今日は、考え方のお話です。

「本を○冊読む」という目標が、あまりいい目標ではなさそうに見える理由について、お話ししてみましょう。

 

「本を○冊読む」という目標の形

「本を1年に○冊は読みなさい」みたいな教えって、あるじゃないですか。

おそらくそれに影響されているのか、「本を1ヶ月に○冊読むのが目標!」みたいに言っている人もいるものです。

 

私の中では、こういう「本を○冊読む」的な目標設定は、多くの場合であまり意味をなさないように感じたりもします。

で、この理由が分かれば、願いをより楽に実現しやすくなるかと思います。

 

目的と手段が入れ替わっている

じゃあ、なぜ「本を○冊読む」的な目標設定は、あまり意味をなさないのか。

それが、目的と手段が入れ替わっているからですね。

 

私自身は、「本で学ぶこと」は、一つの手段だと思うんですよ。

何かを達成するための手段として、本があるわけで。

 

例えば、こういうイメージです。

「独立してビジネスをやっていけるための、経営や営業についての知識が欲しい」

「時代の変化を見通せるようになるために、歴史の周期や流れについて、もっと知りたい」

「長期的に後悔しないために、先人がどう生きたのか、どう成功したのか、実例を知って自分の生き方に組み込みたい」

「冒険やSFなどの空想のイメージをもっと味わいたい。主人公の生き方をたどることで、感動や興奮を共有したい」

 

そういう「これを実現したいから」、「これを味わいたいから」という欲求を実現する手段として、本があるわけですね。

 

「本を読む」は、一つの手段でしかない

すると、「本を○冊読む」というのは、なんだかとても不可解な目標のように感じると分かります。

それは、料理人が「包丁を100本手に入れるぞ!」と言っているようなものです。

私たちからすると、「え? 包丁は必要なものを、必要なだけ使えばいいんじゃないの?」って感じますよね。

包丁コレクターなら別にいいんですが、「いい料理を作りたい」という人が目指すものを考えると、少しずれていると分かります。

 

もちろん、私も「本は、一番手っ取り早く、体系的な知識を得られる媒体」だと思うんですよ。

動画は「読み飛ばし」ができないし、何より「自分の中でかみ砕いて、受け入れるまでの時間」を自分で調整しにくいですからね。

それに、日本語は英語圏の文章と比べても、漢字ひらがなカタカナ別になっているので、特に視覚的に読みやすいわけです。

 

でも、あくまで「本を読む」は、一つの手段でしかありませんからね。

「本を読んで、こういうことを実現したい」という根本目標の方が大切なんだと。

 

「本を読む」以外にも、手段はある

そして目標をうまく持てていれば、手段は本に限らず、いろいろあると分かります

世界の見識が欲しいなら、本でなくとも、動画で見ることもできるかもしれません。

経営知識が欲しいなら、実際にどこかの会社に無料で手伝いをすることで、会社の仕組みや人の動かし方を学べるかもしれません。

他にも、「実際に試した方が早そうだ」と、行動できるかもしれません。

 

実際に、さして考えずに行動をする方がうまくいくこともあるし、走りながら学ぶ方が身につくこともあるものですよね。

それに、「文字や映像で学ぶより、実体験する方が早いな」ということもあるし、「考えても分からん。ならとりあえず、やってみよう!」ということもあるものです。

 

なので、目標を持ってあれやこれやをやっている人から見ると、「本を○冊読むのが目標」というのは、なんだかずれているように感じると分かるかと思います。

それは、目的と手段がごっちゃになっているからで。

 

「多いほど優れている」という思い込み

そもそも、「本を多く読むほど優れている」っていう感覚も、なんか変ですよね。

だって、「1冊ほど特にお気に入りの本を見つけたら、それを何度でも読む」ってことだってできるんですから。

すなわち、「多いほど優れている」という思い込みがあるように思います。

 

実際に私の場合、「早めに自分のスタイルに合うものを見つけて、それを徹底的に身につける」というスタイルでした。

例えば、私は学生時代に「思考は現実化する」という本に出会って、当時はすごく影響されて、あの分厚い本を何度も読み返しましたから。

それとか、私は独立する時に、いい言葉があればメモをして持ち歩いて、何度も読み返したり口に出して読んで、魂に刻みつけたり。

他にも、経営セミナーの音声でも、ある程度いろんな人の内容を聞いて、お気に入りのものを見つけたら、それを何十回も聞き返して身につけたり。

 

そういう風に、「早めに自分に合うものを見つけて、徹底的に身につける」というアプローチもできるわけです。

もちろん、多くを知らないことで、機会損失もあるでしょう。

でも私の場合、時間と資源を天秤にかけると、そういうスタイルがよさそう、という判断だったと。

 

「好きで本を読んでいたら、○冊も読んだ」という形

で、私の中では、「好きで本を読んでいたら、○冊も本を読んでしまっていた」という形が本来の形かな、と思います。

やっぱり目標を持って熱中すると、場合によってはそれなりに多くの本を、好きで読むようになることもあるでしょう。

で、その「○冊も読んでしまった」は、結果であって、原因ではないんですよね。

 

なのに、それを原因だと見間違えることで、「本を○冊読めば、あの人のようになれるんじゃないか」と思い込んでしまっているように思います。

そういう本質を見抜けていない、という点が問題なんだと。

 

まとめ

なのでそういう風に、目的と手段を明快にできると、「本を○冊読む」という目標が、あまりいい目標ではなさそうだと分かるかと思います。

 

実のところ、願いを実現するのは、さして難しいことではないように思います。

本質を見抜いて、そこに資源を集中すればいいだけですからね。

そして、それが本質の中核を得ているほど、少ない労力で自分の欲求を満たせてゆけます。

 

「頑張ってもうまくいかない」というのは、本質を外していることが多いかなと。

そしてなぜ本質を外すのかというと、「目的と手段をごっちゃにしてしまって、手段を絶対視しているから」ということもあるように思います。

 

すると、「自分が本当に欲しいものって、何だろう?」と考えることで、より本質が見えるかもしれません。

なら、それに合わせて手段を考えることで、「本は一つの手段だった」と理解できるかな、と思います。

 

ということで今日は、「本を○冊読む」という目標が、あまりいい目標ではなさそうに見える理由について、お話ししてみました。

今日はここまで~。

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