「もし何でもできるとしたら、何をしたい?」
「もし何にでもなれるとしたら、何になりたい?」
小さな頃、よく夢想して楽しんだものだ。
しかし、大人になるにつれて、人はそれを考えなくなって行く。
「いい大人が、何、夢物語を言ってるんだよ。もっと現実的になれよ」
「そんなこと、できっこないよ」
夢を捨てた人は、そう言う。
彼らは、「現実の中で、夢を手放して生きること」が「大人になる」ことだと思っている。
しかし、それは違う。
大人は、子どもよりもよっぽど多くの可能性を秘めているものだ。
金も稼げる。自由も得られる。智恵もある。体力もあるし、世界中に飛び出ることだってできる。
子どもではできない可能性を、大人こそ持っているのだ。
可能性を考えなくなるのが「大人」ではない。
大人とは、可能性を切り開いて行く存在だ。
傷ついても、泥まみれになっても、前に進んで行く人のことだ。
決して、言い訳をしてあきらめるような人が「大人」ではない。
口先だけで言い訳をしてあきらめるような人は、「大人」ではなく、「死人」だ。
生きながら、既に死んでいるような存在だ。
「ゾンビ」とも言えるだろう。
ゾンビは目の前の現状に何も考えることをせずに、自分の意志を持たずに、周囲に合わせて動くだけだ。
周囲の「空気」を呼んで、空気に流され、他人のことを考えず、ただ群れになって動くだけ。
「貴方はこの人生で、一体何をしたいの?」、ゾンビはこの問いに答えられない。
当然だ、既に死んでいるようなものなのだから。
ゾンビをやめるのは簡単だ。
ゾンビの群れから出ればいい。
たったひとりになって、孤独に立ち戻り、自らの意志で「私だけは、こっちに行ってみる」と決めればいい。
最初は孤独だ。
しかし、道をひとりで歩いていると、時に同じような目的地、方向に向かう仲間や道連れができる。
すると、同じ方向に向かうということで、力を合わせ、分かり合えることができる。
それが、本当の「仲間」なんだ。
ゾンビの状態で、ただ暇つぶしのために群れていただけの「友人もどき」とは全く違う、理解し合える人ができる。
そして自らの足で、いろんな場所を歩いていると、次第に分かるだろう。
「私には、自分の足で、行きたい場所に向かってゆけるんだ!」と。
そのときになって、初めて自分の可能性を知るのだ。
大人になった、素晴らしい可能性を知るのだ。
「もし何でもできるとしたら、何をしたい?」
「もし何にでもなれるとしたら、何になりたい?」
大人になった時こそ、この問いかけをしよう。
これ以上にワクワクして、胸が躍る問いかけは、ないではないか!
それを子どもだけの特権にしてしまうのは、あまりにももったいない。
さあ、自分の可能性に気づこう。
それが、「大人」になるってことなんだ。
(補足)これからしばらくの間、「だ・である調」が復活するかと思います。
「だ・である調」は断定的な説得力があって、理由の解説がいらない上に、強引に話を進めても自然にできるので、論理を考えずに楽に書けるんですよね(笑