今日は精神的なお話です。

「色覚異常は異常ではない」という仮説が面白かったので、ご紹介してみましょう。

 

「色覚異常」は、本当に異常なのか?

ってことで、今日の記事です。

「色覚異常」は本当に異常なのか?(日経ビジネス)

 

この記事にある「色覚異常」に対する仮説が面白かったんですよ。

人の中には、色覚異常を持つ人がいますよね。

色覚には「青と黄色」、「赤と緑」を判別する2つの軸があるんですが、世の中にある色覚異常では、ほとんどが「赤と緑」が判別できないことが多くて。

「青と黄色」は多くの人が認識できるのに、「赤と緑」だけ見えない人が、なぜか多いと。

 

実際にそれで、例えばゲーム制作でも、敵と味方を色で区別するには「青と赤で色分けせよ。赤と緑で作るな」みたいな暗黙のルールがあったりして。

本来ならば、緑の方が「味方、安全」という世界共通認識があるので、味方の色は緑の方がいいんですが、そうはしないわけです。

それは、色覚異常の人にも対応できるように、ということですね。

 

「じゃあなぜそんな違いがあるの?」

そんな風に、色覚異常というものがあるわけです。

でも、そこで発想を変えて、「じゃあなぜそんな違いがあるの?」と考えてみましょうよ、ということです。

すなわち、「赤と緑が判別できない方が、メリットがあるんじゃないの?」という発想です。

すると、「色覚異常は、異常でも何でもなかった」と分かるかと思います。

 

じゃあどういうメリットがあるのかというと、認識できる色が少ないことで、逆に輪郭をとらえる能力とか、明るさの違い、形の違いをとらえるのがうまくなると、上記記事では説明しています。

どうやら、そういう実験結果があるようで。

おそらく色数を減らすことで、脳内での画像処理能力を、輪郭処理とか明度、形状処理に割り当てられるんだろうな、と予想したりもするんですが。

 

「赤と緑」を持つメリット、持たないメリット

すると、「赤と緑」を認識できる個体は、「主に森の中で、木の実を取ることに優れている」と分かります。

というのも、色の違いが分かることで、食べ物を効果的に見つけられるんですから。

 

一方で「赤と緑」を手放して、輪郭や明るさ、形状能力を重視した場合、「森から出て、草原や岩石質な大地、砂漠などで、昆虫や動物などの動くものを見つけることに優れている」と分かります。

というのも、昆虫とか動物は、周囲や自然と似たような色をしていたり、色彩的にカモフラージュしていることも多いですからね。

なら、「赤と緑」を認識する能力を手放してでも、形を見分けられる方が、生存には有利だと分かります。

ある意味、「無駄な脳内処理は手放して、必要な処理に集中しましょうよ」とも言えるかもしれません。

 

犬や猫は、「赤と緑」を認識しない理由

ここからは私の推測なんですが、実際に犬や猫は、「青と黄色、そして白黒」だけで認識して、「赤と緑」は見えていません

それはきっと、犬や猫は狩りをする動物なので、「赤と緑」を認識する必要はないんじゃないかな、と思います。

 

逆に、例えば鳥は、光の三原色だけでなく、紫外線(紫色よりも周波数が短い光)も認識できるので、人間よりも多くの色をとらえることができます。

これは、鳥は人間よりも木の実を食べているので、「形よりも、色で認識しよう」と、色を重視しているからだと予想できます。

 

他にも、例えばヘビや蚊は、赤外線(温度検知によく使われる、赤色よりも周波数が長い光)を認識できます。

それは、獲物を見つけたり、血を吸うために、体温を検知する方が効率的だからでしょう。

でもきっと、それ以外の色は犠牲にしている、というか必要ないので認識していないんじゃないかと思います。

 

普通の人でも、夜は「赤と緑」を処理しない

それとか、たとえ「赤と緑」を判別できる普通の人でも、夜とか暗い場所になると、「赤と緑」の判別ができなくなります

これは実際に、暗闇で試してみるといいでしょう。

光の赤と緑は認識しますが、光を発していない赤と緑は、通常よりも彩度が低く見えるはずです。

また、実際に写真加工をする場合でも、夜の場面を作りたければ、写真に青のフィルターをかけて、赤と緑の彩度を落とせば夜のイメージになります。

 

そういう視覚の性質はきっと、夜は「色を判別して、木の実を取る」よりも、「形を認識して、外敵を察知する」方が重要だからかなと思います。

なので暗闇では、脳があえて「赤と緑」の処理能力を落として、「動くものや形」を認識しやすくしているのではないか、と推測できます。

 

自分の性質に対する、とらえ方を変える

なら、「色覚異常って、異常でも何でもなかった」と分かります。

それは異常ではなくて、目的を持って得た機能なんだと。

すると、自分の性質に対するとらえ方が変わりますよね。

 

私はこういう発想が大好きなんですよ。

私たちは、多くの個性とか性質を持ちます。

特にこのブログを見ている人には、そういう個性を強く持つ人が多いかと思うんですが。

 

で、個性を多く持つ人ほど、「私は普通ではない。普通の人のように生きられない」と苦しみがちです。

だから、「普通になろう」として、できなくて、苦しんで。

でも実際は、そういう多くの個性や性質は、障害でも何でもなくて、「目的を持って作られたんじゃないか」ということです。

 

自分の能力を発揮して生きよう

そういう個性の目的と意味を知ることで、自分の能力を大いに発揮して生きられます

例えば数学で大天才がいたとして、そういう人ほど、他の対人関係とか、性格的な面で点で劣っているように見えたりするわけです。

でも、それは裏を返すと、「社会の中で、あえて部分的に特殊な能力を持つ個体を作ることで、道を切り開くことができる」という生命のシステムなのかもしれません。

 

でも、そういう人が「頑張って他の人と同じようにならなきゃ」とすると、いい点がつぶされた上に、苦しんでしまうと。

「なんでいつも、数字とか数式で考えるんだ! 他の人と同じように、アバウトに考えなきゃ! 私はこんな障害、嫌だ!」

そう思って、それを欠点だとしてしまいます。

でも実は、そういう個性は欠点ではなく、長所なんですよね。

 

「内向型」は、欠点なのか?

他にも、例えば私が提案している一つの推測に、「外向型は社会維持に向いている。内向型は、境地開拓もしくは弱者救済に向いている」というものがあります。

実際に、「一人でいても苦にならない、刺激に鋭く周囲を警戒できる、自分軸を強く持つ」という性質を持つ人がいます。

これは、障害ではなくて、「新境地を開拓するのに優れている性質」だと言えます。

 

また、例えば「普段はあんまり主張しない引っ込み思案な性格だけど、誰かを助けるためなら、果敢に行動する」みたいな性質を持つ人がいます。

これは、「弱者を助けることで、社会の個体をすり減ることを防ぐ役割を持つ」と言えます。

こういう引っ込み思案な性格も、障害ではなくて、一つの使命だと分かります。

この辺を詳しく知りたい場合、私が書いた電子書籍「高共感な人の生き方戦略」に詳しく書いているので、ぜひどうぞ。

 

それを生かせる場や状況がある

それとか、最近私がよく言っていることに、「未来をつい考えるタイプ」もいるでしょう。

そういう人ほど、安定期ほど、リスクに対処しても無意味なので、「今を生きなきゃ」と苦しみがちなんですが。

でも、今のようなコロナウイルスが起きたり、災害時などの激動の時代には、リスク対策ができる方が生き残れます。

だから、「今を生きられない」とか、「未来に不安を持ちがち」というのも、障害や欠点ではなくて、生命がどんな時代でも生き延びるために持つようになった、一つの機能なんだと。

 

他にも、いろんな性質があるでしょう。

人と同じように生きられない、我慢ができない、ストレスに弱い、刺激に鋭い、人付き合いが苦手、不安を抱えがち、悩みがち、しゃべるのが苦手、注意が散漫になってしまう、しゃべるのがつっかえる吃音(きつおん)を持つ、みたいに、いろんな個性があるかもしれません。

それは欠点や障害ではなく、強みの一部分ですよと。

「外向型のようにならなきゃ」とか、「今を生きなきゃいけない」とする必要はなくて、その意味や目的を知ることで、その機能をうまく使えるようになるわけです。

 

まとめ

すると、「自分の欠点だと思っている部分には、ひょっとすると目的や意味があるのかもしれない」と分かります。

そういう意味を理解できると、「無理にみんなのように生きる必要はなかった」と分かって、自分なりに強みを発揮して生きられるかもしれません。

 

色覚異常は異常ではないし、内向型とか、多動性障害とか、そういう先天的な個性には目的があるんだと。

私の周囲には時々吃音(きつおん)の人がいますが、きっとそういう吃音(きつおん)も、何かしらの意味、もしくは「何かを得るための犠牲」という側面があるだろうと思ってます。

で、その「何を得るために、そうしているのか」を読み解くことで、新たな可能性が見えるように感じます。

すると、苦しみだと思っていたものが、一気に強みになって、世界が変わるかなと思います。

 

ということで今日は、「色覚異常は異常ではない」という仮説が面白かったので、ご紹介してみました。

今日はここまで~。

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