昨日、土方歳三の話をしたじゃないですか。

それでもう少し語れることがあったので、今日はその続きになります。

好きなことをしていると、「生き延びること」に執着がなくなってくる、というお話です。

 

「向いていないこと」には我慢しなくていい

昨日も説明しましたが、土方歳三って、2度ほど奉公に出されて、2度とも逃げ出しているわけです。

すると、普通は「我慢を知らない奴だ」とか言われますよね。

でも、実際のところは、彼は明治政府と戦って、勝利が絶望的になっても応戦して、北海道で討ち死にしているわけです。

これって「我慢を知らない」どころか、すっごい胆力がないとできませんよね。

 

「向いてる」、「向いてない」って、こういうことだと思うんですよ。

向いてることなら、楽しくできて、腰を据えて挑めて、そして成果を出してゆけると。

でも向いていないことなら、楽しくもなくて、力も入らなくて、成果も出ないと。

これが経験的に分かっているから、「あ、自分は雇われには向いてないわ」と分かって、さっさと変わり身ができるわけですね。

 

で、向いていることなら、すごい執念で挑めるわけです。

そして、そのために命を賭けることだってできると。

 

好きなことをしていると、生きることに執着しなくなる

これは私の感覚ですが、大好きなことばかりをして生きていると、だんだんと生きることに執着しなくなってきます

「いつ死んでもいいや」と思うようになる、ということですね。

だけど、「できれば生きて、為すことをしたい」と感じるようになります。

 

普通の人の予想では、「好きなことをしたら、『ずっとこのままでいたい、死にたくない』と思うようになる」ってイメージするんじゃないでしょうか。

でも現実では、「好きなことをしていたら、いつ死んでもいい」と感じるんですよ。

逆に、好きなことをしていない人ほど、「死にたくない」と、死を恐れて、「生き延びること」に執着をしているように思えます。

 

好きなことをしている人は、好きなことをしていればいるほど、「いつ死んでもいいし、いつでも死ねる」と思いながらも、生き続けることを選びます。

逆に好きなことをしていない人ほど、「死にたくない」と思いながらも、「自分はダメな奴だ」と落ち込むと、自分から死を選んでしまうと。

そういう、ねじれの関係があるように感じます。

 

実際、土方歳三とか、「このために戦って死ぬ」と実行できてますよね。

死ぬ覚悟はあるんですが、「可能な限り戦って死ぬ」という、「生きる」がベースになってるんですよ。

でも、好きなことをしていない人は、「このために戦って死ぬ」なんて行動は取らないと思うんですよ。

これはもう、イメージで分かりますよね。

 

自然に生きている生命は、死ぬことから逃げても、死ぬことに落ち込まない

最近感じるようになったのが、「ああ、これが自然界で生きている生物の感覚なのか」ってことです。

魚とか昆虫みたいな自然界の生物って、捕食の対象になるわけじゃないですか。

彼らは「食べられる可能性」が高いわけです。

だって、稚魚が大人になる率とか、1/10とか1/100とか1/1000とか、そういう率ですからね。

 

でも、彼らは「自分はダメな奴だ」、「社会の中で、自分は落ちこぼれだ」なんて思って落ち込んだりなんかしてませんよね。

精一杯食べて、逃げる時はしっかりと逃げて、それでも食べられる時は食べられると。

そこで、「死ぬこと」や「食べられること」に悩まないんですよ。

逃げる時は本気で逃げますが、基本は「いつ死んでもいい」という感覚なんですよね。

で、そんな「自然に生きる」イコール「好きなことだけをして生きる」になる、ということです。

 

「いつ死んでもいいけど、いつでも死ねるけど、可能な限り挑み続けて生きる」を選ぶか。

それとも「死にたくない、すぐには死にたくない。でも挑戦しない、だから現実が変わらない。だから苦しい、だから死のう」を選ぶか。

「自分の命にさして価値がない」と思っている人ほど、気楽になれて、傷つくことを受け入れられて、挑戦できて、生き続けると。

逆に「自分の命はすごい命なんだ。すごい命であるべきなんだ」と思っている人ほど、傷つくことや奪われることを恐れて、何もできずに、競争や比較に明け暮れて、死にたくなると。

 

世間一般で言う「美談」への違和感

なんと言うか、私の感覚では、世間一般で言われる「美談」には、違うような気がすることがよくあるんですよ。

普通は「自殺をしてはいけない。自分の命の尊さを知りなさい」って言いますよね。

でも実は、「命があるだけ儲けもん」とか、「生きてるだけで丸儲け」と、「自分の命(人生)にはさして価値がない」と思う方が、気楽になれて、自由になれて、どんどん行動できるような感じがします。

逆に、「自分の命は尊い。少しでも傷つけたらいけない大切ものだ。絶対に傷つかないように、守り続けなければならない」という感覚になると、奪われたり傷つくことを恐れて、何もできずに、不自由になって、動けなくなるような気がします。

私が持つのは、こういう違和感です。

 

「人生は素晴らしい」

輝かしいセリフですよね。

確かにそうかもしれません。

でもなんか、違和感があるんですよ。

 

それは言うなれば、「魚の一生は素晴らしい」、「稚魚の一生は素晴らしい」と言っているようなものです。

「じゃあ、生まれてすぐに食べられた稚魚の一生は、素晴らしいの? 素晴らしくないの?」みたいな。

「石は素晴らしい」、「空気は素晴らしい」、「宇宙は素晴らしい」とか言っているのをイメージするといいでしょう。

「素晴らしいとか素晴らしくないとか、そういう次元の話じゃないだろう」と思うんですよね。

それは競争社会とか比較社会の中での「美しい話」であって、そもそも「そんな必要がない場所」があるわけです。

そんな「自由な場所」に立てば、「素晴らしい」とか「価値がある」とか、どうでもよくなるんですよ。

 

「ありのままで生きる」とはどういうことなのか

これを、別の例で言いましょうか。

社会の中では、しがらみが多いので、ぴん伸びて生きることができない。

なら、自分を曲げて社会のぎゅうぎゅう詰めの中に居続けるのか、それともすし詰め状態から脱出して、ある程度のびのびできる場所に移るのか。

 

不自然に自分を曲げてしまうから、「苦しい」と感じるわけです。

そして、いつしかその人は、「こんな曲がった自分が自分なんだ」と思い込んでしまうわけです。

すると、「誰か、こんな曲がった私を受け入れて」という欲求を持ち始めます

同時に、「こんなに曲がった自分は嫌だ。苦しい、死にたい」と思います。

そういう状態で、「人生は素晴らしい」、「貴方の命には価値がありますよ」とか言われると、「ああ、私は曲がった状態でいいんだ」と、受け入れられたと感じて、涙を流してその人は喜ぶわけです。

そして、「私はこのままでいいと分かりました。こんな私を受け入れて、今まで通り生きていこうと思います」と。

 

「え? そうなの?」とか言いたくなるでしょ(笑

「それで解決しちゃっていいの?」みたいな(笑

「それって見せかけだけのごまかしで、すぐにまた苦しくなるよ?」と分かりますよね。

で、「もうちょっとのびのびできる場所に移ればええやん」と言いたくなるものです。

私が感じているのは、こういう違和感です。

 

でも、本人は「このすし詰め状態から出て、体を伸ばすなんて受け入れられない。そんなことをしたら、私は死んでしまう。だからもっと曲がっていないといけないんです」と言っているようなものです。

いやいや、それは逆でしょうと。

「あ、自分はここには向いてないわ」と感じたら、ちょっとそこから出てみましょうと。

で、土方歳三みたいに、行商をしつつ趣味の剣術をしたりするんですよ。

私の場合、独立して大好きなことでお金を稼ぐようになったと。

 

ぴんと伸びることができたら、ありのままになれます。

そして、「あー、気持ちいい」と、毎日を過ごせるようになります。

だから、自然の生命と同じように、いつ死んでもいい。いつでも死ねる。

でも、生きられるからには、精一杯生きる。

自然でしょ。

 

「いい子」でいすぎると、本当の自分が分からなくなる

思うに、あまりにも「いい子」でいすぎたために、すし詰め状態から出たことがないんじゃないかな、とも思います。

のびのびとした状態に触れていると、「ああ、これが本当の自分なんだ」と分かるものです。

でも、そんな「本当の状態」が分からないから、「自分は曲がった人なんだ」と思い込んでしまっていると。

本当は、ぴんと伸びれば、すがすがしい生き方ができるのに。

 

そして、すし詰め状態から出たことがないから、「ここから出たら死ぬ」、「ぴんと伸びた状態で生きる方法を知らない」と、恐怖を感じているような気がします。

その象徴となる言葉が、「好きなことなんかじゃ食べていけないよ」という言葉かなと。

これは言うなれば、「君は奴隷だ。奴隷をやめたら、生きていけないよ」というのと同じです。

これを言うのは、必ず同じ奴隷なんですよ。

奴隷を動かしている管理職も、また同じ奴隷ですからね。

 

自由人は、「好きなことで食べていく? そんなの当たり前じゃないか! 他にどうやって稼ぐっていうんだ!?」と言うでしょう。

それは、自由人は、みんながぴんと伸びた状態で生きているからですね。

そうでなきゃ、最大限のエネルギーを出せないんですから。

エネルギーを全開にして、それで挑戦するからこそ、道は開けるんですから。

同時に、そういう自由人は、「いつでも死んでいい」と感じます。

だから、土方歳三のように、強烈な逆境でも、最後まで戦い抜くことができるわけですね。

 

まとめ

私が感じているのは、こういう感覚ですね。

昔の私もまた、不自由な奴隷だったんですよ。

でも今の私は、さして自分の命に価値は感じていないように思えます。

 

だからこそ、嬉しいこととか楽しいことがあると、「やった」と喜べるようになると。

同時に、傷つくことを恐れずに、どんどん挑戦してゆけます。

そういうスタイルの生き方ですかね。

 

そういう感覚的なお話をしてみました。

うーん、まだうまく言葉にできないので、またいい言葉にできたらいつか説明します。

 

ってことで、今日は好きなことをしていると、「生き延びること」に執着がなくなってくる、というお話でした。

今日はここまで~。

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