さてさて、今日も昨日の引き続きで、子どもの感性についてお話してみましょうか。
今日は「三日坊主でも構わない」というお話です。
「三日坊主」って言葉がありますよね。
そしてこれって、すごく否定的な意味合いがあるじゃないですか。
そもそも、「長続きすること」イコール「いいこと」だと、私たちは勝手に思い込んでいますよね。
今日はちょっとそれについて、考えてみましょうか。
公園での女の子のお話
私が公園(相当大きな、名所の公園)で、本を読んでいた時の話です。
ベンチで本を読んでいると、すぐ隣に広がる広い芝生で、小学校に入る前ぐらいの女の子と、母親が遊び始めたんですよ。
で、小さな女の子が「鬼ごっこしよ!」と言い出して、二人できゃっきゃと走り出すんですよ。
すると、二分も経たないうちに、「じゃあ、次はかくれんぼ!」と言い出すわけです。
でも、その公園では隠れる場所なんてないので、一分もしたら「次は競争しよ! あそこまで!」と、ぱたぱたと走っていくんですよ。
「一つのことをじっくりやれよ!」とか言いたくなるでしょ(笑
「なんでお前はそんなに飽きやすいんだ!」みたいな(笑
ころころころころと、遊びが変わっていくんですよね。
三日坊主どころか、三分坊主ですから。
でも、見ていたら、女の子は全然つまんない感じではないんですよ。
かけっこして、かくれんぼをして、競争をして、ベンチに上ったり、石垣によじ上ったり、そこから飛び降りたり、芝生の中にいる虫をじっと観察したり、公園の水道で遊んだり、もう次から次へと新しい興味とか、遊びを見つけていくんですよ。
ほんと、遊びを見つける天才で、「どんどんやりたいことが見つかる」っていう、まさにそんな状態だったんですよね。
それで、親が「もう行こう」って言い出すまで、余裕で30分以上も楽しそうに遊んでましたから。
いつから「長く続けることがいいことだ」と思い始めたのか
この光景を見て、私は結構衝撃だったんですよ。
だって、あのペースで楽しいことを見つけるんですから。
そしてその女の子は、たぶんその公園に来たことがない子だろうと予測しているんですが、もう公園内の石段とか木々とか芝生とか広場とか、ありとあらゆるものを遊び道具にして、楽しんで、そして満足して母親と去っていったんですよ。
で、私は「ああ、人生も、こういう形がいいよな」と思ったわけです。
人生という名の公園にやってきて、「あれも楽しい、これも楽しい!」でどんどん楽しさを味わっていって、そして満足して去ってゆく。
私たちは、いつから「長く続けることがいいことだ」と思い始めたんだろう、と。
おそらく人生も同じで、三日坊主で楽しみ続けたとしても、尽きることのないほどの楽しさや面白さがあるはずなんですよ。
もちろん一つのことをしたいなら、それもいいでしょう。
でも、三日坊主でも、楽しさを次々と見つけられるなら、普通にアリじゃないかと。
私は長期戦の開発が得意ですが、やっぱりゲームからアニメとか、FPSゲームとか、今では本を書いていたりとか、結構変わってるんですよ。
それで、あの子を見ていて、さらに「今のものに固執する必要はないな」とすがすがしく思えたというか。
むしろ、面白くないことはさっさと手放して、次の人生のステージに移った方がいいじゃないかと。
子どもには、そういう身軽さがありますよね。
私たちが動き出せないのは、多くの「無駄な荷物」みたいなのがあるからだと思うんですよ。
「食べていけるのに、そしてこの世の中には面白いことがいっぱいあるのに、なんでそんなに苦しいことを続けるの?」みたいな。
そこには見栄とか外聞とか名誉とか、ありませんよね。
「転職したら、親や親戚、近所の人たちからどう思われるだろう」みたいなことはありませんよね。
子どもには「鬼ごっこを始めたら、どう思われるだろう」とか、ないんですよ(笑
まとめ
「身軽さ」を妨げているものは、「荷物で動けない」ってことですよね。
荷物を持っていることが、いいことなのかと。
時に、「長続きすること」イコール「余計な荷物を持って動けないだけ」ってこともありますからね(笑
別に長続きなんかさせなくても、いいんじゃないかと思います。
私自身、ぱっと手放せる身軽さを身につけるのも、いいなと思ったり。
そして、自由に新しいことに飛びついていく。
そういう生き方も、アリだなと。
そういうことを感じた、子どもの感性のお話でした。
今日はここまで~。