今日は、精神的なお話です。

「始めるには歳を取り過ぎている」と感じても、来世期待で始めればいい、というお話です。

 

「来世に期待」って、面白い概念ですよね

とある人のツイートで、「来世に期待だな」って言葉があったんですよ。

その人は少し違った意味合いで発言していたんですが、この「来世に期待」って言葉は、面白い概念だなと思ったりします。

それで思ったのが、こういう概念は、「今から始めるには、歳を取り過ぎている」って場合に使えそうに思います。

 

「これを今から始めるには、私はもう歳を取り過ぎている」ってこと、あると思うんですよ。

例えば「小説を書いてみたい」とか、「バンドを組んで音楽を演奏してみたい」、「ビジネスを立ち上げてみたい」みたいに、いろいろあるかと思います。

でも、「私は歳を取り過ぎている」とか感じてしまって、動けなくなったりするんですが。

 

例えば20歳ぐらいの人でも、「小説が好きな人は、小学生の頃から書いている」とか言って、動けないわけです。

「プロの音楽家を目指すなら、幼少期から音楽を学んでいる」とか、「そういう家系に生まれている」とか。

そんなの言い始めたらきりがないんですが、そうやって比較してしまうことがあって。

 

「来世に期待で、今から始めておこう」ぐらいでいい

そういう場合、「来世に期待で、今から始めておこう」ぐらいでいいかなと思います。

いやまぁ、来世になる段階で、たぶんほとんどというか、すべての知識や経験が無駄になるとは思うんですが(笑

それでも、「万が一でも、少し何か残ればいいや」ぐらいで取りかかると。

 

なら、今世では競争をする必要がなくなって、純粋に面白さとか、興味がある部分を楽しみながら味わえます。

そういう見栄とか虚栄心みたいなものを手放せるという点で、こういう発想もいいように思ったりもします。

 

「手練れと比較してしまって、面白くなくなる」という現実

でも、やっぱりそういう「本来なら面白くて始めたことなのに、手練(てだ)れと比較してしまって、面白くなくなる」ということは、それなりにあるように思います。

実際に、周囲の競争社会から比較された場合、これが結構精神的に来るし、楽しめなくなるんですよね。

 

例えば小説執筆でも、楽器演奏でも、最初は「こういうの、やってみたいな」とか、「こういうのができるようになったら、格好いいな」みたいに感じますよね。

すなわち、「自分の頭の中にあるイメージを、現実でやってみたい」と思うわけです。

それで、こっそり書いたり、練習して始めてみると。

 

で、イメージ通りにできたら、「ねえ、小説を書いてみたんだ。ちょっと見て」とか、「ワンフレーズ弾けるようになったんだ、聞いて聞いて」みたいに、好きな仲間うちに披露して。

それで、「すごい!」、「いつの間に!?」とか言われるわけです。

こっそり作ったり練習したものを見せて、驚いてもらったり、喜んでもらうのって、嬉しいですよね。

 

だから純粋に喜べて、向上してゆける

その上、それで影響される友人が出てきて、「俺も何か書いてみよう」とか、「俺も楽器を演奏してみよう」みたいに、広がっていくわけです。

そしてより深くはまったり、同じ趣味の友人ができたり、新たな仲間ができたりして。

それだけでなく、周囲が始めたことに影響されて、私たちが周囲よりもさらにドはまりすることもあったり。

 

そういう健全な環境では、純粋に仲間から「すごい!」と言われたり、仲間に「すごい!」と言ったりできるんですよ。

というのも、比較対象がないし、自分もよく分からないから、「自分よりもできるのは、すべてすごい」になるからですね。

だから、純粋に驚けるし、驚いてもらえて、それが双方の喜びになると。

なのでそうやって、下手な中からでも「すごい!」と言われたり、他の人に「すごい!」と言って喜んでもらいつつ、自分も周囲も喜びつつ向上していくのがいい流れかなと思います。

 

見せる相手が悪いと、プロと比較されてしまう

でも、そこで見せる相手がよろしくないと、「そんなのもっとできる人がいるよ」とか、「プロだとこれぐらいできて当然だよ」とか言われてしまうわけです。

すると、自分の作品や演奏を、下手な連中同士の基準で見るのではなくて、一気にプロと比較されてしまうことになります。

 

そうなると、周囲に見せられなくなるんですよね。

というのも、「こんなレベルの低いものを周囲に見せると、迷惑になる」という恥だとか迷惑みたいな意識が入ってしまうわけで。

 

相手は「自分はプロの立場である」と偽っている

本来なら「自分よりもできるものは、すべてすごい」で驚いて、喜んでもらえることです。

なのに、相手が劣等感を持つことで「相手にすごいと言いたくない」となると、「それは劣っている」と相手がまるでプロの立場であるかのように見せかけて、評価してくると。

実際は、相手も下手で素人なのに、相手は「自分はプロの立場である」と偽ってしまうわけです。

 

私たちも、「なにプロのように発言しているだよ。お前も素人だろうが。素直に『すごい!』って言えよ」と認識できれば、その「偽りの立場からの比較」を心理的に排除できるんですけどね。

でも、その偽装に気づかなければ、「相手はプロである」と偽りを信じ込んでしまうと。

そうして、恥だとか迷惑の意識が入ってしまうことになります。

すなわち、そうやって「本来なら面白くて始めたことなのに、手練れと比較してしまって、面白くなくなる」という現象が起きてしまうわけですね。

 

まとめ

なので、「今から始めるには、歳を取り過ぎている」というのは、ほぼ確実に、「手練れとの比較」にやられていると言えるでしょう。

でも、実際は、それはプロでも何でもない人からの「偽りの比較」でしかないんですよね。

それでも、なかなかそういう「手練れとの比較」は消しにくくて。

そういうこともあって、「これを今から始めるには、私はもう歳を取り過ぎている」と感じた場合、「来世に期待」で始めればいいかなと思います。

 

健全な下手っぴ同士で打ち解けられる相手なら、下手同士でも「すごい!」と言い合えて、楽しんで向上してゆけます。

その辺が分かると、「今から始めればいいし、そういう仲間もいる」と分かって、変な見栄や虚栄心を手放せて、動き出せるかなと思います。

 

ということで今日は、「始めるには歳を取り過ぎている」と感じても、来世期待で始めればいい、というお話でした。

今日はここまで~。

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