あー、前もって言っておくと、私は時々、変なこととか常識外れなことを言います。

今日はその中でも特に、とんでもないことを言うのでご注意ください(笑

特に、スピリチュアル大好きな人とか、宗教大好きな人は、怪しい雰囲気を感じたら見るのをやめる方がいいでしょう。

 

そもそも、人を許す必要なんかあるの?

スピリチュアルの世界とか、宗教の世界では、「許しなさい」ってよく言いますよね。

私自身も、このブログや本などでそういう内容はよく書いているわけですが。

でも、ちょっと最近思うようになったんですよ。

「そもそも、なんで許す必要なんてあるの?」みたいに。

 

その一つの理由としては、「人を呪わば穴二つ」って言うように、恨みを持ったとしても、自分を苦しめるだけで何の益もない、ということがあるでしょう。

人を呪っている間、その呪われているはずの人は、そんなことさっぱり忘れて幸せを満喫しているわけです(笑

だから、ほとんどの場合、恨みって「全く意味がないもの」だと思われがちですよね。

 

でも、ちょっと待ってくださいよと。

じゃあなんで、人間は「許せない」という機能を持つのですか、ってことですね。

人間に限らず、生命の機能というのは、そもそも「必要だから備わった」わけです。

生命は単細胞生物から進化を遂げてきましたが、必要ないものを作り出すことなんかしないものです。

ごくまれに突然変異が起きるとしても、必要なければその種は「重荷が多い」だけで、淘汰されていくだけです。

ならば、何かしら「許せない」ということで、メリットになることがあるはずです。

 

「社会維持型」と、「境地開拓型」の違い

ここで、以前説明した外向性と内向性のお話になります。

最近は、この外向性と内向性について着目しているんですよ。

外向型、内向型と言うのではなくて、ここでは分かりやすいように、「社会維持型」と「境地開拓型」と呼ぶことにしましょう。

 

簡単におさらいすると、例えばアリでも、「巣の近くでエサを見つけて、巣に届ける」という、社会を維持するタイプのアリがいるものです。

こういうタイプを「社会維持型」と呼びます。

一方で、そればっかりだと、近くにエサがなくなった場合、簡単に絶滅してしまいます。

だから、全体のある一定率を割いて、少数もしくは単独で、遠くまでエサを探しに行かせるアリを作ります。

こういうアリが、「境地開拓型」になります。

時々、一匹だけアリが家の中に入っているのは、そういう境地開拓型のアリだということですね(笑

 

で、外向的な人が、すなわち社会維持型になります。

こういう人は、社会を維持することが目的です。

だから、違いをあまり気にしないようにできているんですよ。

不寛容な人ばかりだと、内輪争いばかりになっちゃいますからね。

外向的な人とか、体育会系の人って、あんまり気にしないでしょ(笑

「小さなことを気にしない」からこそ、社会を維持できるわけです。

 

でも一方で、内向型の人は、境地開拓型になります。

これは言うなれば、航海をしたり、キャラバンを作って砂漠を横断するような人たちです。

こういう人ほど、「許せる」という幅が狭くなるものです。

というのも、そういう旅では、一人一人の役割が重要になります。

航海や砂漠で一人が自由奔放にめちゃくちゃをしてしまったら、全員の命が危うくなるんですよ。

だから、境地を開拓するような人ほど、「許せる」という幅を狭くしないといけないわけです。

 

脳内興奮物質のどの領域を「心地よい」と感じるか

この原理を少し脳科学的に言うと、脳内では、ドーパミンとかエンドルフィンみたいに、いわゆる「興奮物質」が出ます。

で、社会維持型(外向型)であるほど、その感受性が弱い傾向にあります。

逆に、境地開拓型(内向型)であるほど、感受性が高い傾向にあります。

これは先天的な要素も多いものです。

 

例えば、「ジェットコースターが大好き」っていう人もいれば、「大嫌い」という人もいるわけです。

「ジェットコースター大好き」という人は、ドーパミンやエンドルフィンなどの、興奮物質を感じにくいんですよ。

だから、ジェットコースターみたいな「激しい刺激」がないと、「心地よい」とか「刺激的」と感じないわけです。

それ以外は、はっきり言って「刺激がなくて、ずっと退屈」な状態になります。

 

一方で「大嫌い」という人は、興奮物質を感じやすいわけです。

興奮物質は、脳内で出過ぎると、「刺激が強すぎる」となって、不快に感じるんですよね。

ジェットコースターが嫌いな人って、そうでしょ。

「刺激が強すぎる」から嫌いなわけです。

で、そういう人は少しの興奮物質で満足できるものです。

だから、「静かに本を読む」程度で、十分心地よい興奮物質を味わえるんですよ。

 

人には、そういう「心地よいと感じる、興奮物質が出る量の領域」というものがあります。

その領域に届かなければ「退屈だ、刺激がない」と感じます。

一方で、その領域よりも多く出過ぎると「刺激が強すぎる、イライラする」となります。

すなわち、ドーパミンやエンドルフィンなどの「興奮物質への感受性」が違うから、こういう違いが起こってしまうわけですね。

 

外向型の人は、刺激を感じにくいから、より強い刺激を必要とします

バンジージャンプをしたり、スカイダイビングをしたり、キャバレーで遊んだり、ディスコで踊ったりしなければ刺激を味わえないと。

でも、内向型の人は、それだと刺激が「強すぎる」んですよ。

だから、そういうのは苦手とするわけですね。

それを「度胸がない」とか「臆病」とかいうのは、ちょっと的外れだと分かりますよね。

 

ちなみに「うつ」は、セロトニンという「心を穏やかにする安静物質」が吸収されにくくなるから起こることです。

だから、外向型(社会維持型)の人というのは、ある意味うつの逆バージョンとも言えます。

「刺激を味わえない病」だと思えばいいでしょう。

 

「価値観の違い」は、強い刺激

で、「価値観の違い」というのは、結構強い「刺激」になります

外向型の人って、新しい人とかに出会ったり、パーティーをすることとか、大好きですよね。

それは、バンジージャンプやスカイダイビングと同じように、刺激的だからです。

だから、自分とは違う価値観を求めるようになるんですよ。

 

一方で内向型の人にとっては、「価値観の違い」は、刺激が強すぎるものになります。

だから、少しの価値観の違いで、イライラしたりするわけです。

すなわち、「許せない」となってしまうと。

それは、ジェットコースターやバンジージャンプと同じことです。

刺激が強すぎるから、価値観が違うことを排除しようとするわけです。

 

であれば、なぜ人は、わざわざそんな「興奮物質の感度の違い」を持っているんでしょうか?

もし寛容な人のばかりの方が生物として発展できるのであれば、不寛容な遺伝子は淘汰されて、なくなっているはずです。

でも、人間社会でも、アリの社会でも、ある一定率を「わざわざ不寛容なタイプとして割り当てている」んですよ。

人間社会では、およそ25%ぐらいが不寛容なタイプに当てはめられているわけです。

言うなれば、遺伝子から「貴方は、不寛容になりなさい」と、指令が下っているんですよね。

 

ここで、社会維持型と境地開拓型に話を戻しましょう。

社会を維持するためには、寛容度は高い方がいいんですよ。

違いを受け入れる方が、いろんな種を作れますからね。

一方で、境地を開拓する使命を持っている人は、寛容度は低い方がいいんですよ。

そうすることで、意思を統一して、航海や砂漠を安全に旅することができると。

 

すなわち、「不寛容であることには、意味がある」ということです。

 

本質的な問題は、「境地開拓型の人が、社会維持型をしようとしている」こと

ならば、本質的な問題は何か。

それは、「境地開拓型の人が、社会維持をしようとしている」ということにあるのではないでしょうか。

本来自分が持っている特性を生かせないような場で、生きようとしていると。

たとえて言うなら、野球でピッチャーになれば一流選手になれるのに、全く強みではないバッティングで勝負をしようとしているようなものでしょう。

そして「人を許せない私は、ダメな奴だ」なーんて思い込んでしまうと。

 

境地開拓型の人は、そもそも許さなくていいんですよ。

許さないからこそ、安全に航海や砂漠越えができるんですから。

だったら、なぜ「許すことが大切です」なんて思う必要があるんでしょうか?

それは、社会維持型の人たちだけに必要な前提であって、境地開拓型の人には当てはまらないものです。

 

今の世の中は、社会維持型が75%と支配的なので、どうしても「その価値観が正しい」とされがちです。

同時に、当然ですが、「その維持されている社会」では「社会維持型の人ほどよい」と評価されます。

境地開拓型はマイノリティなので、排斥されるわけですね。

だから、つい境地開拓型の人は、社会にいると「自分はダメな奴だ」とか、「自分はゴミだ」なんて感じてしまうということです。

 

でも実は、境地開拓型の人は、ちょっと社会から離れるぐらいがいいんですよ。

例えば古代中国で、「仙人」というのは、社会から離れて隠遁した人を指します。

「仙人」は、そんなあこがれる存在だったんですよ。

日本でも吉田兼好みたく、山奥に庵を結んで、隠遁するような賢者がいましたよね。

そういうことが「うらやましい」、「最高の贅沢」という感性もあるわけです。

これがまさに境地開拓型の感性で、俗世から少し離れるぐらいの方が、「心地よい」と感じる人がいるんですよ。

 

そういう境地開拓型(内向型)の人は、「維持されている社会」は刺激が強すぎて不快なんですよ。

むしろ、アインシュタインのように、実験室に閉じこもって、あれやこれやを一人で楽しんでいるぐらいが、脳内の興奮物質的にはちょうどいいわけです。

そして、そういう人が、新しい理論を発見したり、境地を切り開いているわけですね。

 

まとめ

だから、そんな風に、「許せない」ということで苦しむ必要はないんじゃないかと思います。

許せなくていいと。

思いっきり許せなくて、それでいいと。

むしろ、「許さなきゃいけない」という「維持された社会」に居続けるから、苦しみが生まれるわけですね。

 

「社会から出ると、寂しい」なんて思うかもしれませんが、それは植え付けられた洗脳でしかありません。

「許せない」という人は、実は結構一人とか、気を許せる少数の人と付き合う程度で満足できるんですよ。

外向型(社会維持型)の人は、それだと刺激がなさすぎるから、「寂しい」と感じるだけです。

彼らは、「刺激が欲しい」から「人に会いたい」と思うんですよ。

目的は「興奮物質を味わうため」です。

「落ち着きや安らぎを得るため」ではありません。

 

それを勘違いして、内向型(境地開拓型)の人は、「みんなと一緒にいれば、幸せになれるはず」なーんて思い込んでしまうと。

でも、一緒にいれば「価値観の違い」に目がゆき、刺激が強すぎてイライラして、「やっぱり一人がいい」とか思うわけです。

境地開拓型の人は、一人とか、価値観が許容できる少人数と付き合うので十分なんですよ。

それが、生命として与えられた使命なわけですね。

 

この違いが理解できないから、「許さなきゃいけない」なんて思って、苦しむようになると。

いや、「運をよくする方法」とかいう本を書いている私がこんなことを言うのも何ですが(笑

 

運は、悪くていいんです。

許せなくていいですし、許す必要などありません

自分に与えられた、「生命としての使命」に気づけばいいだけです。

それが「維持された社会」から出て、何かしらの境地を目指す、ということですね。

 

考えてみれば、私も許せないことは多いんですよ。

特にストーリープロットとか、一般の漫画とか見ても、しょーもないプロットとか構造がない物語を見ると、もう許せないんですよ(笑

だからこそ、私はプロット理論を作れているわけですね。

許せなくていいわけです。

それが、新しい境地を作り出すことになるんですから。

 

そう考えると、「許せない」ことに苦しむことはなくなるんじゃないかと思います。

そういう考え方もありますよ、ということで、今日はお話ししてみました。

 

長くなりましたが、今日はここまで~。

この記事をシェア:
Share