今日は精神的なお話です。

「責任の分散」に慣れると、他者を批難しなくなる、というお話をしてみましょう。

 

現状を変える2つの戦略

「現状を変えたい」ってこと、ありますよね。

欲しいものを手に入れたかったり、嫌なことをやめたかったり。

例えば「嫌な仕事をやめて、ある程度熱中できることで収益を得て、静かな場所で暮らしたい」とか。

「質素でもいいから自由を得て、自然のある場所で、気の合う人とゆったり過ごしたい」とか。

 

そういう場合、基本戦略は2つあります。

それが、「他者を変える(邪魔な相手や社会システムを排除する)」か、「うまく自分が変わる」ですね。

 

他者を変えるか、自分を変えるか

で、前者の「他者を変える(邪魔な相手や社会システムを排除する)」というのは、個人ではとても難しいものですし、時間もかかるんですよね。

そして、自分の本当の願いが、「周囲の人は望んでいないけど、自分だけが望んでいること」であるほど、他者を変えるのは非効率だとわかります。

だって、周囲は望んでいないなら、変えようとしても難しいからで。

 

その場合、後者の「うまく自分が変わる」の方がよさそうだと分かります。

特に「嫌な仕事をやめたい。熱中できることで収益を得たい」みたいな願いって、とても「自分だけが持つ願い」になりやすいものです。

それは、「熱中できること」は自分独自のものだからで。

それに、周囲のように「仕事だから」と割り切れないから、強く「自由に生きたい」と願っているわけですから。

 

なので、そういう自分独自の願いを持つ場合、「他者を変える」というアプローチはできるだけ手放す方がよいと分かります。

 

どう考えれば、他者を変えなくなるか

でも、やっぱり周囲に嫌な人がいると、「こいつさえいなければ」とか考えちゃうじゃないですか(笑

それとか、嫌なニュースが流れてくると、「こういう政治家さえいなければ」、「こういう社会悪さえなければ」とか思ってしまうものです。

じゃあ、そういう場合にどう考えればいいのか、ということですね。

 

そこで、「責任の分散」という発想に慣れるのも、一つの手段かなと思います。

 

責任を集中させると、変えやすくなる

これを分かりやすく説明するために、「責任の集中」の場合を見てみましょう。

責任を集中させると、他者や周囲の環境を変えやすくなるんですよ。

それは、攻撃箇所を一箇所に集中させることで、破壊力を増すことができるからです。

何らかの攻撃をする場合、選択と集中をする方が効率的ですからね。

 

なので、「こいつが原因だ」とか、「こういうシステムが原因だ」と限定するほど、他者を変えやすくなるわけです。

SNSとかでも、他者を批難する記事ほど、「こいつが原因だ」って個人に集中するじゃないですか。

それは、ターゲットを絞るほど分かりやすいし、変えやすいし、破壊力を出せるからですね。

 

そして、こういう原因を限定する方が、批難しやすいんですよ。

だって、「AさんとB社とCという自治体が原因で」とか言うと、誰を責めたらよいのか分かりませんからね。

なので、「誰かを責めたい」とか「自分は変わりたくない。世の中を変えたい」という人ほど、例えば陰謀論のように、「世の中がこうなったのは、全てこの組織のせいだ」と1つの組織や人物、民族をあげつらいやすいと。

今なら、イルミナティとかフリーメーソンとかユダヤ人とか、ロスチャイルドとかロックフェラーとか、もういろんな陰謀論があるもので。

 

まぁ人生をかけてでも、自分の願いを犠牲にしてでも他者を変えたいのであれば、それはそれでいいんですが。

当然、相手も「人生をかけて作った豊かさだ、自分の利権を守る」、「自分の豊かさを奪おうとする悪は、始末する」となるので、相応の争いや奪い合いになる覚悟は必要でしょう。

「他者を変える」という発想は、「相手から見ると、自分が悪になりうる」とも言えますからね。

なので私の中では、「自分が正義だと思っている者同士が戦うこと」を、「奪い合い」と定義しているんですが。

 

「責任の分散」というアプローチもある

一方で、もし自分独自の願いを優先したい場合は、そういうアプローチは徒労に終わりやすいと分かります。

それとか、争いや奪い合いが嫌な場合もあって。

そして冷静に考えると、「そういう組織や人物、民族を変えようとしたところで、自分独自の願いは叶いそうにない」と感じることもあるでしょう。

 

その場合、「責任の分散」をするというアプローチもあると分かります。

これは、「みんながそれぞれ、少しずつ責任を負っている」と認めることですね。

言い換えると、「世の中はたった1人の人が全て責任を負っているのではないし、誰もが自分の人生に無責任ではない」とすることです。

 

イメージで言うと、まるで魚の群れがぐねぐねと動いているようなものです。

「個別の魚は一匹一匹、個人の意思を持って動いていて、それが全体の形を作っている」、そういう感じです。

だから、とてもカオス的だし、「どうしてこういう形になったんだ」と言おうとしても、誰を責めたらよいのか分からないものです。

 

「みんなに、自分の責任を負ってもらう」という感覚

でも、こういうイメージを持てると、誰かを責めなくなるんですよね。

それは、一人一人に責任を任せられていられるからですね。

隣にいる人も、政治家も、社会悪のように扱われている人も、自分の責任で動いているわけです。

自分の幸せに対して完全に無責任にさせるのではなく、責任を負ってもらうと。

 

すると、「私はこうしなければならない」という思い込みから逃れやすくなるように感じます。

だって、私達が無理に尽くさなくても、無理に罰しなくても、その人は自分で自分の幸せを作れるし、悪いことをすれば因果応報で周囲から責められるわけで。

なら、「私が無理に、誰かを幸せにしなくてもいい、罰しなくてもいい」と分かります。

その人の幸せや報いは、その人が作ればいいんですから。

 

「自分の意志で、いろんな場所に移動していい」というイメージ

同時に、「私は自分の意思で、いろんな場所に移動していい」と分かります。

魚の群れで言うと、「魚の群れの中なら、結構どこへ行ってもいい」と分かりますよね。

「私が周囲の人を幸せにしなくてもいい。周囲の人は、自分で幸せになれる。なら、自分は自分がいることで喜んでくれる環境に身を移そう」とできます。

 

そういうのが、「責任の分散」ですね。

「誰かを責める」っていうのは、自分が動かなくてもいいから、楽ではあるんですよ。

それに、誰かを責めるのって、憂さ晴らしができて気持ちいいでしょ。

ネットでも歴史上でもよくある公開処刑とか、うさが溜まった人にとっては最高の気分爽快になる手段なわけで。

でも、独自の願いを持つ場合で、なおかつ本当に現状から出たい場合は、責任は集中するよりも分散する方がよさそうだと分かります。

 

まとめ

なので自分独自の願いを実現したい場合、そういう「責任の分散」という発想に慣れてみるのもいいかと思います。

「みんな、少しずつ責任を持っていていいんだ」と受け入れることですね。

 

これは、最初はかなり居心地が悪いかなと思います。

でも、「身軽に動いていい。障害物は、身軽にひょいひょいと避けて、自分が望む方に進めばいい」と分かると、途端に楽になれるんですよ。

すなわち、「見捨てたい人は、見捨てていい」と受け入れることです。

責任を負ってもらうというのは、そういう一種の残酷なことでもあるし、「幸せにさせてあげられなかった」と哀しさを持つことでもあります。

 

そして、自分の足で進めば進むほど、自分の風景が変わっていきます。

で、どんどん心地よさが変わるので、「自分は、自分の人生をどんな風にでも変えられる」と実感できると。

また、中には心から喜んでくれる人も出てくるので、充実感も得られるし、嬉しくなったりもして。

 

だから、希望も持てるし、しんどいことでも受け入れられて、エネルギーを出せて生きられるようになるわけです。

もちろん、同時に「幸せにできなかった」という哀しみも持ちうるので、泣きながら歩くことも多いと。

私がよく「泣きながら歩いていい」と言うのは、こういう「責任の分散」をしているからですね。

 

現状を変えたい場合、そういう発想も一つの方法かな、と思います。

 

ということで今日は、「責任の分散」に慣れると、他者を批難しなくなる、というお話をしてみました。

今日はここまで~。

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