今日も精神的なお話です。

「思考停止だ」という言葉から、「思考する」とはどういうことかを考えてみる、というお話です。

 

昨日の記事で「こういう考え方は、私にはないな」というものを紹介しましたが、今日もそういう内容です。

 

「思考停止」という言葉の意味

とあるツイートで、「この人たちは思考停止している。残念な人たちだ」と批難する人がいたんですよ。

こういうメッセージって、たまに見かけるんじゃないかと思います。

 

で、それに触れて、「そういえば私は、『思考停止』という言葉は全く使わないし、自分にはない概念だな」と感じたわけです。

こういう場合で使われる「思考停止」っていうのは、おそらく他者を変えたいがために用いられる言葉だと思います。

「もっと効率化できるのに、お前はしていない。だから考え方を変えろ」という風に責めることで、相手の行動を変えたいのかなと。

 

私は周囲を変えようとするよりも、まずは自分を変えるタイプなので、あんまり周囲に「こうしろ、ああしろ」とは押しつけないタイプなんですよ。

いやまぁ、このブログでも言いたい放題言ってはいますが、押しつけるつもりはないんですよ(笑

たまに熱が入ると押しつけ形式になっちゃってるかもしれませんが、まぁそれはご容赦ください(笑

 

「思考停止だ」に潜む自己矛盾

ただ、そういう「まずは自分を変えるタイプ」から見ると、「思考停止だ」という言葉はとても自己矛盾に満ちているように感じます。

というのも、自分が思考できる余地は山ほどあるわけです。

例えば目的が他者を変えたい場合、「思考停止だ」と突き放すよりも、「こうすればあなたのメリットになりますよ。すると、こういういい状態になれますよ」みたいに、相手のメリットを主張するのも一つの方法ですよね。

もしくは、「こうしなければ、あなたはこんなにひどいことになりますよ」と、ホラー話のように恐怖をあおることもできて。

他にも、「変わらない人をこれ以上変えようとするのは、無駄かもしれない」、「別の立場の人からアプローチしてもらえば、変わってくれるかもしれない」と検討できれば、自分の行動を変えることができて。

 

すると、とりうる手段なんて山ほどあるし、「思考停止だ」と突き放して放置するのは最善策ではないと分かります。

それは、もっと考えれば他にいい手段はいくらでもあるので、どんどん次の手を打てばいいからですね。

 

すなわち、「思考停止だ」と批難している人自身が、思考停止していると。

「思考停止だ」という言葉には、そういう自己矛盾が含まれているように感じます。

 

「思考」とは「新たな可能性を見つけること」

私の中では、「思考」とは「新たな可能性を見つけること」だと定義しています。

言い換えると、「自分の持つ常識を疑うことが、思考することだ」と。

 

なら、思考をすればするほど新たな可能性が見えて、自分の願いを実現できたり、豊かさを増やせるんですよね。

すると、考えることとか、常識から出ることが楽しくなって、喜びと共に新たな未来を得られるように感じます。

 

責任はその人に背負ってもらうのでよい

なので、思考とは自分に向けられるもので、他者に向けるものではないかな、と思ったりもします。

すなわち、思考は自分の責任でしていいんだと。

その人はその人の価値観で生きているので、可能性を提示しさえすれば、その後の選択は相手の好きなようにさせればいいかなと思います。

それで相手が悲劇的な結末を迎えるとしても、一つの学習かなと。

 

もちろん、私自身が間違っている可能性もあるわけで、その場合の結果も私自身が背負えるものです。

その場合も同様に、「自分の思考が、現実と合っていなかった」と言えますからね。

すると、相手の主体性を尊びつつ、自分の責任で自分の豊かさを増やせるかなと思います。

 

「失敗してもいい」と許せるか

いやまぁ、私は自分を先に変えようとするタイプですが、「相手を先に変えたい!」という人の気持ちも分かるには分かるんですよ。

そりゃまぁ、今の状況が分からずに邪魔になる人で、それで相手自身もデメリットばかりになっている人に対しては、「もっと考えろよ!」とか言いたくなるのは分かりますからね(笑

 

でも、何でもかんでも「失敗してはいけない。痛い目を見てはいけない」と支えるのも、時にはその人のためにはならないように感じます。

失敗してもいいですよ、痛い目を見てもいいですよと。

子供の場合は幼いほど大けがからは守る必要はあるでしょうが、大人の場合はその人に任せてもいいかなと思います。

たとえそれで、その人が一撃死になったとしても、他の人はその姿を見て学べるので、無意味な死ではないかなと。

 

それは私たちでも同じで、失敗し続けて、結果として道半ばで死んだとしても、残せるものはあるように感じます。

そして残したものを拾って、役立ててくれる後続の人がいてくれれば、それでいいように感じたりもします。

 

まとめ

そういう風に考えると、私があんまり「思考停止だ」という言葉を使わないのが分かるかなと思います。

自分が豊かに生きたい場合でも、手段は多くありますからね。

 

自分の持つ常識を疑って、今までの自分を乗り越えることで、新たな未来が開けることもあるように感じます。

そういう生き方も、いいんじゃないかなと思ったりもします。

 

ということで今日は、「思考停止だ」という言葉から、「思考する」とはどういうことかを考えてみる、というお話でした。

今日はここまで~。

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