今日は思いっきり精神的なお話です。

「周囲を信じずに、自分を信じることでも生きられる」、というお話をしてみましょう。

 

汚い言葉を使う人ほど、本音を語っている

ちょっとした記事があったので、ご紹介。

「汚い言葉を使う人ほど正直者」であることが研究で判明(Gigazine)

 

簡単に内容を説明すると、「汚い言葉を使う状態であるほど、本音を語っている」という研究結果だそうで。

これ、なんとなく分かりますよね。

「ふぁーっく!」と激高していればしているほど、それは本心からの声だと分かりますからね。

逆に、冷静に語っているほど、内側では何を考えているのか分からないものですし。

 

汚い言葉を使う人は、余裕がない人

ちなみに、汚い言葉を使ってののしる状態って、それだけ「余裕がない」ってことなんですよね。

Twitterでも、「ゴミ」とか「クズ」、「クソ」とかいう単語をよく使う状態の人がいますよね。

それは余裕がなくて追い詰められているからこそ、「これ以上自分を追い詰めると、攻撃するぞ!」と強い威嚇をしているわけです。

それは「社会」のような不特定多数に対しても、そのように威嚇することがあります。

 

余裕があれば、わざわざ汚い言葉を使うことはありません。

それは、周囲や社会に対して威嚇をする必要がないからですね。

 

「周囲を信頼しているから、裏切られる」という苦しみ

これはなんとなく私の実感ですが、「ゴミ」、「クズ」、「クソ」みたいな汚い言葉を使ってののしっている人というのは、とても純粋な人が多いように感じます。

というのも、人に言われたことを素直に受け入れて、裏切られ続けているからですね。

言うなればそれは、報われることのない奉仕のようなものです。

だって、もし周囲がその人を本当に思いやっているのであれば、そこまで追い詰めることはしませんからね。

周囲がその人を思いやっていないから、その人は追い詰められて、限界を迎えているんですから。

 

すなわち、「周囲は自分のことを思ってくれている」と信じているから、奉仕しても裏切られ、汚い言葉でののしり続けるわけです。

なら、「実は周囲は、自分のことなんか誰も大切に思ってはいない」と分かれば、裏切られることもないし、冷静さを取り戻せると分かります。

そして、自分の判断で生きやすい道を選べると分かります。

ということで今日は、そんな「周囲を信じずに、自分を信じることでも生きられる」という生き方についてお話ししてみましょう。

 

「本当は愛されていないのに、愛されているはず」が一番怖い

普通、「周囲は自分のことなんか、誰も大切に思ってはいない」と思うことは、なんか絶望に突き落とされるように感じるじゃないですか。

「私は愛されていないんだ」と認めることって、怖いですよね。

 

でも、それよりも怖くて苦しいことがあるように思います。

それが、「本当は愛されてなんかいないのに、愛されているはずだ」と思い込むことじゃないかと思います。

これは、無限に搾取されて、最後には疲れ果てて裏切られ、絶望する結果が見えているからですね。

 

こうして「搾取される人」が生まれる

実際にイメージしてみるといいでしょう。

親でも会社でも社会でもいいので、「自分は相手(親や会社、社会など)から愛されているはずだ」と思い込んでいる人がいるとします。

でも、実は相手はその人のことなんか好きでもなんでもなくて、むしろ邪魔者でしかなくて、うざったく思っているぐらいです。

 

もし相手が良心的な人なら、「他の場所に行きなさい」と言ってくれるでしょう。

でも、もしそうでないなら、相手はその人を「利用しよう」と思うのが普通かと思います。

好きではないけど、使えるだけ使っておこう、みたいな。

どうせ邪魔者なんですから、そのまま追い出すよりも、搾り取ってから追い出す方が利益になりますよね。

使えなくなったら、それまでです。

 

で、使われる側も、うすうすは「自分は愛されてなんかいない」、「自分はこの場所では歓迎されていない」と感じているんですよ。

もし「ありのままを愛されている」と実感できていれば、無理な要求は断ることができますからね。

「愛されていない」、「受け入れられていない」と心のどこかで分かっているから、無理な奉仕をしてしまうわけです。

 

自分が死ぬまで、相手が変わることはない

そして「心から尽くせば、相手は変わってくれる」と願います。

ほら、よく物語でもありますよね。

「美しく奉仕をしていたら、相手が心を改めて受け入れてくれた」みたいな感動話が。

 

でも実は、その人が生きている間は、これが変わることはありません

もし変わるとするならば、その人が相手のために死んだ後だけです。

相手のために死ぬことができれば、相手は「自分の命よりも、私を好きだったんだ」と分かり、多少はお情けを与えるかもしれません。

でも相手は、奉仕する側が「生きている間」は、何とでもします。

「いつ限界が来るかな? そのときに追い出してやろう。それですっきりする」と、限界が来るのを半ば楽しみにして、搾取するばかりです

 

なら、本当に「その相手に奉仕すること」はお得な道でしょうか。

自分が死んでまで、変える価値のある相手でしょうか

自分を苦しめてあざ笑っているような、そんな「自分などいなくても困らないような、自分よりも力を持つ相手」を、命をかけて困らせる必要はあるでしょうか。

むしろ、さっさと「愛されていなかった」と受け入れて、もっと自分らしい生き方をして、他の人を喜ばせる方がいいような気もします。

 

すなわち、「ここでは、周囲は自分のことなんか、誰も大切に思ってはいない」と受け入れることで、いったん全ての負債をチャラにできるわけです。

マイナスをゼロにできるわけですね。

 

「最初から、他人の言うことなど信じない」という道

これはある意味、「最初から、他人の言うことなど信じない」という道でもあるように思います。

じゃあ、他人を信じなければ何を信じるのか。

それが、「自分を信じる」ことですね。

自分の内側にある、感性や方向性を頼りに進んでゆく、ということです。

 

「他人の言うことを信じない」というのは、「他人の言うことを一切受け入れない」ことではありません。

「他の人が言うことを全て再検証して、いいものは受け入れる。役に立たないものは、いくら偉い人が言っていたとしても排除する」ということです。

親であろうが社会であろうが上司であろうが、自分の役に立たなければ「私はその考え方は採用しません」と排除することです。

逆に、役に立つことであれば、どんな子どもだろうが、地位がない人であろうが、無名の人だろうが、それを採用するわけです。

 

社会ではなく「境地」のような場所で生きる道もある

これは冷たい生き方のように見えて、実は独特の暖かさがあるんですよね。

というのも、個性的な人ほど、このような考え方だと社会では生きづらくなります。

すると、どうしても社会のすみっこにある「境地」と呼ばれるような場所で、ひっそりと生きなきゃいけなくなります。

 

でも実は、そういう境地で生きたとしても、結構生きられるんですよ。

確かにそこは社会とのつながりが少なくて、お金も回らない場所かもしれません。

だから、最初ほど質素に生きなきゃいけないかもしれません。

だけど、人も少ないので煩わしい人間関係が少なくて、一人の時間を大切にできて、質素でも、小さい規模だけれども、自分なりに意味ある生き方ができるんですよ。

 

で、そういう場所で出会った同じような人は、信じられるんですよね。

だって、その人も「最初から、他人の言うことなど信じない」という人なんですから。

これは、裏を返すと「自分の信じる道を進む」という、軸のある人です。

 

社会では、お世辞とか心にもないことを言って、頭を下げたりする人が多いですよね。

でも、軸を持っている人は、そういうことはしません。

自分の軸に合うかどうかが大切で、だからいつも一貫性を持っていて、信頼できるわけです。

そうしてそういう人はとても貴重だからこそ、深くわかり合えるんですよね。

 

まとめ

そういう風に、「周囲を信じずに、自分を信じる」という道もあるように思います。

自分の軸を信頼して生きる、ということですね。

 

もし、うすうす「自分は愛されてなんかいない」と感じているのであれば、そういう道もあるかと思います。

その場合、すぱっと損切りができるかどうか、ですね。

「今までこれだけ奉仕したのに」という努力を、手放して捨て去ることができるか、ということです。

 

私は、命をかけてまで、自分よりも強い人に対して奉仕する必要はないように思います。

もし命を使うのであれば、自分よりも弱い人に対して、何かをしたいと。

力のある人が、力のない人に手をさしのべる。

その方が、私にとっては「すてきな生き方だな」、と感じます。

 

ということで、今日は「周囲を信じずに、自分を信じることでも生きられる」、というお話をしてみました。

今日はここまで~。

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