なんか私っぽくないタイトルですが、炎上しないようにするための対策です(笑

で、今日は、精神的なお話です。

ひろゆき氏の「いじめる側が100%悪い」を私なりの言葉で言い換えると、どう表現するか、というお話です。

 

ひろゆき氏の「いじめる側が100%悪い」という感性

とあるページで、ひろゆき氏がこう言っていたんですよ。

それが、「いじめは、いじめる側が100%悪い」という内容でした。

なぜかというと、「誰かをいじめよう、いじめたい」という悪意の空気が先にできて、それが「その時、彼らにとって最もいじめやすい相手」に向けられるからですね。

 

これを見て、「確かに、ひろゆき氏らしい感性だな」と感じたんですよね。

というのも、SNSで人をたたいている人たちなんて、まさにそうじゃないですか。

 

彼らは元々、「なんかモヤモヤする。憂さ晴らししたい」という欲求を抱えているわけです。

それは、仕事や学校がしんどかったり、毎日が苦しかったり、いろんなことに不満が高まっているからかもしれません。

で、「この怒りを、感情を発散させたい」という欲求が、すでにあるわけです。

 

いじめる相手なんて誰でもいい

すると、そんなときに、SNSでアホなことをしたり、不祥事をしたり、変なことを言った人が出てくると、彼らはそういう人たちに矛先を向けます。

だって、そういう「常識外の行動をする人たち」は「加害者で社会悪」だし、石を投げることは「被害者側を助ける、正義の行動」ですからね。

だからたたいて、侮蔑の言葉を吐いたり、怒りを出したり、「こんな人間がいるとは」と嘆いたりして、すっきりすると。

 

すなわち、最初に「憂さ晴らしをしたい」という空気ができて、その場で都合のいい「たたける相手」を見つけて、その人をたたくと。

だから、いじめる相手なんて誰でもいい……というひろゆき氏の発想ですね。

 

SNSでは「リツイートやトレンドで見かけた、発言しても反撃されそうにない社会現象」がその対象になりやすいでしょう。

そして現実では、同じように「今目に入った、個性があって目障りな、反撃しそうにない奴」が対象になりやすいと。

まさに、SNSと同じ構図かなと思います。

 

「加害者と被害者を明快に切り分けられない」という現実

これはこれで、一つのものの見方で面白いですよね。

ただ、私の中では、「こちらが100%悪い」と切り分けるのは、難しいように感じるんですよ。

というのも、「加害者と被害者を明快に切り分けられない」ということが多いからですね。

 

例えば上記のSNSで石を投げる人たちだって、彼らは「自分たちは被害者側だ」と真剣に思っています

それは一点の疑いもなく、「私は100%被害者側だ」と思い込んでいるわけです。

だから石を投げることは「正義の行動」だし、「社会に属する、みんなのため」でもあるわけです。

ある意味、彼らは「内側にモヤモヤを抱えた、被害者側の味方をする、正義のヒーローの代弁者」なんだと。

 

なら、そういう彼らに対して「100%こちらが悪い」と言い切るのは、だいぶ難しいと分かります。

いやまぁひろゆき氏なら言えるのかもしれませんが、私は炎上は嫌なので言えないなと(笑

いやほんと、そういう状況で「こちら側が100%悪い」とか言うと、片方から総攻撃されますからね(笑

 

視点次第で、見方が変わる

で、こういう「視点次第で、見方が変わる現象」って、結構あるように感じます。

例えば小麦でも、「人間が小麦を支配して操る(作物化する)ことで、人間は豊かになった」と言えますよね。

でも、小麦目線で言うと、「小麦が人間に良質な栄養を与えることで、小麦は世界でも大発展した植物になった」とも言えます。

すなわち、「小麦が人間を支配して操る(奴隷化する)ことで、小麦という種は世話係を得て、楽に豊かになった」とも言えます。

 

なら、「人間が主で小麦が奴隷」なのか、「小麦が主で人間が奴隷」なのか、視点次第で言いにくくなると分かります。

例えば戦争でもそうで、正義と正義の戦いなんて、どちらも「自分が正義。自分が被害者」だと思い込んでいるわけです。

 

攻めてくる人たちは、問答無用で攻めてくる

そしてこれは、私たちが「自分にも非があるな」と思っていたとしても、関係ありません。

というのも、攻めてくる人たちは、問答無用で攻めてきますからね。

「私たちがどう思っているか」なんて関係なく、相手は「攻めたいから攻める」、「侵略したいから侵略をする」、「奪いたいから奪う」、「石を投げたいから石を投げる」なんですよ。

 

なので、私からすると、「いじめる側が100%悪い」としたとしても、現実はあまり変わらないように感じます。

それは、そう言ったところで、侵略してくる人たちの行動は、何も変わらないからですね。

ある意味、SNSで石を投げる人たちの行動がまったく変わらないのと同じです。

 

なら、私たちはどうすればいいのか

ならば、そういう現実を前にして、私たちはどうするのか、ということです。

で、まぁいつも私が言っている内容になります。

 

それが、「戦うか、逃げるか、好きに選べばいい」ということですね。

そして、「私は逃げる方が好きだな」というお話です。

 

上手な戦い方、上手な逃げ方

で、戦うにも「上手な戦い方」が、逃げるにも「上手な逃げ方」があります

それを知ると、うまく戦えるなり、逃げるなりできるんじゃないかと思います。

 

ちょっと過激なことを言いますが、例えばもし戦う場合は、私は「本気で戦うこと」を検討する方がいいと思うんですよ。

「本気の戦い」というのは、自分の持つお金や資源、武器、人脈、体力や健康、知識や知恵、技術やスキル、地位や名誉、そういうものを駆使して戦うわけですね。

 

これは、自分を一つの国家として考えると、分かりやすいように思います。

というのも、いじめにしても、戦う場合、それは他国との戦争と同じです。

実際に戦争をする場合、「お金を使わずに、武器も使わずに、知識や知恵も、技術も使わずに戦う」なんて、負けるのは当然ですよね。

だから防衛費も必要だし、そのために日本なら自衛隊とか、他の国ならその国の軍隊がいるわけで。

 

「軍事費」を必須予算に入れられるか

その国々にとっては、防衛費とか軍事費なんて、もし他国からの脅威がなければ、必要ないものなんですよ。

いやまぁ、中国みたいに「軍隊は自国民を統制するため」みたいな目的もあるかもしれませんが、そこは話の趣旨とずれるのでスルーするとしましょう。

 

だからその軍事費や防衛費って、「なんで俺たちはこんなことにお金を払わなきゃいけないんだ」と、不満に思いつつ使うようなお金なわけです。

軍事訓練にしてもそうで、「こんなことに時間を費やしたくないよな」と、不満に思いつつ費やす時間ですよね。

 

そしてもし戦う場合、そういう予算や時間を、ある種「必須側の予算」として自分の生活に組み込めるか、ということです。

SNSで愚痴を言うのは気晴らしにはいいんですが、それだけだと侵略されやすいですよね。

なら、国がそれなりに防衛費を費やすのと同じように、自分も防衛体制に対して学んだり、研究したり、対策を準備しておく必要があるわけです。

もし戦うことを選ぶならば、それを、ひとりひとりが備える、そういう発想です。

 

本当に戦争を始めたなら、本気で戦うこと

で、本当に戦争を始めたなら、本気で戦うことかなと思います。

もちろん、親や教師のような大国に頼るのもいいでしょうが、頼りになることもあれば、頼りにならないこともあるわけで。

その場合、「自分の持つお金や資源、武器、人脈、体力や健康、知識や知恵、技術やスキル、地位や名誉、そういうものを駆使して戦いなさい」ということですね。

 

そして、もし本当に理不尽なことであれば、一度徹底的に相手をたたいておくのも一つの手でしょう。

そうすることで、抑止力が働きます。

 

「合法的に戦う」こと

また、重要なのが、「合法的に戦う」ということです。

戦争でも、戦時国際法みたいに、法律があるんですよ。

すなわち、戦争ですら法律に従って戦うものなんだと。

そうすることで、戦争後でも「仕方ない、戦争法に従ったんだから、よしとしよう」と受け入れられます。

 

でも、法律に反してしまうと、その後がダメになっちゃうんですよね。

多くの人が、怒りに任せて、ナイフで傷つけたりだとか、首を絞めたりだとか、「違法な方法で」傷つけたり殺してしまうわけです。

それは、「本当の勝利」だとは言えませんよね。

 

すなわち、自分が滅んでしまうのは、本当の勝利ではないと。

それは、ただの自爆テロに過ぎません。

本当の勝利は、「相手の力をそぐなり、滅ぼすなりする。そして自分は生き残って、今まで以上に発展できるようになる」ことなんですから。

 

「合法であればOK」で戦い方が見える

この「合法であればOK」を許可を得ることで、戦い方が見えることもあるように思います。

そしてそうすることで、変に良心の呵責(かしゃく)を得ることなく、「罪悪感なくたたきつぶす」が可能になるかなと。

 

例えば伊藤詩織氏がいますが、あの人はそういう「合法的に相手を殺す」というのをやる人のように思います。

以前でも少し社会的に話題になりましたが、中傷を受けて、社会問題まで昇華させて、相手を社会的に抹殺しましたよね。

私はああいうスタイルは好みではありませんが、それでも「合法的にしている」というのは、いいところだと思うんですよ。

 

「合法であれば」、社会的に殺そうが、経済的、政治的、精神的、体力的、人脈的、どんな切り口で殺そうが「オールOK」です。

それは、戦争をした国が、戦争法に従っていればOKなのと同じです。

 

「法律の中で戦争をする」というゲーム

私たちは、そういう「法律の中で戦争をする」というゲームをしているようなものです。

だから、「もし戦うならば、合法的な手段を組み合わせて、相手を抹殺しなさい」ですね。

 

で、戦うことをメインに選ぶなら、人生でそういうことに1年とか2年でもかけてみるのは、価値あることだと思うんですよ。

というのも、それだけやっていれば、戦い方も分かるし、経験もできるからですね。

それに、実際に他の人を何人か「合法的に」抹殺している実績があれば、安易に中傷やいじめを仕掛けてくる人も少なくなります。

残りの50年なり80年なりを生きることを考えると、そういう1~2年の訓練は、「人生の先行投資だ」としてもいいんじゃないかと思います。

 

私は「逃げる」が好き

ただ、私自身は、そういう「戦う」というのはメインスタイルとはしていません。

で、私が好きなのは、「逃げて、逃げた先で新たに作る」というスタイルですね。

 

というのも、そこまで戦いにお金や時間、知恵や人脈を使うぐらいなら、私なら「その分をビジネスに使って、お金持ちになる方がいいな」と考えるからですね。

お金持ちになれば、それなりに自由に住む場所を選べますし、付き合う人も選べますからね。

 

もしくは、「そういう人がいない場所に移って、少しの不労所得を作って、自由に生きられるようにするぐらいがいいや」という優先順位です。

この場合は、「自由持ち」なので、お金がさほどなくても、嫌な人とは付き合わずにすむ自由が得られます。

 

私は自由が好きだし、戦いを強制されるのは嫌なので、例えば韓国のような兵役は嫌だな、と感じる側です。

だから、「できれば戦わずに逃げたい」というスタイルです。

 

逃げるにも、「上手な逃げ方」がある

で、逃げるにも、「上手な逃げ方」があるんですよ。

で、その「上手な逃げ方」の本質というのが、「生き方を変える」ということです。

自分の生き方を変えることで、自分なりの生き方を見つけていく、というスタイルです。

 

多くの人が、「逃げる」と言いながら、学校や会社みたいな「所属先」だけを変えて、生き方を変えないことが多いように思います。

そういう場合、やはり同じことが繰り返し起きやすいかなと思います。

それは、本当の意味では逃げてはいないからですね。

なので、「逃げることにも上手な逃げ方がある」と分かると、その本質の「生き方を変える」に集中できるかと思います。

 

まとめ

なのでそう考えると、戦う場合は戦いやすくなるし、逃げる場合は逃げやすくなるかと思います。

 

戦いたい人は、戦うといいでしょう。

ただ、私は戦うのはストレスだし、自分の人生を考えると、「戦いよりも、熱中できることをして楽しんで生きたいな」というタイプです。

なら、私のようなタイプの人は、戦うよりも、「逃げた先(生き方を変えること)で、新たなものを作る」というスタイルを選ぶのも一つの手かな、とも思います。

 

ということで今日は、ひろゆき氏の「いじめる側が100%悪い」を私なりの言葉で言い換えると、どう表現するか、というお話をしてみました。

今日はここまで~。

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