今日も昨日の続きで、精神的なお話です。
精神的なお話大好きですから!
で、今日は「道は無限にある」、というお話をしてみましょう。
想定外の道に入っても、案外悪くない
最近は「大好きなことをしながら、お金をもらいつつ、幸福感を味わうにはどうしたらいいのか」っていうお話をしてますよね。
で、私が伝えたいことを簡単に言うと、「思い通りに未来が動かないのなら、自分が想定している道以外にも入ってみようよ。実はそこも、案外悪くないですよ」ということですね。
遠回りに見えても、実は「この道、楽しい!」ってこともあるわけです。
これを、一つのたとえ話で説明してみましょう。
昨日も少し触れましたが、「少女漫画を描いて生きていきたい」という漫画家志望の方がいたとしましょうか。
でも、全然新人賞にも受からないし、批判されるのが怖くてpixivで公開する勇気や自信もないと。
昨日はそこで、「編集者や目の肥えた人に見せるのではなくて、とりあえず姪っ子とか、近所の女の子に見せることもできる」みたいに言ったわけです。
それを一番必要としている人に見せる、ということですね。
すると、そういうところから、自分独自の道が開けたりするわけです。
ハイアマチュアがプロに勝てる場所
普通、「漫画はハイレベルの方がいい」とか思うじゃないですか。
でも、状況によってそうではなくなります。
例えば昨日も触れたように、「自由帳に描かれた漫画」と「印刷物の漫画」では、価値の中心点が全く違うんですよ。
普通の女の子なら、「自由帳に描かれた漫画」はきわめて希少に感じるものです。
しかもそれがプロレベルとはいわずとも、ハイアマチュアであれば、強烈なインパクトを受けるものです。
だから、「ありふれたプロレベルの印刷物」よりも、「滅多に見られない、ハイアマチュアの手描き漫画」の方が圧倒的に価値があるわけです。
そういう土俵を作ってしまえば、ハイアマチュアがプロに圧倒的に勝てるんですよ。
すると、その姪っ子がクラスメイトに「私はこんなに貴重なものを持っているよ」と自慢をしたくなるものですし、クラスメイトの女の子もこぞって「見たい!」と言うでしょう。
実際に鉛筆でも自由帳でも、普段自分たちが使っている道具を使って見事な漫画が描かれていると、衝撃を受けるものです。
そうして、ハイアマチュア程度の実力なのに、プロ以上にあこがれられる存在になるわけですね。
「教えてあげる」という道が見える
だったら、それに影響されて「私も漫画を描きたいな」みたいに思う子が出てくるんですよ。
小学生の頃でも、誰かが教科書にパラパラ漫画を描いたら、教室中にパラパラ漫画ブームが訪れたでしょ(笑
すると、「そうか、教えてあげることもできるんだ」と分かります。
ハイアマチュアでも、子どもからすると圧倒的な力を持ってますからね。
なら、「ここにこの時間に描いた漫画を持ってくれば、見てあげるし、コツを教えてあげる」みたいに漫画の奥付に書くことで、ファンとの交流ができるようになります。
みんな、その漫画家(志望)さんにあこがれてますからね。
その漫画家さんに会えることに目をきらきらと輝かせて、でも不安と共に「へぼいけれども、でも楽しく描いた絵や漫画」を持ってくることでしょう。
で、「持ってきたけどどうしよう」と玄関前で迷っているでしょうから、見つけたら積極的に声をかけてあげると。
そして見てあげて、褒めてあげるわけです。
「貴方はこういうところが素敵だね」とか、「貴方はこういう部分が魅力」と言ってあげると。
なら、子どもたちは、まず間違いなく感激しますから。
ファンにとって、あこがれる人から受け入れられるっていうのは、それぐらい嬉しいことです。
私たちが、あこがれる出版社の社長とか、あこがれる世界的なクリエイターから「君はこういうところがすごい」と認められるのと同じです。
「圧倒的にすごい」と思っている人から認められるというのは、強烈な嬉しさをもたらすんですよね。
すると、そういう中から、「漫画を描くのって楽しいな」とか、「絵を描くのが好き」という子が出てきます。
なら、教えてあげることもできますし、一緒に楽しく描くこともできますよね。
いろんな「助けられること」がある
場合によっては、いつもひとりぼっちでいる子を助けられるかもしれません。
だいたいどこにも、「いつもひとりぼっちでいる子」はいるものです。
で、そんな人づきあいが苦手な子って、内向的な子ばかりですからね。
すると、そういう内向的な子って、漫画とか絵とか、そういう文化的なことを好むものです。
なら、その子に「漫画の描き方」を与えることで、孤独を紛らわせることができるかもしれません。
描いた漫画を見てあげていると、日に日にその子が元気が出て、輝き始めるわけです。
「実は先生も、人づきあいが苦手なの。自信もないの。それでも、幸せに生きられるよ」と言うことで、その子を励ますこともできるでしょう。
すると、その子は「この先生みたいになりたい!」と思うんですよね。
「ファンからあこがれられる」というのは、そういうことです。
なら、自分を不幸にすることなんかできなくなります。
その子のためにも、自分は幸せを味わおうと思うようになります。
そうして、「自分が幸せになることで、あこがれているファンの子も幸せに導いてゆく」という歯車が回り始めます。
道はどんどん、予想もしなかった方向に開けてゆく
場合によっては、物語にはその作者の欲求がダイレクトに出るので、その子の欲求やSOSを感じ取れるかもしれません。
それを、その母親にそれとなく伝えることもできるかもしれません。
で、その子の母親が気づいて家庭内の問題を解決したら、人づきあいがうまくできるようになったりするんですよ。
そういう風に、内向的な子に対して漫画を教えることで、カウンセラー的な先生になることもできます。
もしくは、漫画をユングの箱庭療法のように用いることで、心理療法ができるかもしれません。
漫画だけでなく、勉強も教えることで、家庭教師のような立ち位置になることもできるでしょう。
「子どもたちと一緒に作った物語」があれば、その価値に着目することで、新たな切り口が開けるかもしれません。
道はどんどん、当初は予想もしなかった方向に開けてゆきます。
そんな風に喜んでもらうと、「ああ、私はこれでいいんだ。むしろ、こっちの方がいい」と感じるようになります。
「プロの漫画家にならなくても、自分にできることがある」と分かります。
むしろ、それは世界中で自分にしかできないことかもしれません。
そしてその道は、「プロレベルの実力がない」という「才能」を持つことで、初めて見つけられる道です。
その欠点のように見えた特徴が、天からの恵みに変わるわけですね。
「ああ、天は私にこの道を教えようとして、プロレベルの能力を与えなかったんだ」みたいに意味と筋が通ります。
道は、無限にある
で、重要なのは、こういう道は無限にある、ということです。
これはたった一つの展開例にすぎません。
例えば地方にあるローカルのケーブルテレビ番組では、特に制作の経験もないような普通のサラリーマンが、脚本とか演出、構成、監督をやって番組を作っていたりするんですよ。
だから、「見るからに素人制作のローカルケーブルテレビ番組」ができてしまったりするんですが。
そういう人たちって、制作に興味もないし、能力もないことが多いわけです。
すると、そこで脚本や構成を手伝ってあげたりすることもできるでしょう。
実はああいうローカルケーブルテレビは第3セクターだったりと、意外と強力な後ろ盾があって、結構な予算を持っていたりするんですよ。
すると、楽しく貢献できて、しかも結構な額が稼げたりするんですよね。
お金がそれほどでなかったとしても、地元ローカルテレビといえども、自分の脚本がテレビで流れるとか、どう考えても興奮ものでしょう!
そしてそこからどんどんと新しい出会いがあり、予想もしなかった方向に未来が開けていくわけですね。
開けない道に固執するのは、もったいない
繰り返しますが、道は無限にあります。
楽しく、そして喜びと共に進める道は、多くあるんですよ。
すると、「私は漫画家でなきゃダメだ」なんて固執するのは、なんかもったいないですよね。
漫画家として未来が開けているのであればそれはいいでしょうが、もしそうでなければ、そこに固執する必要はないと分かります。
だって、いろんな「楽しい道」があるんですから。
回り道のように見える小さな路地に入ったとしても、その路地を楽しめるようになります。
だったら、「ああ、漠然とした行きたい方向さえ合っていれば、目的地につけるんだ」と分かります。
欲しいのは、「漫画家」だったんじゃなかったんだと。
本当に欲しいのは、「自分の好きなことや、自分の特徴を生かした、充実した生き方」なんですよね。
まとめ
だから、未来が開けない場合、「こうでなきゃいけない」という固まった道を手放して、少し遠回りの道に入ってみましょうと。
それは、一時的に引き返すことを意味するかもしれませんし、今までの努力を無駄にするように感じるかもしれません。
でも、漠然とした方向さえ合っていれば、すぐに「今までの経験が使える」と分かります。
今までの経験が無駄になることはありませんし、どんどん積み重ねることができます。
すると、自分なりの未来が開けてゆくわけですね。
そういう生き方も、いいように思います。
ということで、今日は「道は無限にある」、というお話をしてみました。
今日はここまで~。