今日も精神的なお話です。
なぜ「努力を押しつける人」が生まれるのか、ということでお話ししてみましょう。
努力をしたのに、努力を押しつける人
とあるところで、こういう人がいたんですよ。
その人は貧しい家庭に生まれたんですが、あるとき「東大に入れば、収入は2倍差がつく」という統計を知ります。
そこからその人は、「人生で勝ち組になるには東大に入らなきゃ」と思って、朝から晩までバイトをして、勉強もして、見事に東大に入ったと。
これだけ聞けば「おお、すてきやん。努力家だね!」とか思うんですが、実は続きがあるわけです。
その人は、その後「努力していない人」を見ると、とても攻撃的になりました。
弱音を吐いている人を見ると、「俺はあんなに貧しい状態から、東大に入ったんだ。甘えるな!」と、声を大にして言うわけですね。
実際にその人はひどい生い立ちなので、「極貧状態から、努力で東大に入った」なんて例は、ほとんどありません。
だから、誰も反論できないわけです。
そしてその人は、「自分が正しい」と思い込んで、より攻撃的になってゆくサイクルにはまっていくんですが。
「努力を押しつける人」は重苦しい
でも、私たちからすると、こういう「努力を押しつける人」って、結構嫌でしょ。
特に、上司とか親にはしたくはありませんよね。
「俺は営業で1日に1000件電話をかけて断られたんだから、お前もできるはずだ! できない奴は、甘えている!」
「俺はグラウンド1000周、ウサギ跳び1000メートルを毎日課して、それで甲子園に行ったんだ。だからお前もやれ!」
そんな強要をしやすくなるわけで。
じゃあなぜそんな風に、努力をしたのに、自分自身が努力の苦しさを一番知っているのに、他の人にも努力を押しつけるようになってしまったのか。
ということで今日は、そういう「なぜ努力を押しつける人が生まれるのか」というお話をしてみましょう。
人に選ばされて従うと、攻撃的になる
努力家は素晴らしいんですが、時に「努力を押しつける人」とか、「努力をしない人を攻撃する努力家」がいるものです。
じゃあなぜそんな風に攻撃してしまうのかというと、「自分が望んでやったことではないから」なんですよね。
言い換えると、好きでやったことではないから、ということです。
そもそも自分軸を持つ人が、「自分が望む道を生きよう」とする場合、競争や社会的評価からは外れることが多いものです。
それは、好奇心とか、「こういうのをやってみたいな」という思いから出発するからですね。
共感性が高い人は、「こういう人を助けたいな」という思いで出発することもあるでしょう。
だけど、例えば上記の人は、「東大に入れば、収入は2倍差がつく」という統計を前に、「東大に入ることを、選ばされた」わけです。
「競争に負けないこと。敗者にならないこと」を重視してしまったことで、自分の興味や関心が見えなくなってしまったと。
ある意味、「敗者になりたくない」という恐怖によって、突き動かされてしまったわけです。
「自分の人生を生きていない」という状態
それはおそらく、「幼い頃から、貧しい環境だった」という事実が、その人の中でコンプレックスになっていたんだろうと思います。
で、「見下されてはならない。いつか見下したい」という衝動に支配されてしまったのかもしれません。
なので、その人は「自分の人生を生きていない」と言えます。
自由ではないんですよね。
以前「『自由』と『幸福の追求』は、表裏一体のものだ」と触れましたが、まさに「自分なりの幸福の追求が、できていない」と言えます。
「親に言われたから、東大に入った」、「社会が見下すから、東大に入った」と同じレベルです。
自分で選んでいるように見えて、そこには全然「自分」がないと。
実は、周囲に選ばされていただけ、ということです。
だから相手を許せなくなる
で、「自分は嫌なことを頑張って実現したのに、他の人は頑張らずに実現しようとしている」と分かると、相手を許せなくなるんですよね。
それは、「頑張らないのに実現されたら、不公平だ」と感じるからでしょう。
実際に、自分が苦労して手に入れたのに、他の人が「私、これ欲しいんだけどー」と言っただけで、周囲がお膳立てして実現させると、腹が立つでしょ(笑
そういう不公平さがあると、やはり怒りを持つわけです。
ある意味、「頑張らないと成功できない」状態でないと、今までの努力が無に帰してしまうわけです。
「実は、頑張らなくても成功できてた」って知ったら、もう大ショックでしょ(笑
それは、自分の半生が否定されてしまうことになるからで。
だから、必死で「甘えるな!」と頑張らない人を攻撃するわけです。
そして、そういう「コンプレックスを持ち、努力で成功した人」が地位や権力を持つと、周囲にも努力を押しつけてしまうと。
世の中は不公平な世界である
でも実は、世の中はそういう不公平な世界なんですよね。
「個性」がある時点で不公平なわけですし、「個性を生かす場」ほど不公平さが増えます。
だけど、「個性に優劣はない」ということが分かると、「個性を生かせばいい」と分かります。
この「個性に優劣はない」という部分に気づけるかどうかかな、と思います。
特に、「新境地を開拓すること」なんて、努力ではなくて工夫が威力を発揮します。
努力なんてしなくても、頑張らなくても、嫌なことをしなくても、工夫次第で新境地開拓はできるし、豊かになれると。
そして「個性を使う」というのも、立派な工夫です。
なぜ「大卒ほど給料が高くなる」統計は無意味なのか
実のところ、「大卒ほど給料が高くなる」なんて統計は、ほとんど意味を持たないように思います。
だって、新境地を開拓するような起業家には、中卒とか高卒、大学中退も普通にいますからね(笑
そういう「大卒の給料が~」的な統計は、「サラリーマンなら」という前提がより強くあるので、独立志向の人にとってはだいぶ変わるように思います。
むしろ、お金持ちや豊かさ持ちになる人ほど、「ビジネスを立ち上げられれば、大学や単位には意味ない」と理解できる、そういう合理性を持つ人が多いように思います。
実際に大学時代にビジネスを立ち上げて軌道に乗ると、「あ、大学なんて意味ないわ」と感じて、さっさとやめるぐらいですからね。
それとか、大卒で独立した人とかは、逆に「大卒コンプレックス」みたいなものを持ちやすいものです。
それは、独立したら、「わざわざ大学を卒業した意味がなかった」と、合理的に判断できるからですね。
まとめ
なので、そういうのが分かると、自分や他人のコンプレックスについて、手放せるかもしれません。
「見返すこととか、恐怖や欲望」で動くのではなくて、「自分の内側にある好奇心とか、探究心」を重視すると。
で、自分の望むことをしている人の場合、押しつけることはしなくなります。
それは、「自分なりに、自分の幸せを追求すればいいよ。マイペースでいいよ」と許せるからですね。
そういうのが、「自分軸」かなと思ったりもします。
そういう風にできると、より心地よく生きられるかもしれません。
ということで今日は、なぜ「努力を押しつける人」が生まれるのか、ということでお話ししてみました。
今日はここまで~。