今日は、精神的なお話をしてみましょう。
第一志望は譲っていいですよ、というお話です。
「第一志望は譲れない」という中吊り広告
少し前に電車に乗ったとき、電車に予備校の中吊り広告があったんですよ。
で、その広告には、ブレザーを着た女子高生風のモデルさんがいて、クロッキー帳を見せているわけです。
そのクロッキー帳にはなんて書いてあるのかというと……
「第一志望は譲れない」
なんですよ。
もうね、私は思わず吹き出してました(笑
「そういや私も、高校時代は第一志望の大学に目指していたなぁ」みたいな。
で、私は運良く第一志望の大学に入れたんですが、今思えば「何のために、あんなに勉強していたんだろう?」とか思うんですよね。
「そんな必要なかったな。もっとゆっくり、楽しく高校生活を生きるのでもよかったな」とか、少しだけ思ったり。
まあ、私は元々意味や未来を考えるタイプの人だったので、当時の私は私なりに、「なぜ大学に行くのか」とか「なぜ勉強するのか」という答えを自分なりに持っていました。
そういう意味や理由があったからこそ、勉強に集中できたんですよ。
それで、高校入学直後は下位1/3の落ちこぼれだったのが、卒業時には高校トップになって、一流国立大学に入れたんですが。
今思えば、第一志望なんて、いくらでも譲ってよかったように思います。
そもそも、入ってもいないのに「第一志望は譲れない」なんて、幻想でしかないですよね。
人生はどこからでもやり直しはできますし、軌道修正もできます。
「少しでもいいところを確保しなきゃ」というのは、欠乏意識の表れですね。
運で豊かさを得る、「お先にどうぞ」的な生き方
運がいい生き方というのは、「お先にどうぞ」と譲ってあげるような生き方のように思います。
自分の能力なりに生きて、自分よりもそれを欲している他の人がいたら、「お先にどうぞ」と譲ってあげる。
それで第一志望の席がすべて埋まってしまったのであれば、「仕方ないな」と苦笑いをして、「背伸びをせずとも、今の自分で受け入れてくれる場所」を探すと。
で、実はそういう「背伸びをせずとも生きられる場所」ほど、周囲の人から「ありのままの自分」を求められて、活躍できて、居心地のいい場所だったりするんですよね。
だって、周囲にいる人たちは、「自分よりも、能力やお金、いい境遇を持たない人たち」ばかりなんですから。
すると、そういう「自分よりも持たない人たち」に囲まれていると、自然と「自分は恵まれているな、幸せだな」と感じられます。
そして、自分が持っている豊かさを、自然と分かち合うことができるようになります。
自分は何も頑張っていない。
ただ、ありのままで、与えられた能力を発揮して、楽しく生きているだけ。
なのに周囲は大感激して、「いてくれてありがとう」と感謝して、私にあふれるほどの豊かさを押しつけるように与えてくれる……そんなイメージです。
これは、競争の世界にいる人は信じられないんですよね。
私自身、競争をしている時には、「そんな風に譲ったり、少しでも気を抜いたりすると、すぐに落ちて生きていけなくなる」と思ってました。
でも実際のところは、頑張るのをやめて、「お先にどうぞ」と譲れば譲るほど、私にとっての心地よくて幸せに過ごせる場所に流れ着けたように思います。
最高の場所には、「自力でたどり着く」とか「達成する」という世界ではなくて、「流れ着く」、「吸い寄せられる」、「押し出される」、「はみ出す」みたいにたどり着く感じです。
まとめ
そんな風に、最近ようやくそういう「お先にどうぞ」的な生き方が分かってきました。
大学受験でも同じで、「お先にどうぞ」と譲ってあげて、第一志望に入れなければ、第二志望でも第三志望でも、入れてくれたところが素晴らしいんですよね。
そこで活躍すればいいし、そういう場所の方が、ありのままで活躍できるんですよ。
ただ、「じゃあ、高校時代に勉強しまくったことを後悔しているか?」と問われると、答えは「ノー」ですね。
今思えば、そういう打ち込めるものを持っていたということは、とても充実していたことだと思います。
それはそれで楽しかったですしね。
競争をせずとも、「お先にどうぞ」と譲ってあげることで、お気楽で、しかも十分すぎるほどの豊かさを得られる……という道もあるんですよね。
だから、第一志望に受からなかったとしても、全く問題ないんですよ。
むしろ、そういう道の方が、豊かさにつながりやすいんじゃないかと思います。
今の私は、そういう生き方で楽しんでいるところです。
そんな感じで、今日は第一志望は譲っていいですよ、というお話をしてみました。
今日はここまで~。