今日は、生き方のお話です。
生き方では正しさなんてなくて、あるのは価値観の違いだけ、というお話をしてみましょう。
「正解」って、何だろう?
世の中を見ていると、多くの議論とか論戦、争いがあるじゃないですか。
例えば国会とか政治の世界では、「あなたは間違っている!」とか、「これが正しい!」、「こうしなければ、日本はダメになる!」とかよく言われていますよね。
他にも、いろんな「こうするのが正しい」っていう意見や指摘があるものです。
コロナウイルスの時でも、今のロシア問題にしても、もちろん私たちの日常生活でも、「こうするのが正しい」と言われていて。
で、私はずっと、「何が正解なんだろう?」って思っていたんですよ。
そりゃ私も、失敗とか間違いは選びたくないですからね(笑
できることなら最短距離でお金持ちになって、豊かになって、幸せに生活したいわけです。
だから、「正解」を求めて学んで、考えたり、仮説検証をして行動をしていたりしたんですが。
ただ、最近ようやく分かってきたのが、「生き方では正しさなんてなくて、あるのは価値観の違いだけ」ということですね。
これが分かると、正解にこだわらなくなって、より自由に生きられるように思います。
世の中にある「間違ったように見える、考えや理論」
世の中には、いろんな考えがあるじゃないですか。
中には、見ていて「完全におかしいし、絶対に破綻する」というような考えや理論もあるものです。
例えば金融業界では、「S&P500を買い続ければお金持ちになれる」とか、「ビットコインを買えばお金持ちになれる」、MMT(現代貨幣理論)とか、まぁいろいろとイカれたものもあったりするものです。
でも、それらは「正しいかどうか」というよりも、「短期重視か長期重視か」というだけだったんですよね。
短期重視か長期重視か、という違いでしかない
例えば「S&P500を買い続ければお金持ちになれる!」と言っている人たちは、短期を見ているからそう言っていると。
実際にS&P500でもビットコインでもMMTでも、確かに今まではうまくいっていたんですから。
つまり、短期や「今まで」という区切りでは正しいけど、長期では間違いうる可能性が高くなると。
一方で私は長期を見ているから、「そんなのいつか必ず破綻する」と分かるわけです。
ただ、その「いつか」がいつ来るかなんて、正確には言えないと分かります。
つまり、短期や「今まで」では間違っているけど、長期では正しくなりやすいと。
なら、結局のところ、「正しいかどうか」ではなく、「短期重視か長期重視か」としか言えないように思います。
どちらを重視するのかなんて、その人次第ですからね。
政治の世界でも同じ
これは政治の世界でも同じです。
実際に政治の世界でも、与党と野党が言い争っているじゃないですか。
あれも、「短期重視か長期重視か」とか、「こういう社会層を重視、こういう社会層を軽視」という、価値観の違いでしかないと分かります。
例えば金融政策でも、「政府の負債を増やすこと」なんて、一見ではよくないように見えますよね。
でも、それは「短期を重視、長期を犠牲」という、一つの価値観でしかないと分かります。
つまり、これも「正しいかどうか」ではなく、「短期重視か長期重視か」という価値観の違いでしかないと。
片方の社会層を優遇すると、もう片方が見捨てられる
同じように、「どの社会層を重視するのか」という区切りもあるでしょう。
これは、「片方の社会層を優遇すると、もう片方が見捨てられる」とも言えます。
例えば片方の党が、「労働者層を守らなければ、立ちゆかなくなる」と言っているかもしれません。
でも、もう片方の党は「経営者や資本家を重視すれば、それだけよくなる」という論理で動いています。
なら、これも「正しいかどうか」ではなく、「労働者層と経営者や資本家層、どちらの社会層を重視するのか」という、価値観の違いでしかないと分かります。
違うメリットがあることもある
さらに他の区切りで言うと、「一つの軸ではよくても、別の軸では劣っている」という見方もあるでしょう。
例えば「若年層が選挙に行かないから、若者が損をしている。高齢者層ばかりが恩恵を受けている」とか言われるものです。
でも、若年層は「政治に頼らなくても、自力で未来の可能性を作りうる」というメリットがあると分かれば、「政治よりも自力を重視している」と分かります。
一方で高齢者層は、「未来を自力では作れないので、政治に頼らざるを得ない」状態だと分かれば、「自力よりも政治に頼ることを重視している」と分かります。
なら、これも同じで、「自力と政治、どちらを優先すればいいのか」なんて、価値観次第だと分かります。
「正しさ」なんてない
すると、「どちらが正しい」なんて言えませんよね。
だって、どちらも私たちを構成する一要素なんですから。
短期も長期も、若年層も高齢者層も、労働者層も経営者層も、自力も他力も、私たち個人や社会を構成する重要な要素です。
つまり、みんな「自分を含めて、自分たちをよくしてゆきたい」という思いを持っているわけです。
その方法論や手段、重視する時間軸や社会層が違うだけで、目的は同じなんだと。
私はこれが分かってから、「正しさ」を手放せるようになったように思います。
同時に、「争いはさせておけばいい」と、周囲へのコントロールをも手放せるようになったように思います。
「大きな主語」が「正しさ」という幻想を作る
じゃあなぜ私たちが「正しさ」を求めてしまったのかというと、そこには「大きな主語」という嘘が原因にあるように思います。
例えば政治の世界でも、「こうしなければ、日本はダメになる!」とか言うじゃないですか。
でも実際は、上記のように「こうしなければ、この社会層はダメになる」というのがより正確なんですよね。
本当は「こういう社会層」という一部の人たちを、あたかも「日本」という全体がそうであるかのように、偽って語っていると。
そしてこの嘘を真実だと思い込んでしまうと、「日本全体がよくなる方法がある」という錯覚に陥ってしまうように思います。
それが、「正しさ」という幻想を作っているように感じます。
現実は「片方を優遇すれば、片方は相対的に見捨てられる」
一方で私の中での現実は、「片方を優遇すれば、片方は相対的に見捨てられる」というものです。
つまり、「長期と短期、重視する分野と手放す分野、そういうものをどう配分するのか」という戦略の違いでしかないと。
なら、それはただ単純に、「自分なりのスタイルで生きたい」というだけの話ですよね。
正しさなんて関係なくて、価値観の違いでしかない、ということです。
まとめ
これが分かると、「みんな、よくなりたかったんだ。ただ、生き方や戦略の違いがあるだけだったんだ」と分かって、無駄な精神的疲弊を手放せそうに思います。
私の中では、「正しさ」なんて関係ないように感じます。
それは、「大きな主語」という嘘が作る、幻想かなと。
「こうしなければ、人はダメになる!」と言っていても、実際は「こういう種の人たちは、こうしなければダメになる」です。
「こうしなければ、日本はダメになる!」と言っていても、実際は「こういう社会層は、こうしなければダメになる」です。
必ず、その反対側にはメリットがあるし、その「反対側」も私たちを構成する重要な一部分だということです。
これが分かれば、「自分は自分なりのスタイルで生きればいい。コントロールできない部分は、自分なりに対応すればいい」と分かるかなと思います。
すると、より周囲へのコントロールを手放せて、自由に生きられそうにも思います。
ということで今日は、生き方では正しさなんてなくて、あるのは価値観の違いだけ、というお話でした。
今日はここまで~。