今日は、精神的なお話です。

「甘えるな」は、「手間をかけさせるな」もしくは「うらやましい」の攻撃的言い換えでしかない、というお話をしてみましょう。

 

「甘えるな」という攻撃的な言葉

Twitterを見ていると、よく「甘えるな」という言葉に対して反論しているツイートがありますよね。

「安易に教えてくれとか、甘えるな」とか、「独立してやっていけると思うな。世の中を甘く見るな」とか。

 

で、この「甘えるな」という言葉はとても攻撃的なので、やはりツイートでも反論していることが多いわけです。

それで、「上司なら教えて当然だろう。甘えているのは上司だ」とか、「挑戦しない方が甘えだ」とか、反論していたりするんですが。

 

私はあまり「甘えるな」という言葉は使わない

私はあまり「甘えるな」という言葉は使わないし、それに対する反論もしないタイプだったりします。

というのも、どちらも「他者を変えようとする言葉」だからですね。

 

簡単に言うと、私にとっては「他者を変えること」よりも、「自分の願いを実現すること」の方が、優先順位は高いわけです。

「他者が変わっても、自分の願いが実現しなきゃ意味がない」と感じると。

 

だから私の場合、相手を変えるよりも、反論する前に勉強したり独立準備をして、独立しちゃうタイプです(笑

私自身はあまり相手を否定しないので、「相手が自分を否定されずに意気揚々としていたら、私はこっそり自分の願いを実現して、成果を出して、相手は虚を突かれる」となりやすくて。

そんな風に、あんまり無駄な争いはしないというか、「願いの実現」に集中するわけです。

 

「甘えるな」という言葉の意味

で、そういうスタイルの私からすると、「甘えるな」という言葉は、「手間をかけさせるな」もしくは「うらやましい」の攻撃的言い換えでしかないと感じたりもします。

これが分かると、「無理に論戦で勝たなくていい」、「自分の正しさを証明しなくていい」と分かって、議論を避けて、欲しいものに集中できるかと思います。

 

まずは、「甘えるな」という言葉は、「手間をかけさせるな」と言いたい場合に代わりに使われることがあります

なぜそう言い換えるのかというと、「手間をかけさせるな」とは言えないからですね。

例えば、本当は「上司である自分がその仕事をしなきゃいけないのに、したくない。楽をしたい」という欲求があったとしましょうか。

でも、「楽をしたい。自分の仕事をしたくない」とか言うと、上司は自分の評価が落ちてしまいます。

だから、「甘えるな」と言って、「自分が動かないのは自分のせいではなく、お前のせいだ」と、自分を正当化していると。

 

冷静に考えると、「甘えるかどうか」に関係なく、誰が作業を担うかは、職分で判断できるものです。

親なら子を育てる義務があるし、上司なら部下に教える必要があると。

なのに、「甘えるな」と精神論や人生論のようなごまかしを入れることで、「他者が悪い」と見せかけていることになります。

このごまかしに気づかないから、無駄な反論をしたくなるように感じます。

 

「うらやましい」の言い換えとしての「甘えるな」

で、もう一つ、「甘えるな」という言葉は、「うらやましい」の言い換えとして使われることもあります

これは分かりますよね。

例えば私たちが「独立しようとしています」とか言うと、相手はだいたい「うらやましい」と感じるものなんですよ。

だって、世の中のほとんどの人は、そういう夢や目標を持たないし、情熱もないんですから。

 

でも、「うらやましい」と素直に言うと、自分が社会的に下であることを認めてしまいます。

だから、「甘えるな。世の中はそんなに簡単じゃない」と、あたかも自分が何千回、何万回も挑戦してきた起業家のように、自分の経験を偽って評価を下していると。

実際のところは、一度も挑戦したことないし、それだけの夢や情熱もないのに、「私は世界のすべてを知っている」と偽っているわけです。

 

これも、「挑戦できてうらやましい」というねたみをすり替えて、「挑戦する他者が悪い」と決めつけていると分かります。

このごまかしに気づかないと、やはり無駄な反論をして時間や精神力を奪われてしまうように感じます。

 

価値観の違う相手を論破しても、無意味

だいたい、嫌な相手とか、価値観の違う相手と論戦して勝っても、無意味ですからね。

特にこのブログを見ている人は、個性が強い人が多いかと思います。

すると、「自分だけが社会の中で、違う価値観を持っている存在」になりやすいわけです。

 

そんな場合、周囲を論破しても、無駄になりがちです。

というのも、多くの場合で、周囲は「社会の中で、歯車になって、我慢をして、何も挑戦せずに生きる」のが尊い、という価値観です。

彼らは、そういう場所でしか生きられないと。

 

そんな中で、私たちだけが「自分を生かして、自分にしかできないことをして、我慢せず、エネルギーを高めて、挑戦して生きる」ことを尊んでいるわけです。

私たちは、そういう場所で生きやすい性質を持ちます。

 

なら、「周囲の価値観が間違っているのか、自分の属する場が間違っているのか」と考えると、やはり「後者っぽいな」と分かるかと思います。

周囲にいる人たちは、間違っていないと。

逆に、変に夢を語ったりして刺激をするから、相手は「夢や目標を持たない自分は劣っている」と錯覚してしまって、嫉妬を作ってしまうわけです。

だから、これが分かると、「反論するだけ無駄だ。彼らは自己正当化をしているだけで、価値観は正しい。だからあまり関わらずに、自分は自分のために動こう」と納得できるかと思います。

 

「甘えない方がいい」という価値観もちょっと変

少し話は変わるんですが、「甘えない方がいい」という価値観も、とても変な考え方だと分かります。

というのも、「甘える」=「その手段をより多く使う」ということですからね。

 

なら、効率のよい手段があれば、それをどんどん使えばいいと分かります。

例えば文章を書く能力とか、しゃべる能力があるなら、その能力をどんどん使えばいいわけです。

すなわち、強みに甘えればいいと。

 

それを「甘えるな」として、自分に恵まれた能力を使わないのは、もったいないですよね。

長所はどんどん使えばいいし、それを武器にすることで、より独自の価値を作れるんですから。

 

言い換えると、「歯車になる」という場合ほど、「甘えること」はよくないと分かります。

だって、目標は「良質な歯車になること」で、他の歯車に負担をかけちゃいけませんからね。

だから、歯車になる人ほど、「出過ぎてはいけない。型にはまらなきゃいけない。他の人に迷惑をかけてはいけない」という常識になるんじゃないかと思います。

 

まとめ

そんな風に考えると、「甘えるな」という言葉に反論する必要はないように感じます。

だいたい、「甘えるな」は、「手間をかけさせるな」もしくは「うらやましい」の攻撃的言い換えでしかありませんからね。

それに、歯車であることを尊ぶ社会の中で、「歯車にならないことが尊い!」と言っても、無意味です。

社会はいろいろあるので、属する場や生き方を変えればいいだけです。

 

すると、「ここはダメだ」、「この相手はダメだ」と分かって、早めに見切りをつけられるかと思います。

で、自分の正しさを証明するのではなく、自分の願いを実現することを優先するわけです。

成果を出せば、周囲は黙るし、説得する必要すらありませんからね。

 

そうやって、「周囲を説得すること」よりも、「自分の願いを実現すること」を優先してゆくのも、一つの道かなと思います。

 

ということで今日は、「甘えるな」は、「手間をかけさせるな」もしくは「うらやましい」の攻撃的言い換えでしかない、というお話をしてみました。

今日はここまで~。

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