今日も精神的なお話です。
「いい思い出を手放せると、哀しい思い出も手放せるようになる」というお話です。
過去の自分をどう受け入れて、手放すか
昨日の記事で、ものを手放すことについて触れたんですが、もう少し語れることがあるので語ってみましょう。
苦しい過去って、人によってはあると思うんですよ。
例えば毒となる親の元で生まれ育ってしまったとか、崩壊した家庭で育ったりだとか。
それとか、過去に嘲笑されたこととか、みじめさを味わったこととか、いろいろあるかもしれません。
そういう場合、「いい思い出を手放せると、哀しい思い出も手放せるようになる」というのも、一つの考え方かなと思います。
なので、いろいろものや関係を手放せるほど、過去の自分を受け入れて、「今日からはこれをしよう」と未来に目を向けやすくなるように感じます。
「苦しい思い出だけを手放す」は難しそう
普通は、「いい思い出だけを残したい。苦しい思い出は手放したい」ですよね。
もしくは、「苦しい思い出のとらえ方を変えて、すべていい思い出にしたい」というのもあるでしょうが、これも「いい思い出だけにしたい」と同じです。
でも、そういう「いい思い出だけを残して、苦しい思い出だけを手放す」というのは、なかなか難しいように感じます。
というのも、どちらも「今までの自分を作り上げてきたもの」なんですから。
ある意味、「思い出を手放す」ということは、「自分の一部を手放す」とも言えます。
「私はこういう人間である。こういうことを大切にする人間である」という価値観を手放して、「自分の価値観を、少しなくす」という感覚です。
だから、「過去を手放す」というのは、言うなれば「自分の価値観を一部切り離す」とも言えるし、「自分の一部を殺す」とも言えるでしょう。
言葉は悪いですが、「部分的な自殺」と同じです。
もちろん、健康的な思考を持つ人にとっては、こういう「部分的な自殺」は意味がないので、する必要はありません。
ですが、不健康でゆがんだ思考を持つ場合、すなわち「今まで押しつけられた、自分の性質には合わない自分像」を持つ場合、これが効果的になりそうに思います。
ソフトウェア的な「自分」、ハードウェアの「自分」
私の中では、「『自分』とは、価値観の集合体である」と定義しています。
すなわち「こうするのが、私らしい。こうするのは、私らしくない」という価値観が集まったものが、「自分」だと。
でも、私たちが思っている思考が、身体に合わない場合もあるんですよ。
すなわち、ソフトウェア的な「自分」が、ハードウェアの「自分」に合わない場合があるわけです。
特に、自分の性質に合わない行動を幼い頃から押しつけられて、「私はこうしなければならない」と思い込んでいる場合、それが苦しみになりやすいかと思います。
例えば「親を救わなければならない。それさえもできなければ、私は生きる価値がない」という「自分」があったとしましょう。
自由な思考を持つ人からすると、「そんなことないよ。親は立派な大人だし、自分の世話ぐらい自分でさせればいい。親の幸せまで、子が面倒を見る必要はない。子は好きに生きればいい」って分かりますよね。
だけど、幼い頃から「お前(子)がいることで、私(親)はこんなに苦しんでいる」と言われて、親が被害者のように振る舞っていたとしましょう。
すると、優しい子ほど「自分は加害者だ。親を苦しませた分、親を幸せにしなければならない。それができなければ、私は罪人だし、永遠に許されない。生きる価値はない」みたいに思い込んでしまうわけです。
「かみ合わないソフトウェア」を調整する発想
そういう場合、「そういう自分」で生きても、苦しいばかりですよね。
だって、どんなに尽くしても親はいつまでも満足しないし、自分はそんな「どんなに尽くしても、満足しない親」や「満足させられない、無力な自分」に対して怒りや罪悪感を持ってしまいます。
そして、そんな感情をどうにかしたくて「怒りを抑えられるようにならなきゃ」とか、「無私無欲の人にならなきゃ」とか、「自己肯定感を上げなきゃ」とか思うようになってしまうと。
でも、そういう「こうしなきゃ」という思考で頑張っても報われないし、そもそもそういう方向性に頑張れるような、肉体的な素質がないわけです。
すなわち、ソフトウェア的な「自分」が、ハードウェアの「自分」に合わないから、かみ合わなくて苦しんでしまうと。
その場合、一度ソフトウェア的な「自分」をクリアにできると、調整ができそうだと分かります。
すなわち、一度「親を救わなければならない。それさえもできなければ、私は生きる価値がない」という「ソフトウェア的な自分」を手放してみて、別のソフトを走らせてみると。
すると、「親は十分な大人だし、自分の世話ぐらい自分でさせればいい」、「なら、嫌な親とは離れてみよう」というソフトウェアを試せるようになります。
「ハードウェアの自分」が一気に楽になることがある
そして実際にそれをやってみると、ハードウェアの自分が一気に楽になることがあるんですよ。
ストレスもなくなるし、食欲も出てくるし、朝も元気に起きられるし、ちょっとした散歩や運動もしたくなったりして、なんかやたらエネルギーが出るわけです。
それは当然で、ハードウェアの負担になるソフトウェアを変えることで、ソフトがハードによりなじんで、生かせるようにできたからですね。
この「ソフトウェアを変えれば、ハードが一気に楽になる」という実感が分かると、苦しんでいる人ほど救われるんですよ。
だって、それだけ自由になれるんですから。
今までの「こうしなきゃ」という「自分」を手放すことで、ある意味洗脳から解かれるわけです。
「なんだ、無理に親と一緒にいなくてよかったんだ」とできた瞬間、今までの「こうしなきゃ」という洗脳が消えると。
「今までの自分を作り上げてきたものを手放す」という方法論
そのための一つの方法論として、「ものや関係を手放す」ということがありますよ、ということです。
その場合、哀しい思い出ばかりを手放そうとするのではなく、いい思い出も手放すわけです。
だって、それらはどちらも、「今までの自分を作り上げてきたもの」なんですから。
そういう「今までの自分を作り上げてきたもの」を手放すことで、ソフトウェアがクリアになります。
だから、ものや関係を手放すほど、過去の苦しみを手放しやすくなって、自分に合う生き方を模索できるようになると。
なので、いい思い出を手放すのがさみしいのと同じように、哀しい思い出を手放すのも、実はさみしくなるわけです。
それは、「そういう苦しい経験をしてきた自分も、自分だから」ですね。
実際、今までそういう環境で生き抜いてきた自分を、褒めてあげたくなったり、認めてあげたいものですよね。
「それが無駄だった。そんな風に頑張ったお前なんかもう必要ない。死んでしまえ」なんて言うのは、切ないし、哀しいし、さみしいと。
そういう「認められなかった自分」ほど、認めてあげたいものです。
だから、そういう自分にしがみついてしまうんですが。
「手放すことで、認めてあげる」という道
でもそうではなくて、「手放すことで、認めてあげる」こともできるわけです。
実際に、「いい思い出だったものだけど、もはや不要になったもの」を捨てることを実行してみるといいでしょう。
その場合、「今までありがとう」とぎゅっとそれを抱きしめて、処分しますよね。
そうやって「ありがとう」と手放すことを許せた瞬間、「いい思い出の存在意義と、これからの消滅」を許せるわけです。
同じように、哀しい思い出とか、苦しい思い込みも、「今までありがとう」とすることで、「哀しい思い出の存在意義と、これからの消滅」を受け入れられます。
もちろん、それはとてもさみしいし、未練も残るものです。
「もっとうまくできたのではないか。今からでも、何かできるのではないか。取っておけば、少しでも未来に役立てられるんじゃないか」
「ひょっとすると、未来にわかり合えて、最高のハッピーエンドになれるんじゃないか」
「自分がもっと頑張れば、認めてくれるんじゃないか。愛してくれるんじゃないか。相手も変わってくれるんじゃないか」
そんな風に、未練が出るものです。
手放すことに慣れると、「小さな可能性」を手放せる
それは当然で、「未練」とは「わずかな可能性」ですからね。
小さな可能性があるからこそ、ためらってしまうわけです。
でも、手放すことに慣れてゆくほど、そんな「ごくわずかな可能性」にしがみつく必要はないと分かります。
だって、ものをどんどん手放してゆくと、ハードウェアがどんどん楽になるんですから。
すると、体感で「このソフトウェアは、きっともう、未来には役に立つことはない」と分かるんですよね。
そうすることで、「今までありがとう」と感謝して、過去の苦しみを認めた上で、手放すことができるわけです。
すなわち、「別れを決めるから、許し、受け入れられることもある」と。
ずっと一緒に居続けることが、相手を受け入れる唯一の方法ではありませんよ、ということです。
まとめ
なので、苦しくなったら、ものを手放すのもいいでしょう。
その場合、「いい思い出だけ残そう」とするのではなく、「いい思い出も、哀しい思い出も、どっちも手放そう」としてみるのもいいでしょう。
すると、「今までありがとう」と「自分のハードウェアに合わない自分」を許せた上で、別れることができるかもしれません。
そういう発想でも、本来の自分を取り戻すこともできるかな、と思ったりもします。
ということで今日は、「いい思い出を手放せると、哀しい思い出も手放せるようになる」というお話でした。
今日はここまで~。