昨日、「与える喜び」についてお話ししましたよね。
それで思いついた「幸せのお裾分け」というコンセプトが、私の中でもぴったりイメージとはまったので、今日はそれについてお話ししてみましょうか。
「与える喜び」という豊かさ
昨日も触れましたが、「与える喜び」ってありますよね。
与えるのは、実はすっごい豊かさをもたらしてくれるものなんですよ。
この豊かさの味わい方を知らないから、「お金、お金」、「もっと稼げるように」、「もっと、もっと」と言うようになったりするんじゃないかな、と思ったりもします。
お金も大切なんですが、お金は豊かさの一部でしかないと。
他にもいろんな豊かさを味わえるようになると、お金に縛られなくなりますよ、ということです。
食べ物だって、「味わえる食料は米しかない」と思うと、しんどいですよね。
でも、「パンを食べてもいいし、大豆もある、牛肉や豚肉、魚もある」とか思えば、いろんな味を味わえて、豊かさを得られる、それと同じです。
お米も大切ですが、他のものを味わえるようになると、お米に固執することはなくなりますよね。
そして、お米を使うと美味しい料理に、適切にお米を使えるようになると。
それと同じで、いろんな豊かさを味わえるようになると、お金から自由になれて、お金を適切な場所に使えるようになる、ということです。
そんな豊かさの一つとして、「与える喜び」がある、ということですね。
ただ与えればいいってものではない
でも、「与える」っていうのは、ただ与えればいいってもんじゃないんですよ。
これのいい例として、二宮尊徳の両親の話があります。
江戸時代に二宮尊徳という、農民出身なのに武家や市町村の経営・運営に携わり、成果を上げたという人がいるんですよ。
そんな彼の両親が、実は「誰も幸せになれない与え方」をしていたんですよ。
それはどういうものかというと、自分が持っているお金や家財道具などを、村の人が「貸してくれ」と言われると、断らずにどんどん与えていたって言うんですよ。
彼の両親は、断り切れない性格だったわけですね。
当然、村の人は誰も返すこともなく、いわば持ち逃げと同じようになってしまいます。
これは、借りた側は「しめしめ、返さずにおけば儲かるぞ」と、欠乏意識を助長させる与え方ですよね。
言うなれば、これは「与えているようでいて、相手を泥棒にしていた」ということなんですよ。
「泥棒を育てていた」とも言えるでしょう。
相手に与えていても、豊かさを与えているとは限らないんですよ。
むしろ逆に、与えることで、相手に「自分はもっと足りない」、「私は貧しい」と思わせてしまうことだってあるわけです。
それを見ていた二宮尊徳は、「こんな与え方は絶対にしてはいけない。自分の家も貧しくなり、みじめになり、同時に相手も感謝を忘れて、人からもっと奪うようになる」と、強い反面教師として学ぶわけですが。
そんな風に、「与える」というのは、ちょっとしたコツというか、高度な技術が必要になるわけです。
ただお金やノウハウを与えればいい、というものでもないんですよ。
ちゃんとしたコツをふまえなければ、与えても与えても嬉しくなくて、豊かさも感じられなくて、むしろ豊かさは奪われていくことだってあります。
お金を手放したり、わざわざ時間を使ってノウハウを与えて、それで自分も相手も豊かにならずに、むしろ共に不幸になるとか、アホらしいですよね。
なので、ここでしっかりと、「豊かになれる与え方」を説明しておこうかと思います。
「自分が豊かになる」ために与える
とりあえず最初にお断りしておきますが、なぜ与えるのかというと、「自分が豊かになるため」です。
誰かのためとか、そんな高尚なものじゃないんですよ(笑
これはかなりの打算で、しかも自分の欲求や豊かさをより満たすためのものである、ということです。
自己犠牲とか、社会貢献とか、慈善事業とか、美しい心とか、そんなんじゃありません。
「自分がもっと繁栄するための、独善的方法論」です(笑
すっごい前置きが長くなりましたが、その「自分が豊かになる与え方」というのが、「幸せのお裾分け」というアプローチですね。
「幸せをお裾(すそ)分けする与え方」、ということです。
自分に何かちょっとした幸せがあったら、それを周囲にお裾分けしましょうと。
それは、「自分にとってプラスになったこと」の中から部分的に与えるので、自分にとってはマイナスにはなりえませんよね。
プラスが得られた瞬間に、「増えた分」の一部を周囲に与えると。
私の場合、新たなノウハウを得た時とか、新たに気づいた時に、それをこのブログとか本で分かち合っているわけです。
だから、私はプラスにしかなりえないんですよ。
これの詳しい理屈は、昨日の記事で書いたとおりです。
で、周囲も「あの人に幸運が来た中から、もらった」という形になるので、周囲は返す必要がなくて、無条件に受け入れられますよね。
泥棒にもならずに済んで、貸し借りもなくて、むしろ一緒に「プラスになった」という喜びを分かち合えるわけです。
すると、周囲は「もっとあの人に幸運が起こって欲しい」と願うようになりますよね。
だって、もっとその人に幸運が訪れれば、もっとお裾分けがあるんですから。
だから、嫉妬することもなく、その人を大切にして、応援するわけです。
私の場合で言うと、私がどれほどブログとか本でノウハウを分かち合っても、読み手は私に返す必要はないですよね。
そもそも私は好きで楽しく書いているだけなので、ノウハウを出しまくっても、私は何も奪われていないわけです。
むしろ、読んでもらえるだけ嬉しくなる、みたいな(笑
だから、安心して読めるでしょ。
すると、「あやえもさんがもっといろんなことに気づいてくれたら、私はもっと面白い記事を読める(多くのお裾分けを得られる)」って感じますよね。
こうして私の活動を、もっともっと応援したくなっちゃう、ということです(笑
「幸せのお裾分け」を与えることで得られるものの数々
他にも、「幸せのお裾分け」をすることで得られるものは、多くあります。
活動を応援したくなるから、作品に値段をつけて出したとしても、「それぐらい安いものだよ」と、気楽に買えるわけです。
人は、好きな人とか応援している人の作品は、やっぱり味わいたくなりますよね。
身近で好きな人が「初めて小説書きました」みたいなことを言われると、お金を出してでも買ってみたくなるでしょ。
それと同じ原理です。
だから、私の場合で言うと、私が値段をつけて作品を出した場合、多くの人が喜んで買ってくれるわけです。
そうしていると、お裾分けをした人の中にも、「私のところにも幸運が来た」とか、「私にはこういう幸運がある」っていう人が出てくるものなんですよ。
そういう人は、「以前、あやえもさんに幸せのお裾分けをもらったから、お返ししよう」とします。
例えばうちのチームで成果を出して、プロのシナリオライターや作家になった人がいると。
それだけでなく、元気を得られたりとか、希望を持てた人がいるわけです。
そういう人が「思いがけずにプラスになった」ということが起こると、さらに「幸せのお裾分け」をしてくれるわけです。
例えば漆原雪人さんという人がいますが、彼は以前にラノベデビュー作を送ってくれたりとかしてるんですよね。
そういう「幸せのお裾分け」ができる人って、運がいい人なんですよ。
だって、与えられる人でないと、こういうことはできませんからね。
与えるのはモノだけでなく、「作業」になる場合だってあります。
私の本の誤字脱字チェックとかも、私の本を読んだ読者の方がしてくださってるんですよ。
それは言うなれば、私がチェックを募集すると、「自分にはチェックができる時間的余裕も環境もある。じゃあ、それをあやえもさんに分けてあげよう」ってことと同じですからね。
どのみち無料で読めると分かっていたとしても、無償でやってくれるわけです。
すなわち、ちょっとした助力とかでも、協力してくれる人が現れるわけです。
こういう助力ができる人って、私と同種の「与えられる人」だからできるわけですね。
情報を与えてくれる人もいますし、ちょっとした支援をしてくれる人もいます。
うちの作品を広めてくれる人もいますし、私に言わずに、ツイッターとかブログで宣伝するとかいうニクイことをする人だっているんですよ(笑
こういう人は、運がいい人で、与えられる人で、私と同じように「幸せのお裾分け」をしていることになります。
彼らは無意識にでも、「幸せのお裾分け」をしているんですよ。
素敵な人たちでしょ。
すると、私は与えれば与えるほど、運がいい人、与えることができる人とつながることができると。
こうして私は、どんどんいい人たちに囲まれていって、どんどん応援されて、どんどん運がよくなって、どんどんチャンスを得てゆくことになるわけです。
「与える」ことで得られるもの、得られないもの
じゃあ、ちょっとこれを整理して見てみましょうか。
私が「幸せのお裾分け」を与えた場合は、豊かさはどうなるのか。
- 私はマイナスにはならずに、プラスになる。
- 周囲の人もマイナスにならないので、私は喜んでもらう喜びを味わえる。
- 嫉妬されることがなく、純粋に活動を応援してもらえる。
- 応援してくれるから、私はどんどんモチベーションが上がる。
- 活動を応援してくれるから、値段がついたものでも買ってくれることが多くなる。
- 私はその中から、「幸せのお裾分け」ができる人を見つけられて、つながることができる。
- 私は良質な人脈を得て、応援して、応援し合える人たちばかりに囲まれることができる。
- 良質な人脈があるので、良質な情報や助力を得られて、夢を実現しやすくなる。
一方で、私が「幸せのお裾分け」を与えずに独占したら、豊かさはどうなるでしょう。
- 「幸せのお裾分け」の分ほど、私は豊かさを保持することができる。
これだけですよね(笑
「じゃあ、どっちが額面的に豊かになるでしょうか?」ということです。
これは精神性とか高尚な話は一切抜きにして、打算と己の欲望だけで考えるといいでしょう。
答えは明白ですよね。
まとめ
だから、与える方が豊かになれるわけです。
与えないから、「お金、お金」となっちゃうわけですね。
で、その与え方として、「幸せのお裾分け」をしましょう、ということです。
私が持っている環境というのは、すっごい素敵な環境だと分かりますよね。
私がモチベーションにあふれて、応援されて、やりがいがあって、大好きなことができて、お金になって、しかも幸せに感じられるのは、こういう素敵な環境があるからなんですよ。
これは、こういう環境を与えられれば、誰でも十分な幸福感を得られるかと思います。
そして、やりがいのある毎日を送ることができるようになる、ということですね。
なので、是非「幸せのお裾分け」という観点で、「与える」ということを実行してみるといいでしょう。
それは、ちょっとしたことでいいんですよ。
「今日、こういう幸せがあった」と感じられたときに、その一部を分かち合えばいいんですから。
そして、見つける幸せをどんどん増やしていけばいいだけです。
マイナスにはなりえないので、是非やってみて、続けてみると、その効果に驚くことでしょう。
ということで、今日は「幸せのお裾分け」という考え方についてお話ししてみました。
今日はここまで~。