今日は精神的なお話です。
1000の「どうでもいい幸せ」を得るよりも、1つの「自分に合う幸せ」を選ぶのもいいですよね、というお話です。
「日々の幸せを見つけましょう」という教え
世の中のツイートを見ていると、「日々の幸せを見つけましょう」とか、「目の前の幸せに感謝しましょう」とかありますよね。
他にも、例えば仕事がとにかく苦しかったとしても、「仕事ができるだけありがたいことだ、感謝しろ」、「食べていけるだけ幸せだ、世の中には食べられない人も大勢いるんだ」と人々は言うかもしれません。
それとか、嫌な人々に囲まれていて苦しんでいたとして、それでも「毎日生きられるだけ幸せだ、感謝しろ」、「その生きられる1日は、生きたくても生きられなかった人が切に欲した1日だ。生きなきゃいけない」とか言うかもしれません。
私は「好きなことをして生きたい」という人なので、そういうのを聞くと、ついいろいろ言いたくなっちゃうわけです。
「ならお前は生きられさえすれば、奴隷でいいのか」
「なら奴隷として使ってやるから、うちに来い。そして私に感謝しろ。それすらできない人がいるんだから、お前はきっと感謝できるだろう?」みたいな(笑
これが分かると、「日々の幸せを見つけましょう」みたいな言葉が、どれだけ本質を外しているのかが分かるかと思います。
それは、幸せの本質ではない、ということですね。
簡単に言うと、「そんなのどうでもいい幸せだ」ということです。
今いる環境が自分に合わずに苦しいから、感謝できない
まぁ、短期ではそういうのもいいとは思うんですが。
でも、私の中では、そういう「どうでもいい幸せ」を「それを感じることが、自分にとっての本当の幸せだ」とすると、苦しくなりそうだな、と感じたりもします。
すなわち、1000の「どうでもいい幸せ」を得るよりも、1つの「自分に合う幸せ」を選ぶのが私の好みだ、ということです。
というのも、なぜ日々の幸せとか、目の前の幸せに感謝できないのかというと、根底部分が「今いる環境が、自分に合わずに苦しいから」じゃないかと思います。
環境が自分に合っていれば、エネルギーも出るし、やりたいこともどんどん出てきますからね。
でも、そういうのが出てこない環境、すなわち「合わない環境」だったり「嫌な環境」にいるから、幸せを幸せと感じられない、ということです。
「後悔」と「幸せ」は背反するもの
例えば、「ただ生き残ることよりも、意味あることをして生きたい」という、目的指向な人がいます。
そういう人に、「ただ毎日を無意味に生きて、何も実現せずに人生を終える」というのは、とても苦しいし、後悔することでしょう。
それは、何も実現せずに人生を終えたら、「結局私は、何のために生まれてきたんだろう」と後悔してしまうからで。
この感覚、分かる人には分かると思うんですが、やはりこれは「幸せ」だとは言えないように感じます。
だって、「後悔」と「幸せ」は背反するものだからです。
「幸せの中心点」が周囲とは違うことがある
なら、そういう人に「毎日生きられるだけで幸せだ、感謝しろ」と言っても、無意味だと分かります。
だって、生きている目的が違うんですから。
確かに、多くの「ただ生きればいい人」にとっては、それが幸せで満足だし、苦しくないことでしょう。
でも、「何か意味あることをして死にたい」と感じる人にとっては、それが「幸せを構成する要素」にはならないと。
簡単に言うと、「人が幸せを感じる中心点は、人によって違うこともある」、「他者にとって幸せとなる生き方が、自分には合わないこともある」ということですね。
とても当たり前のことなんですが、この当たり前のことが重要になります。
そして個性が強い人ほど、そういう「幸せの中心点」が周囲とは違うことが多いものです。
「幸せの中心点」を射貫く生き方
すると、「大嫌いな生き方をして、心から嫌な場にいつつ、1000のどうでもいい小さな幸せを集めること」は、本質から見ると無意味だと分かります。
だって、それは「幸せの中心点」から外れているからですね。
「本当は、最愛の人を重病から救いたかった」という思いを持つのに、「何もせずに、日々スマホを眺めながら一生を過ごした」というのと、同じようなものです。
一方で、自分に合う生き方ができていれば、「1000のどうでもいい不満」は許せるんですよ。
それは、「幸せの中心点」を射貫いているからですね。
だいたい、どんな環境でも「100%不満がない」ということはあり得ませんからね。
ただ、自分に合う環境にいることができれば、「確かにいろいろ問題はあるけど、それなりに幸せだよ。こういう生き方で生きて死ねるなら、本望だ」と言えます。
こういう状態の方が、より幸せだと言えるじゃないかな、と思ったりもします。
まとめ
これが分かると、「日々の幸せを見つけましょう」とか、「目の前の幸せに感謝しましょう」というのは、メインにしない方がいいように感じます。
「目の前の幸せを見つけなきゃ」と感じている時点で、幸せの中心点を射貫いていないどころか、大いに外しているように思います。
確かにそれは、目先のごまかしにはなるかもしれません。
でも、それを長期的にしても、おそらく満足は得られないでしょう。
それどころか、むしろ死ぬときに「ごまかしばかりで生きてきた。本当に欲しかったものに、何も手を出さなかった」と後悔しそうに感じます。
裏を返すと、「1つの自分に合う環境を見つけ出せればいい。どうでもいい幸せに、1000の努力をする必要はない」ということです。
私はそういう「些末なことは手放して、本質に全身全霊を尽くして攻略する」というのが好みだな、ということです。
すると些末なことに惑わされずに、核心に着手できるかもしれません。
ということで今日は、1000の「どうでもいい幸せ」を得るよりも、1つの「自分に合う幸せ」を選ぶのもいいですよね、というお話でした。
今日はここまで~。