今日は他のネタで記事を書こうとしたんですが、うまく書けなかったので、つらつらと精神的な内容を書いてみましょう。

陰謀かどうかを判断する、私なりの判断基準についてお話ししてみましょう。

 

陰謀論は、本当か嘘か

陰謀論って、最近よくあるじゃないですか。

こういうのは、大規模な自然災害とか被害があった場合に、よく起きるものですが。

当然ですが、「陰謀論」と言われるぐらいなので、「見た目では自然災害か、自然現象」というものに用いられます。

それは当然で、戦争とか企画ごとは完全に人為的なものなので、普通に「誰かによる、思惑やたくらみがあって行われるもの」だと分かるからですね(笑

 

例えば今回のコロナウイルスでも、「こういう組織が仕組んだものだ」みたいな話が、100でも1000でもあると。

地震があれば「こういう組織が兵器で地震を起こした」とかなるし、台風なら「この自然改変兵器が」となったり。

そして隕石が落ちれば「こういう宗教儀式で隕石を導いた」とか、風邪を引けば「こいつが俺を呪って風邪を引かせた」とかなるわけです(笑

日本にある「くしゃみをした。誰かが噂をしているのかも」というのも、陰謀論と言えば陰謀論になるのかもしれません。

 

いや、実際に奈良時代とか平安時代では、そういうのが公式で認められていたんですよ。

例えば平安時代では、桓武天皇は怨霊を強く恐れていたし、「自分の体調不良は呪いによるものだ」という判断が公式見解だったと。

で、陰陽師(おんみょうじ)が活躍したり、仏僧が国家のために雇われることになったりします。

陰陽師が実際にいろいろまじないごとをするのと同じように、仏僧も国家安泰を祈願することで、そういう「霊的な祈祷が国をよくする」と信じられていたわけですね。

だから、天皇という政治のトップが陰陽道に通じることもあったし、仏僧は元は国家公務員でもあったと。

 

「究極の原因」を見つけ出そうとする傾向

まぁそういう歴史があるぐらい、私たちは「これが究極の原因ではないか」という根本原因を見つけ出そうとする傾向があります

実は、この「究極の原因」を見つけ出そうとすること自体は、悪いことではないんですよ。

私たちは5~10万年前に「物事には、因果関係がある」ということを理解できるようになりました。

 

因果関係という概念を理解できるようになると、「より根本原因を対処すれば、うまくいく」と推論できますからね。

例えば毎年洪水に悩んでいても、「毎年洪水で場当たり的に対処するよりも、川のここに護岸を造ればいい」とか、「ここの流れを変えると、穏やかになって洪水がなくなる」みたいに対処できます。

そうやって、因果関係を研究することで、科学が発展したし、いろんな工夫ができるようになったわけです。

 

劣勢になっている人ほど、「一つの究極の原因」を設定しやすくなる

ただ、劣勢になっている人ほど、そういう「一つの究極の原因」を設定しやすくなります

というのも、劣勢になっているほど、多くの余裕を持たないからですね。

お金がないかもしれないし、時間とか体力、精神的な余裕を持たないかもしれません。

だから、少ししか対処できないわけです。

 

すると、人は「これが根本原因じゃないか」という究極の「自分でも簡単に対処できそうな、1つの根本原因」を仮定して、それを排除したり、対処しようとします。

というのも、1つに集約する方が、少しの資源で楽に対処できうるからですね。

例えば「洪水対策のために、護岸を作るのに50億円が必要」とするよりも、「根本は神の怒りだ。だから神の怒りを抑えるために、祈ろう」とする方が、より少しの資源で対処できると分かります。

 

人は破産寸前になるほど、ギャンブルをする

ほら、よく「人は破産寸前になるほど、ギャンブルをする」とか言うじゃないですか。

それは、人は「できるだけ簡単な解決策に集約して、それに賭ける」方が、より実現可能性が高いからですね。

少なくとも、資源がない状態では、「多くの資源を必要とする手段」は可能性がゼロです。

一方で、「神がかりでも、少ない資源で対処できる手段」の方だと、100万分に1ぐらいの現実可能性はあるかもしれません。

 

それに、人の脳は、確率を理解できません。

1/3と1/100と1/10000で起こる確率を、イメージでしにくいわけです。

裏を返すと、「ひょっとすると、宝くじや万馬券が当たるかもしれない」とイメージすると、それがあたかも本当に起こったかのようにイメージできます。

すなわち、確率的にはありえないことでも、「宝くじや万馬券が当たったら、こうなる」と、妄想はできるし、妄想するほどリアリティを持って実現可能性を感じられます。

 

だから、「ゼロではない方がいい」と判断して、どんなに確率の低いギャンブルでも、それに賭けてしまうわけです。

そしてリターンが大きいギャンブルほど確率は低くなるのに、その確率を理解できません。

こうして、「劣勢になったときのギャンブルは、確実に身を滅ぼす」という経験則が生まれるわけですね。

 

劣勢な人ほど、陰謀論に惹(ひ)かれる

これと同じ現象が、陰謀論でも起きやすいように感じます。

すなわち、現実で劣勢な状態の人ほど、1つの根本原因を仮定しやすくなると。

それが陰謀論になりやすい、ということですね。

 

もちろん、本当の陰謀で引き起こされたことも、多くあるでしょう。

実際に「ごく少数の人が、誰にでもできうる妥当な原理で行動したことで、大きな社会的な影響が出たこと」は、私の中では陰謀である可能性は高まります。

というのも、少数の人で実現できることで、妥当な原理で行動できるほど、実際に可能性は高まりますからね。

例えばテロ行為、不正行為、賄賂(わいろ)とかは、だいぶ少数で実現できるし、陰謀の率が高くなりそうだと分かります。

 

一方で、ありとあらゆる天災を引き起こす兵器とか超技術、神に祈って呪いや病を引き起こす技術とか、惑星の配置を利用して他者に影響を与えるとか、そういうのは陰謀率が低くなりそうだと予想できます。

いや、私には実際はどうかは分かりませんけどね(笑

 

私が究極の秘密結社リーダーなら、どう陰謀を実現するか

で、一つ妥当な考え方があるとするなら、「もし私が世界で究極の悪い秘密結社リーダーなら、どうするか」を考えてみることですね。

そして、目的と手段が妥当なものかを考えます。

すると、「他にもっといい手段やタイミングがいくらでもあるだろう」とか、「その目的のために、その手段をこの時点で使うのは、アホでしかない」と分かることが多くあります。

 

で、もう一つあるとするなら、「本当の陰謀は、絶対に表面化させない」ということです。

すなわち、「陰謀論が表に出るほど、陰謀ではない。陰謀論が表に出ないことほど、陰謀でありうる」という判断基準ですね。

 

もし究極の秘密結社があって、私がそのリーダーなら、陰謀は隠しますし、SNSやマスコミに圧力をかけて話題にすることすら封殺するでしょう。

なので、陰謀論が多く出て話題になること自体が、「究極の秘密結社によるもの」ではなさそうだ、という根拠の材料にできます。

 

もしやるなら、カモフラージュを使う

一方で、もし陰謀であれば、私なら陰謀には「カモフラージュ」を使いたくなるでしょう。

これは一つの陰謀を実行するために、一般人の目を、他に「見た目ではインパクトがあるけど、実質では結構どうでもいいこと」に向けさせるわけです。

例えばアメリカのUFOがそうですが、UFO自体はカモフラージュ、すなわち政府の目くらましに使います。

で、政府が大々的にUFOについて言い始めると、「人々を宇宙や空軍に目を向けさせて、自分たちは影で、陸軍や海軍で何かの陰謀や、人に注目されたくない任務や処理を遂行する」とするでしょう。

だって、UFOとか無害ですからね(笑

 

それとか、少し前にあったことでは、オスプレイの配備でしょうか。

私はあのニュースを見て、「カモフラージュっぽいな」と強く感じたんですよ。

 

だいたいオスプレイそのものは、一応でも「飛行機は大量に資材を輸送できるけど、長い滑走路が必要になる。一方でヘリは狭くても着陸できるけど、多くの物資を運べない」という問題があるわけで。

なら、飛行機とヘリの中間を作ることで、「災害時でも、大量の物資を、孤立した狭いピンポイントに届けられる」というメリットがあると。

ある意味、リスクリワード(リスク対利益)があるのは当然なのに、当時は存在そのものを否定するばかりで、沖縄の基地がやり玉に挙げられていたと。

 

世間を一カ所に注目させて、離れた場所で何かをする

そういう場合、私が悪のリーダーなら「北海道ぐらいで、何かやってるかもしれないな」と感じるわけです。

というのも、オスプレイの存在性そのものは、UFOと同じで大きな問題にはなりにくいと。

すなわち、「見た目では安全性というインパクトがあるけど、実質では結構どうでもいいこと」という内容だったわけです。

 

それが、あれだけ報道で騒がれたということは、そして日本中が沖縄に目を向けていたということは、「私なら、このタイミングで、北の方で何かやるな」という判断です。

で、その時にやったことは、絶対に表に出さないし、確実に情報も封殺すると。

 

私が何か陰謀をする場合、そういう「さして重要でもないことを、人為的なことで世間が大騒ぎして、人々の目が一カ所に集中させる」ということを使いそうに思います。

裏を返すと、そういうカモフラージュがあるときに、陰謀がありそうに感じます。

 

まとめ

まぁそんな風に考えると、陰謀論への距離感がつかみやすいように感じます。

劣勢になっている時ほど、1つの根本原因に集約しやすいですからね。

 

それはそれで一つの考え方なんですが、「根本原因である他者を排除する」ことと、「自分が豊かになること」のどちらが目的なのかを考えるといいかなと思います。

まぁ、現状維持をしたければ、「嫌な相手をどんどん排除する」が効果的でしょう。

ただ、もし「自分が豊かになること」が主目的である場合、周囲を変えるよりも、自分が変化することが手っ取り早いことが多くて。

私はそういう「周囲を変えるよりも、自分が身軽になって、ひょいひょいと問題を乗り越えて、理想の生き方を実現してゆく」というスタイルが好き、というだけです。

 

もし私が「コロナウイルスは本当に存在するのか」という部分に興味を持ったなら、私ならば電子顕微鏡でも入手して、実際に調査を始めるでしょう。

そういう好奇心を優先する、ということですね。

私にはその方向に好奇心は持っていないので、「分からない。興味もない」で終わらせて、自分が興味あることや、熱中できることに集中しています。

で、「コロナウイルスそのものの真偽」は分からなくても、「コロナウイルスという現象に影響を受けている人たち」は確かに存在するので、その対処はしていると。

 

そう考えると、陰謀論とうまく付き合えそうに思ったりもします。

 

ということで今日は、陰謀かどうかを判断する、私なりの一つの判断基準についてお話ししてみました。

今日はここまで~。

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