昨日に引き続き、今日も精神的なお話です。
なぜ「自分を見下した人」を見返す必要がないのか、というお話をしてみましょう。
見下されると、見返したくなる
昨日の記事で、「苦しんで努力をしたにもかかわらず、人に努力を押しつけるようになってしまった人」を紹介しましたよね。
貧しい家に生まれた人が、「東大に入れば、収入は2倍差がつく」という統計を知って、働いて勉強して、ついに東大に合格します。
だけど、その人は努力していない人を見ると、「甘えるな!」と攻撃するようになりました。
それは、「自分で望んでやったことではないから」だと。
「東大に入れば、収入は2倍差がつく」という統計によって、「社会の負け組になりたくない」と、恐怖に突き動かされてしまったからだと言えるでしょう。
その根底には、おそらく「貧しいことを、見下された」という過去があるように思います。
それがコンプレックスになっているから、「見返してやろう」として、努力して高収入を得ようとしたと。
自分軸で生きたい場合、「見返す」は無意味
もし社会で奪い合いをしたい場合、「見下された人を、見返す」というのもいいでしょう。
奪い合いの世界での「見下す相手」とは、ある意味「自分から豊かさを奪おうとする敵」ですからね。
そういう相手は、一度徹底的にたたいて、社会から排除すると、自分がより安泰になります。
だから、奪い合いや競争をしたい場合、じゃんじゃん見返せばいいかと思います。
ただ、自分軸で生きたい場合とか、新境地を開拓したい場合、そういう「見下された人を、見返す」ということは無意味になります。
ということで今日は、そういう「なぜ見下した人を、見返す必要がないのか」というお話をしてみましょう。
どのみち別世界の人になる
これは簡単で、自分軸を持つ人の場合、「自分が幸せになろうとすると、どのみち『見下した人』とは別世界に生きることになるから」ですね。
だから、争うこと自体が無意味になります。
例えば私たちが、「小説とか、物語を作るのが好きだな。いろんな物語を作りたいな」という好奇心を持っていたとしましょうか。
その場合、「お前は学校の徒競走で、ビリだ」なんて嘲笑する人を、見返す必要などないと分かります。
それは当然で、小説や物語を作って楽しく生きられるようになれば、「徒競走でビリだ」なんてことは、どうでもよくなりますからね。
冒頭で触れた「貧しい家に生まれた子」も、きっと幼い頃に、「お前は貧乏だ。貧乏人!」と笑われたかもしれません。
でも、例えばその人が医者になって、「難病の人を助けよう」と願いを持ったとしましょう。
すると、「自分が貧乏かどうか」なんて関係なくなります。
だって、「目の前で苦しんでいる人を、なんとか助けたい」、「もし治療法を確立できれば、多くの同じ難病の人を救える」と分かるし、その部分に集中できるからですね。
「見当違いなことで見下す人」と張り合うのは、時間の無駄
なら、そういう「見当違いなことで見下す人」と張り合っているだけ、時間の無駄でしょ。
重要なのは、「小説を書くこと」や「難病の人に向き合い、治療法を模索していくこと」なんですから。
頑張って相手を見下したとしても、ただ「小説や治療法にかける、貴重な時間」を失うだけです。
言い換えると、「貴重な自分の時間を、一分一秒たりとも、そんな『結局別世界になる人』に費やさない」ということです。
まぁ「一分一秒たりとも」は言い過ぎでしょうが、「どのみち別世界の人になる」という前提で、最低限付き合うのでいいかと思います。
どう対応すればいいか
で、見下されたとしても、こう言うなり、思うなりすればいいかと思います。
「私は夢を持っている。君は夢を持っていないから、見下すんだ。そして私は、夢や願いに向けて動いている。だからその分野で貧しかったり、ビリでも、私には関係ないね」
「君には私の夢は教えないよ。夢を持たない君は、きっと嫉妬するからね。君はその生き方で生きればいい。私は私の意思で動く」
たとえ、もし今は個別の夢を見つけられていなくても、「それを見つけるのが今の私の目指すものだ」とすればいいでしょう。
そういう強さが、「徒競走でビリ!」とか、「貧乏人!」みたいな、「奪い合いの世界の嘲笑」を乗り越えるように思います。
まとめ
なので、「見返したとしても、結局は別世界の人になる人だ」と思えば、わざわざ反論する気も失せるかと思います。
そんなことに自分の貴重な人生を費やすなんて、アホらしいでしょ。
自分が幸せでいる世界には、その人はいないんですから。
なので「他者を引きずり落とすのではなくて、自分が動いて、ゴールにたどり着こう」とするのもいいでしょう。
すると、「ゴールには、その人はいない。ついて来られないからね」と分かって、自分なりのゴールへ進むことに集中できるかと思います。
ということで今日は、なぜ「自分を見下した人」を見返す必要がないのか、というお話でした。
今日はここまで~。