今日も精神的なお話をしてみましょう。

「生きているだけですごい」でダメなら、「みんなも生きているだけでいい」と言ってみるのもいい、というお話です。

 

「生きているだけですごい」というメッセージ

Twitterとか見ていると、特に精神的な方面をネタにしている人たちほど、いろいろ精神的なことを語っていたりしますよね。

で、その中の一つに、「生きているだけですごい」とか、「今日も生きたね、それだけですごいよ」みたいな褒め画像とかメッセージがあるように思います。

 

それはおそらく、日常で褒められることや評価されることがなく、むしろ評価されることがない状態だからかな、と思います。

というのも、多くの人や社会が、「何を作ったか」とか「どんな成果を上げたか」、「どれだけ社会に適合したか」ばかりで評価してるわけです。

そんな中、自分だけが何も価値あるものを作れていないし、成果も出せずに、社会にも適合できずにいると。

 

すると、「自分はこの社会にとって、価値がない存在だ」と思うようになるわけです。

「作ったもの」とか「成果」、「適合性」なんてものは、とても表面的なものですよね。

言うなれば、同じ人間で、同じような形をしているのに、そんな表面的なことばかりで待遇が左右されてしまうと。

だから、結果として「生きているだけですごいね」みたいな、「土台部分や存在そのものを評価する言葉」を欲するようになるんじゃないか、と思います。

 

「生きているだけですごい」直後の「許せない」メッセージ

ただ、そういうメッセージを求めても、さして効かないと思うんですよ。

まぁ分かると思いますが、それはとても短期的なごまかしでしかありませんからね。

 

で、実際にそういう人は、その次のメッセージで「こういう政府と政治家が許せない」とか、「こういう人が許せない」みたいなリツイートをしていたりするものです。

もしくは、「自分の価値観を相手に押しつける人」を批難していたり、攻撃していたり。

 

そういうのを見ると、「いやいや、あんたその前のメッセージで、『生きているだけですごい』って言ってたやん!」とか言いたくなりますよね(笑

その状況を冷静に観察すると、一つ前のメッセージで、「生きているだけですごい」、「生きているだけでいい」と言っていたわけです。

なのに、その5秒後にはもうそれを忘れて、「生きているだけでは許さない。そんな行動は許さない。こうしなければ許さない!」と叫んでいるんですから。

 

「自分が最も許せない人に、気がつくと自分がなっている」状況

そして、自分自身がそういう「自分の価値観を、相手に押しつけている人」になっていて。

すなわち、「自分が最も憎んで許せない人に、まさに自分がなっている」ということです。

 

そして、その矛盾というか、支離滅裂な行動に、自分でも気がついていないわけです。

もしくは、うすうす気がついていても、自分でそれを認めたくないのかもしれません。

だから、自分に嘘をついて、「少なくとも私は、こんなに人を傷つけていない」みたいに正当化して、「自分の理不尽な言動は問題ない」と、まさに理不尽に評価していると。

 

子ペンギンの「生きているだけですごいね!」

実はこの「自分が最も憎んで許せない人に、まさに自分がなっている」というのは、本当に知らないうちに起きているんですよ。

 

例えば、最近私が気がついたのが、「かわいいペンギンの子供が、そういうメッセージを発している」というものがあります。

人によっては時々見かけるかもしれませんが、「癒やしイラストと、癒やし言葉」みたいなツイートで、ペンギンの子供イラストが使われていることがあるんですよ。

ペンギンの子供が、「生きているだけですごいね! 頑張ったね!」と、ほんわか語りかけるように励ましているわけです。

 

でもまぁ、よくよく考えてみてください。

なぜ、子供なのか。

なぜ、「大人のペンギンが、自分の子供にそう言って、子供を甘やかしている」という状況ではダメなのか

 

なぜ「大人が言う」ではダメなのか

きっと、「大人のペンギンが、子供に『生きているだけですごいね!』と言う」というシチュエーションでは、様々な感情がわき上がるからじゃないかな、と思います。

というのも、「大人が子供に言う」というシチュエーションのイラストだと、見る側は「この子供は、親から認められてうらやましい」とか、「自分の親は、こうは言わなかった」と感じてしまうことがあります。

すなわち、「自分に言われているわけではない」と感じて、癒やしではなくなってしまうと。

すると、そこから「自分は得られなかった」と感じたり、だから嫉妬や劣等感、過去の苦しみを思い出しやすくなるわけですね。

 

他にも、大人が語ると、つい裏を勘ぐってしまうんですよ。

だいたい、大人は駆け引きとか、本音と建て前とか、いろいろ裏があるものです。

なので、「嘘をついているかもしれない」とか「何か私をうまくおだてて、私をコントロールしようとしているんじゃないか」みたいに、いろいろ裏側を感じてしまって、素直に受け取れなくなります。

 

だから、「大人が語る」では、ダメなんですよ。

純粋で何も知らない子供の姿だから、その言葉が本音だと感じられるわけです。

 

子供に「生きているだけでいい」と言わせる状況

おそらく、なぜペンギンが使われるのかというと、ペンギンは大人の姿と子供の姿が大きく違うからじゃないかと思います。

猫や犬は、大人も子供も大差ありませんが、ペンギンの子供は毛並みがまったく違うので、かわいいし、見た目で明快に「子供だ」と分かりますからね。

だから、ペンギンの子供イラストが使われるんじゃないかな、と思います。

時々、ひよこも一緒にいることも多いように思いますが、それも同じ理由かなと。

 

ただ、よくよく考えてみると、「子供に『生きているだけでいい』と言わせる」というシチュエーションそのものが、恐ろしいと分かります。

だって、それがまさに、「子供に大人の役割を担わせている」ということですから。

 

そもそも、そういう「生きているだけでいい」というメッセージを求める人は、親から「生きているだけでは許さない」と、何かしらの無理な行動を求められたはずです。

そして、親に認められるために、頑張ったり、尽くしたりしたはずです。

でも、その要求や期待に応えられなかったから、「生きているだけでいいと、認めて欲しい」という欲求を持つようになったわけです。

 

こうして、「親と同じことをする自分」になっている

なのに、気がつくと自分がまさに「そんなひどい親と同じ行動」をしているわけです。

子供に自分の精神的な面倒を見させて、気を遣わせて、「子供は自分を癒やすものだ」としているわけです。

で、当然、そのメッセージで満足しきることはありません。

過去に、自分の親が自分にしたことに対して、「あの親は許せない。親は子供のありのままを受け入れるべきなのに、私が親の精神的な面倒を見なければならなかった。だから子供にそんなことをさせるなんて、許せない」と、自分が一番苦しんだはずです。

なのに、まさにその「どれだけ気を遣って尽くしても、満たされない」という行動を、子供にさせていることになります。

 

で、そうやって「子供に言わせる」という行動で、自分だけが癒やされているわけですね。

「子供は、嘘をつかない」と思い込んで。

「生きているだけでいいよ」、「今日も一日、お疲れ様」、「ご飯を食べたね、すごいね!」と笑顔で明るく言っている、子供側の気持ちも考えずに。

 

そして今日も、子供ペンギンは「自分が何を感じているのか」を感じ取られることもなく、大人たちに笑顔を振りまいていると。

そう考えると、軽くホラーだし、悲劇のループでしかありませんよね。

 

「最もなりたくない人間」に、気がつくと自分がなっている状況

これがまさに、「『最もなりたくない人間』に、気がつくと自分がなっていた」という典型例かなと思います。

ゾンビ映画でもあるように、「自分はゾンビにならない」と思っていたのが、気がつくとゾンビになっていたようなものです。

なのに、「自分はゾンビではない」と言って、人を襲い続けていると。

 

そういう「自分が何をしているのかが、冷静に理解できない」という状況が、まさにゾンビの特徴のような気もします。

だから、「生きているだけですごいね!」というツイートの直後に、「生きているだけでは許せない!」というツイートをしていると。

その象徴が、「政府が、政治家が、こういう言動をする人が許せない!」という内容です。

その「許せない!」というメッセージは、相手が、人が、「生きているだけでいい」ということを許せていませんよね。

その自分の持つ矛盾、支離滅裂さを理解できていないわけです。

 

「一つ上の客観性から理解する」ということ

前置きが長くなりましたが、じゃあそういう場合、どうすればいいのか。

そこで一つの提案が、一つ上の客観性から理解することです。

 

そのためにも、まずは「みんなも生きているだけでいい」と言ってみるのも一つの手かもしれません。

「(私が)生きているだけでいい」とするのではなく、「みんなも生きているだけでいい」としてみると。

 

これはよく聞くことだとは思いますが、「みんなも生きているだけでいい」とすると、周囲や相手に期待することとか、「相手をコントロールしようとすること」がなくなります

それは当然で、「みんなも生きているだけでいい」とすると、その人が何をしようが、その人の自由だし、その結果起きることも、その人の責任です。

もしその人がいいことをしたら、その人の人徳という責任だし、もし悪いことをして社会から制裁されるのも、その人の責任です。

そんな風に、「社会からどういう結果(評価や制裁)を得るのかも、その人の行動次第だ」とすることで、その人への「行動をコントロールしたい」という欲求も消えます。

 

これはある意味、「自分がせずとも、天がしてくれる」と、判断を天にゆだねる、と言えるかもしれません。

「世界平和のすべてに対して、自分が責任を負わなくてもいいんだ」ということですね。

 

だからこそ、自分の人生や行動に対して集中できて、自分が完全にコントロール権を掌握できると。

嫌な人や会社、組織から離れてもいいし、その結果起きることや新たに得るものも、自分だけのものです。

他の人の責任は他の人にゆだねて、自分は自分の責任だけを負えばいい、ということです。

 

客観的に、二つの手段を把握する

で、重要なのが、これを知識としてではなく、一つ上の客観性から理解することです。

だいたい、「自分の人生のコントロール権を握りましょう」みたいな言葉は、100回でも1000回でも聞いたことがあるかと思います。

ほとんどの人が、それを知識として聞いて知っているだけで、「またそれか、知ってるよ」と理解していないと。

そして、一つ上の客観性に移動せずに、「知ってるよ」と言葉をつぶやいた5秒後に忘れて、「生きてるだけでいい、この人は許せない」という矛盾と支離滅裂な行動に戻ります。

 

まさに、「ゾンビの考え方」、「子供ペンギンの気持ちを考えていない、大人の考え方」と同じです。

「理解しようとしていない」んですから。

 

すなわち、その客観性に気がついて、「私は何も理解しようとしていなかった」と愕然(がくぜん)とした人から、おそらく抜け出せるんじゃないかな、と思います。

その「私は何も理解しようとしていなかった」と愕然とすることが、「一つ上の客観性から理解する」ということです。

 

まとめ

なので、「生きているだけですごい」で効かないなら、「みんなも生きているだけでいい」としてみるのもいいように思います。

そして、一つ上の客観性から、それを理解することですね。

 

なら、「あ、どっちを選んでもいいんだ。なら私はこっちを選ぼう」と感覚になるかと思います。

すると、自由の意味が分かって、より納得できる道を選べるかもしれません。

 

ということで今日は、「生きているだけですごい」でダメなら、「みんなも生きているだけでいい」と言ってみるのもいい、というお話をしてみました。

今日はここまで~。

この記事をシェア:
Share