受けなかった」とか不平を漏らしていたら、北朝鮮とか中央アフリカとかの国々の人から見ると、「なんて贅沢な」とも言われかねないわけです。

 

周囲の人は、貴方のために動かなくて当然

お金も、健康も、智恵も、充実した仕事も、愛情も、人間関係も、周囲に期待しないことです。

私たちは、全くのゼロで生まれてきたようなものです。
周囲の人が、自分のために動いてくれるなんて、思わないことですね。

誰一人として、自分以外の人のために動くことはないと思うことです。
すると、ふいに誰かから親切をされたら、それだけで十分に「ありがたい」と思えるようになるものです。

 

貴方は生まれてきただけで、十分に価値を作った

そして同時に、「恩を返す」必要もないでしょう。

時々、「親に生んでもらって、育ててもらった恩を忘れたのか!」とか言う人がいますが、それこそが不幸の原因を作り出している人だということです。
そもそも、親は自力で幸せになれます。
子が何をしようが、親は「自分が生きているだけで幸せ」だと思うこともできますし、「子が生きているだけでも幸せ」だとか、「この歳まで生きることができてよかった」とも、何とでも思えるものです。

親は、子が何をしようが、何をしまいが、十分に自力で幸せになれます。
そして、子からの恩恵というのは、親が自力で得ることができるものです。

例えば赤ん坊の世話をした記憶だとか、思い出だとか、たったそれだけでも無限の価値があるものです。
貴方が恩とかを返さなくても、生まれてきただけで、もう十分に恩は返しているものです。

人類に限らず、生命の目的は「種の繁栄」ですからね。
生まれてきただけで、貴方はもう十分に価値を作ったということです。

だから、親の期待に応えようとか、周囲の人の期待に応えようとか、そうしなければ自分には価値がないとか、そんなことを思う必要はありません。

良心に従って楽しいことをしていれば、それでいいわけです。
良心というのは、「種の繁栄」から道を踏み外さないための、人間に備わった機能ですからね。
そして「楽しいこと」というのは、種の発展をもたらす機能ですから。

それさえしていれば、生命として十分に立派なことです。

 

何もなくて当然。そこから作り出してゆけばいい

愛情なんて、なくて当然。
幸せなんて、なくて当然。

そこから、時間をかけてでも、一つ一つ作り上げてゆくことですね。

もちろん、周囲には財産をもらったり、愛情をもらったり、豊かさや地位や名誉を簡単にもらったりするような人がいることでしょう。
ですが、それをうらやんだって、仕方ないですよね。

ない状態で生まれたんですから、そこから歩き始めるしかないわけです。

貴方のスタート地点は、みんなよりもはるかに遠い場所かもしれません。
ですが、そこからでも、歩き始めることです。

友達なんて、一人もいなくて当然です。
そこからたった一人で歩き始めて、長い時間をかけて、そして初めて一人の親友ができる。
それぐらいでいいんです。

愛情なんてなくて、劣等感まみれでいいんです。
そこから自分を大切にして、自分を許して、自分を受け入れてゆくことですね。
そして十年とか二十年とか長い時間をかけて、ようやく自分を少し、受け入れられるようになる。
その程度でいいわけです。

お金もそうですし、仕事もそう、パートナーにしろ人間関係にしろ、全部同じです。

 

まとめ:焦らず、貴方なりのスピードで、一歩一歩歩いてゆけばいい

だから、周囲と比べて焦ったり、苦しんだり、悩む必要はありません。
そもそものスタート地点が違うんですから、比べることなんてできないわけです。

そして、そんな風に「こうであればよかったのに」という期待を手放すことですね。
すると、全てが自分次第になるわけです。

貴方は、貴方が思っているよりも大きな力を持っているものです。
ただ、今までは周囲の人たちの尺度に合わせようとしていたから、その力を発揮できなかっただけで。

周囲の人は、多くのものを得て生まれた。
それらの資産を利用できるから、すーっとうまくいったわけです。

でも、貴方にはそれがなかった。
悔やんでも仕方ないですし、自力で何とかするしかないわけです。
だからこそ、しっかりと自分の道を進んで、「あんなスタート地点だったけれども、ここまで来たぞ!」と胸を張って言えばいいんですよね。

志を高く持って、遠くのスタート地点からでも、焦らず、貴方に合ったスピードで、一歩一歩自分の足で進めばいいわけです。
周囲の人には、ごまかしたりイカサマをして、距離を稼ごうとする人もいるかもしれません。
ですが、そういう人は放っておくことです。

「天網恢々、疎にして漏らさず」と言うように、そういう人は満足感を得られないようにできています。
一度そういうことをしてしまうと、罪悪感がつきまとって、そういう人は幸せになれないものですから。

だから、正々堂々と、一歩ずつ歩くのが正解ですね。
だったら、長い距離を歩いた時に、きっと「あんな場所からのスタートだったけど、私は自力でここまできた!」と、きっと自分を誇れる時が来るものです。

 

そのためにも、周囲への期待を捨てて、「なくて当然」と思えばいいでしょう。

すると、きっと貴方の「幸せ度」は、飛躍的に高まることかと思います。

ということで、今日のお話はここまでっ。

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